第39話

「その。

……漸、というのは」


怒られるそうだよね、一回りも年上の男性を呼び捨てだとか。

しかも漸は私を鹿乃子さんとさん付けで呼ぶのに。


「あの、ダメですよね、やっぱり。

えと、じゃあ、漸……」


「鹿乃子さんから漸と呼び捨てにされるのは、鹿乃子さんの男という感じがして好きです」


にへら、と実に締まらない顔で漸が笑う。


「……私は鹿乃子さんの男ですよね」


「ひゃぁっ」


わざと耳もとで、甘い重低音ボイスで囁かれ、背筋がぞくりとした。


「……ねえ。

もう一度、言ってください。

漸は私の男だって」


「……や。

……ムリ……」


平常状態であんな台詞を言うのは恥ずかしいのに、さらに耳へ吐息をかけながら囁かれ続けたら無理。


「……言ってください、私の男だって」


「……あっ、……んん」


漸の艶を帯びた声が、私の耳を犯す。

それだけでおかしくなりそうだ。


「……鹿乃子。

言え」


「はぁっ、……あっ」


涙の浮いた目で漸を見上げる。

ゆっくりと眼鏡を外した彼は、火傷をしそうなほど熱い瞳で私を見ていた。


「……言え、鹿乃子」


燃えさかる石炭のような目には逆らえない。

震える唇で言葉を紡いだ。


「漸は、私の、男、です」


「うん」


「漸は私の男だから、誰にも渡さない……!」


「上出来」


瞬間、噛みつくみたいに唇が重なった。

何度も何度も、唇を触れあわせる。

その先に進みたいのに、漸はくれなくてもどかしい。


「……漸……」


もっと深く、繋がりたい。

期待を込めて見つめる。


「ダメですよ。

ここでは鹿乃子さんを抱かないと言ったでしょう?

続きは金沢に帰ってから、です」


ふふっ、とおかしそうに笑い、再び漸は眼鏡をかけた。


「明日は店に行って仕事の整理をしてきます。

ベッドの搬入、お任せしますね」


「ベッド、買ってよかったんですか?

もう店を辞めるんだったら」


ここで過ごすのはそんなに長い期間ではないはずだ。


「そうですね、店の仕事の整理に半年くらいかかると思います。

仕入れも経理も主に私がやっていましたから。

副業の方も本拠地を金沢へ移す準備をしないといけません。

早く可愛い鹿乃子さんと暮らすあの家へ引き上げてしまいたいですが、もうしばらくは無理ですね」


すぐにあちらへ移れるなど思っていない。

でも思った以上にかかるみたいで、ちょっと……。


「もしかして、淋しいですか?」


「そ、そんなこと、あるわけないじゃないですか!」


笑って誤魔化したけど、気づかれてないよね……?


「なるべく早く、片付けるように努力します」


くすり、なんて笑われたから、漸には私の小さな見栄なんて見抜かれているんだろうな……。


「明日、副業のパートナーに紹介します。

夜は期待していてください。

彼は私と違い、お洒落で美味しいお店をたくさん知っていますから」


「それは楽しみにしています」


……なーんて嘘。

そんなお店は、漸とふたりきりで行きたいに決まっている。


今日もソファーベッドに敷きパットを敷き、そこで寝る。


「明日からはゆっくり眠れますから」


「……これはこれで漸の体温が温かくて、癖になりそうですけどね……」


ぎゅーっと漸に抱きついて、目を閉じる。

今日は精神的に疲れていて、すぐに眠気が襲ってきた。


「おやすみなさい、私の可愛い鹿乃子さん」


優しい漸の声を最後に、眠りに落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る