なぜだ——。

 夕方、電車を降りて、帰宅の人でごった返す駅の改札を通り、しばらく進むと近くに誰もいなくなって、沈みゆく太陽を背に一人自宅へ向かう道を歩きながら、隼人は思った。

 あんな程度のことでキレてしまうなんて。情けないにもほどがある。今まで生きてきたなかには、もっと嫌な奴や、腹の立つ場面など、いくらでもあった。それらを大概はうまく乗り越えてきたというのに。

 どうも最近、抑えが利かなくなっている。

 隼人は以前奈穂子に話した通り、生きていくため、困ったとき助けてもらえるかもしれないし、敵もつくらないように、他人との良好な付き合いを心掛けており、慣れてきた中学の途中から現在の大学で就職活動が始まる前くらいまでは完璧に近いほどそれを実践できていた。ところが、八幡にもだが、彼と揉める原因となった美幸という女子学生に対しても、八幡には彼女のためを思ってなどと説明したけれど、美幸の交際を求めるしつこい態度にうんざりしていたのを、我慢しきれずに冷たい言葉を浴びせてしまったというのが本当のところだった。

 ——どうしてなのか、理由はわかっているんだろう?——

 誰かがそう語りかけてきた気がした。

 彼、柴崎隼人は、記憶にほとんどないほど早くに母親を亡くし、父親と弟との三人で暮らしてきた。

 父親は子煩悩ではなかったものの、シングルファザーという大変な状況で、息子二人を立派に育てていた。

 ただし、それは平常時で、仕事で嫌なことがあったときではないかと隼人は踏んでいるが、時折する飲酒をした際に暴力を振るうのだった。たとえたまにであったとしても、恐怖や不安はずっとつきまとうものだ。そして他人にその事実を知られることはなかった。

 その父は、幼い頃から野球をやっていて、才能に恵まれたピッチャーで、高校生のときにはプロのスカウトが目をつけるレベルであった。実際にプロに入れるかは定かでなかったが、社会人野球でのプレーはほぼ約束された立場だった。

 しかし、肩を壊して、野球を続けられなくなってしまう。

 スポーツ選手によく使われる言い回しではあるが、本当に、彼は野球しか知らなかった。勉強は苦手で身についているものはほとんどなかったし、周囲の人間に助けてもらう愛想の良さや器用さなども持ち合わせていなかった。そうした彼自身の問題にとどまらず、野球ができなくなると途端に離れていった人は数えきれないくらいいたし、健康で順調なときは他の物事にうつつを抜かしたりせず野球に集中すべきだと偉そうに話していた大人たちも、ぱたりと何も言ってこなくなった。

 この先どうやって生きていけばいいのかわからず、彼は途方に暮れた。

 そんなどん底で、唯一の味方と言える存在だったのが、同じ学校に通っていて、妻となった女性であり、高校を卒業してからフリーターのような状態の彼としばらくの交際を経て結婚すると、しっかり者で家事の大半をこなしつつ、彼一人では満足な収入を得られないために外で働いて家計を支え、明るい性格で精神的にも救いとなった。狭いアパート暮らしであることに加え、自分のすべてだった野球を失ってしまったけれど、幸せとはこういうものかもしれないとほんのり感じ始めていた。

 そんな矢先に、彼女が交通事故に遭って即死してしまったのだった。彼は、自分は疫病神に取りつかれているのではないかと思った。

 ともあれ、誕生していた幼い二人の息子を育てなければならない。野球以外の特技がないうえに性格的に未熟な点も多分にあり、毎回苦労してなんとか就くことができた、大抵は不安定な立場の職を、クビになったり自ら辞めたり転々としながら、どうにか生きているという日々を過ごした。しばらくして行うようになった子どもたちへの暴力は、隼人の推測通りではあるけれど、自我が芽生えて言うことを聞かないなど思うように動かない我が子に対する日頃の育児ストレスも背景にはあったのだった。

 三人家族の残りの一人である隼人の弟は、名前を駿太といい、兄弟は二歳違いであった。ともに父親から暴力を振るわれたことが作用しているのかもしれないが、二人はほとんどケンカをせず、隼人は弟のためにできる限りの助けをする兄らしい兄、駿太は兄に甘える弟らしい弟という関係だった。もし兄弟がおらず子どもが一人だったら、父からの暴力に耐え続けることは、駿太もだろうし、自分も無理だったはずだと隼人は思っている。二人はお互いが心の支えであり、強い絆で結ばれていた。よく一緒に遊んだし、つらいだけの毎日ではなかったのだった。

 そして、隼人が小学四年生、駿太が小学二年生のときだった。隼人が普通にもう少し大きくなれば、父に一方的に暴力を振るわれる状態は終わりを告げていたであろう。彼が同じように腕力で抵抗や反撃をしたかはわからないし、兄弟二人にとって好ましい方向へ進んだかも定かではない。ただ、何らかの変化は訪れたに違いないが、この時点ではまだ幼い頃からのままで、それは母親が亡くなった際と同様であっという間の出来事だった。

 秋が遠のき、冬が本番に突入したという時期の、とある夜。一家全員が眠っているなか、父のタバコの火の不始末によって、自宅が炎に包まれたのだ。

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