第2話 これからどうする?

「ああ、せいせいした!」

 スマホの電源を切り、誰もいない海に向かって思いっきり叫んだ。

 今後のことなんて何も考えていない。それでも、胸の奥に秘めていたことが言えて、これまで淀んでいた心が少し晴れた気がする。

「さて、どうしようかな……」

 時間はたっぷりある。あらためて辺りを見回してみた。

 誰もいないと思っていた砂浜にも、よく見ればランニングをする人や砂浜のゴミを拾っている人、犬と散歩を楽しんでいる人などがいる。振り向けば、通勤や通学で忙しそうに行き交う人々の姿も見えた。


 さっきの私の心の叫び、もしかして聞かれてしまったかも……?

 ちょっとだけ恥ずかしくなった。

 ま、いっか。もうどうにでもなれ。他人からどう見られようと気にするのはやめた。私は私だ。

 砂浜はパンプス向きじゃないし、海沿いの道でも歩いてみよう。


 表通りをバスが通った方へ歩いていく。石畳風に造られた広い歩道は、砂が浮いていても滑らずに歩きやすい。

 歩いているうちに、防風林の密度が増していくのがわかる。黒松の間から見えていた海も、次第にその姿を隠していく。陸地側にはゆるやかな丘が広がり、その斜面には住宅が整然と並んでいる。



 どれくらい歩いてきただろうか。黒松の間に看板が現れた。松の葉に隠れて見えにくいが”駐車場入口”と読める。

 海に駐車場?

 近付いてよく見ると、看板には”海浜公園駐車場”と書かれている。どうやら砂浜ではなくきちんと舗装された駐車場のようだ。防風林が途切れた先は、道路から海岸まで一面に原っぱが広がっている。

 せっかくだから公園で休憩していこうかな。砂浜じゃないならパンプスでも歩けそうだし。


 公園とうたいながら、遊具があるわけではない。広い原っぱにベンチがいくつか置かれているだけ。駐車場と公園の間に、自動販売機が置かれた小さな建物がある。これは管理事務所か、あるいはお手洗なのか……。杭とロープで仕切られた先には海が見えている。

 自動販売機で温かいココアを買って、手近なベンチに腰を下ろした。

「わっ、冷たい!」

 なにげなく座ったベンチは木材風に作られたコンクリート製だった。海の近くは強風に晒されることもあるから、風で飛ばされない対策なのだろう。

 お尻を冷やさないように、ハンドタオルを敷いて座ることにした。


「今頃みんな、あくせく働いているのかな」

 長く頑張ってきた時間が虚無感の渦に飲み込まれる。

 さざ波の音を聞きながら、ぼんやりと目の前に広がる海を見続けた。寄せては返す白波も、先の見えない水平線も、私が生まれるずっと前からここに存在している。時には強風に煽られることもあるだろう。強い日差しに照らされ続けることも、凍えるような海流に流されることも。人間に汚されても文句ひとつ言わない。

 海のように広い心を持てと言うけれど、私は卑しく狭い心しか持ち合わせていなかった。たった数年の会社勤めでさえ、我慢することができないのだから。

「すごいな、海……」

――グゥゥゥ

 センチメンタルな気分をぶち壊すように、お腹が鳴った。

 家を出るまでは食欲がなかったものの、会社というストレスから開放されたうえに、普段よりたくさん歩いたからか、ようやく空腹を感じたようだ。

 “働かざるもの食うべからず”ということわざに勝るのは、“腹が減っては戦はできぬ”という言葉じゃないだろうか。

「うん。なんか食べよう。近くに朝食を出しているお店がないかな?」

 公園を出て表通りへ戻る。通り沿いに並んだ建物にはレストランらしき店もあるが、今の時間帯はどこも開店前のようだ。喫茶店なら早い時間から営業しているから、モーニングが食べられそうな気がする。丘を上った住宅街で探してみよう。


 公園からは白い歩道橋で表通りを跨ぎ、丘陵の住宅街へ行くことができる。緩やかな丘に思えたが、歩いてみると上り坂はそれなりにきつい。運動不足と体力のなさを嘆いたところで脚の張りが収まるわけでもなく、明日はきっと筋肉痛に苦しむことだろう。

 上って行くと細い路地の先に住宅は多数あるものの、喫茶店はおろか、店舗のような建物はどこにも見当たらない。

 せっかくここまで来たのに、どうやら無駄骨だったようだ。仕方がない戻ろう。

 諦めて振り向いた時、ふっと”coffee”という英文字が視界の隅に映った……ような気がした。

「あれっ、どこだろう……?」

 きょろきょろと辺りを見回してみるが、看板もなければ、それらしい店も見当たらない。

 願望が強すぎて幻覚が見えた……?


「お嬢さん、なにかお探しですか?」

 すぐ近くの庭先から声がした。ほうきを手に、庭の落ち葉を掃除をしていたと思われるご老人がこちらを見ていた。老人というよりは紳士な雰囲気を纏っている。整った白髪に白い口髭、低くて落ち着いた声質が安心感を誘う。

 他に女性は歩いていないから、“お嬢さん”は私のことで間違っていないのだろう。

 では、できるだけお嬢さん風に――

「この辺りに喫茶店があるような気がしたものですから」

 紳士な老人は口元の髭に触れながら、「喫茶店ですか? ふむ」と考え込んだ。首を傾げた後方に、掃除をしていた庭がある。水色のペンキが塗られた木戸には、マジックで書いたのかと思われるくらい小さく”coffee”と書かれているのが見えた。

「えっ? あの……、ここってお店なんですか?」

「ええ。コーヒーと、簡単なものしかお出しできませんが。自宅を改装したカフェみたいなものですから」

 少々ピントがずれた返事ではあったが、喫茶店だろうとカフェだろうと、空腹を満たせるのであればなんでもいい。

「あ、でもまだ開店前ですよね。掃除をされていたのだから」

「別に構いませんよ。営業時間などないに等しいので、お客様ならいつでも歓迎いたします。当店でよろしければどうぞおくつろぎください」

 これぞ渡りに船。紳士なご老人がカフェのマスターだったなんて。

 マスターに促され、木戸を通り抜けて庭へ。裏口にあたる扉がカフェの入口になっている。扉の前にも店の看板などはなく、誰が見たって普通の家だと思うだろう。教えてもらわなければ近所の人でも気付くまい。


 店内はさすがに広いとは言い難く、カウンター席にイスが四つ並べられただけの簡素な造り。お洒落なカフェといった明るい雰囲気ではなく、どちらかというと古風な喫茶店に近い。カウンターの前に立派なコーヒーマシンや、コーヒー豆が入った瓶がいくつも並び、焙煎された豆の香りが漂う。奥には狭いながらも調理をする厨房も見える。

 四人しか座れない小さなカフェだから、老いたマスターがひとりで対応するには妥当な人数なのかもしれない。


「品数は少ないのですが……」とメニューを差し出された。てっきりマスターの手書きで作ったものかと思ったら、レストランのような写真付きのメニューで驚いた。

 どうやらコーヒーをメインとした店のようで、定番のコーヒー銘柄がずらりと並び、後半に申し訳程度の軽食が数点ある。

「それじゃあ、ブレンドコーヒーとオムライスもお願いします」

「かしこまりました。少々お時間を頂戴いたします」

 いつの間にかエプロンを身につけて、本格的なマスターへと変身していた。年の頃でいうと七十くらいだろうか。外で見た時は失礼ながら”ご老人”と表現していたが、身なりがよく、背筋もしゃんとしている。なによりてきぱきと手際が良い。私なんかよりはるかに――と言った方がいいのかしら。



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