アパートの他の部屋に被害は及ばなかったけれども、柴崎家の住まいは大半が焼け焦げて、父と駿太は死んだ。しかし、隼人だけは幸運なことに無事で、ケガも跡が残らない軽いやけどで済んだのだった。もっとも、当の隼人は運が良かったなどとはこれっぽっちも思わなかったが。

 その後彼は、両方の祖父母ともすでに亡くなっていたり健康に問題があったりして育てていける態勢にはなかったために、独身で一人暮らしだった母方の叔母のもとに引き取られた。学校はその叔母の居住地近くのところに通うことになって、転校をした。

 誰も知らなかったのだから、当然叔母も隼人と駿太が父親から暴力を振るわれていたとは夢にも思わなかった。それゆえ彼女は、火事の件や他界してしまったことを踏まえてしばらく経ってではあるが、隼人に両親の話をし、そこで隼人は自分の中ではずっと冴えないだけだった父親が優れた野球選手であった事実を初めて耳にしたのだった。父は自慢や過去の思い出などを語るタイプではなく、彼は父親が野球をやっていたことすら知らなかったのである。

 隼人は新しい学校で他の生徒たちになめられないように、得意なスポーツの才能をいかんなく発揮し、将来その道へ進むことを念頭に置いてもいたが、その叔母の話によって、ちょうど迫っていた小学校の卒業を機に、すっぱり運動から離れる決断をしたのだった。元々彼はスポーツで食べていくのはリスクが大きいという点にうっすら気づいていた。それは父のようなケガだけでなく、チームスポーツだったらどんなに結果を残そうとも監督などの構想に合わなければ試合に出られなくなってしまうこともあるとか、そういった負の側面を父の話をきっかけにしてはっきり意識したのだ。しかしそれ以上に、単純に父親イコール反面教師であって、同じ方向に行くべきではないという感覚が強く影響した。父の昔の栄光を誇らしいだとか、父のぶんまで自分がスポーツで成功してみせるなどと考えることはなく、勉強に必死に取り組むようになったのだった。

 話は隼人が誰かに語りかけられた気がした場面に戻るが、その誰かとはもう一人の自分、言わば本音の自分であった。

 彼は心の中でしゃべった。

 あの火事の前、親父に暴力を振るわれたり生活が苦しかったり絶望的な状況で、俺が生きる理由はただ一つ、駿太がいることだった。

 あいつは死ぬ間際に、俺に「自分のぶんまでいっぱい生きてほしい」とか「頑張って立派な大人になってほしい」などと言い残したわけじゃない。

 だからあいつが死んだのなら俺も後を追って自殺でもすりゃよかったし、火事以前はそういう気持ちでいた。

 だけど、いざとなったら死ぬのは怖くて、生に執着して、自分で自分をごまかすために、「あいつの兄だと胸を張って言える人間になる」などと意味のわからない、かっこつけただけの目標を作りあげ、可能な限り社会的に高い地位に就こうと精一杯努力してきた。だからこそ就職活動のとき、井野をはじめとしてあまりいい印象じゃなかったし、温かい雰囲気で気持ちよく働けそうな別の会社からも内定をもらったのに、ランク的に一番上のあの企業を選択した。

 しかし、いよいよ社会へ足を踏み入れる間近になり、そのまやかしを隠しきれなくなったんだ。

 そうはいっても、まだ新入社員になるに過ぎず、何も結果を残していない、ここからだろう、と指摘されれば、その通りかもしれない。でも俺の力では、例えば社長や専務まで出世するといった、さらなる地位向上など期待薄だし、そもそも頭にあったのは社会人になるまでだった。あの火事以降ずっと目指していたところに到達しちまったら、この先何をモチベーションに働きなどすればいい? それに、所詮俺はあの親父の子どもで、社会で普通にやっていくのすらままならないんじゃないかという不安もある。

 ともかく、これまで勉強に傾けていたのと同じかそれ以上のエネルギーを、それももっと長い期間、働くことに注がなければならなくなるだろうけれど、何の目的や希望もなくそんなことができるなんて考えられない。とてもじゃないが無理だ——。

 隼人は変わらず歩いていた路上で足を止め、茫然と立ち尽くした。その目には景色がぐにゃりとゆがんで見えていたのだった。

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