第38話

帰りは誰も見送りにすら出てこなかった。


「タクシーを呼んでもいいんですが、少し歩いたら大通りなのでそこで拾った方が……」


「あー、怖かったー」


「……鹿乃子、さん?」


門を出て、ようやく大きく息を吐き出す。

そんな私をさぞ不思議そうに漸は見た。


「もしかして、緊張していたんですか」


「するに決まっているじゃないですか。

……あ、どっちですか」


漸の手が私の手を取り、歩きはじめる。


「堂々としていらっしゃったので、さすがおじい様の孫だけある、肝が据わっているなと思っていたのですが」


「えー、めちゃくちゃ怖かったですよ?

泣きたくなりましたが泣いたら負けだと思って」


じいちゃんがいるから大丈夫、ずっとそう自分に言い聞かせていた。

じいちゃんが私を守っていてくれているから大丈夫。

何度も、何度も。

そうじゃないと、挫けそうだった。

今日は祖父の作ってくれた着物を着てきて正解だ。


「絶対に漸を連れて帰るんだって、ただ夢中で。

でもよかった、これで漸と金沢へ帰れる」


「鹿乃子さん……!」


いきなり、漸に抱き締められた。

毎度のごとく足が宙に浮く。


「ありがとうございます、鹿乃子さん」


「私は、なにも。

それより早く、マンションに帰りましょう?

正直に言うと、まだ足が震えてて」


こんなことを告白するのは恥ずかしいが、そのせいでさっきから歩くのに転けそうで怖いのだ。


「可愛い、鹿乃子さん」


「えっ、あっ、下ろして!」


漸が私をお姫様抱っこする。

そのまま通りで拾ったタクシーに乗るまで、下ろしてもらえなかった。


なにか食べて帰る気にはなれず、コンビニに寄ってもらってお弁当を買い、マンションに帰る。

金沢の家ほどではないが、それでも漸の部屋だってだけで安心できた。


お弁当を食べたあと、漸がコーヒーを淹れてくれた。

インスタントコーヒーなのはかまわないが、カップがひとつしかない。

足の間に私を座らせて後ろから抱き締めながら、ときどき私の手からカップを取って漸が飲む。


「もしかして初めから、結婚を断って家を出る気でしたか」


私はお父さんを煽るだけ煽って全く役に立っていない。

最終決断を下したのは、漸だ。


「私は鹿乃子さんを諦めて、相手の方と結婚する気でした」


カップからひとくち飲み、私に戻してくれる。


「脅されたんです、父に。

結婚を承知しないのなら有坂染色を潰してやる、と。

そしてそれができる人なんです、あの人は。

鹿乃子さんに、有坂のご家族に迷惑をかけたくないので、身を引こうと思いました」


「……そんなの、私が許さない」


振り返り、漸の顔を見上げる。

レンズの向こうからは凪いだ瞳が私を見ていた。


「でもこれは、私の復讐だったんです」


「復讐、ですか?」


「はい。

言ったでしょう?

私は不能かもしれない、と。

鹿乃子さん以外に勃つ気が全くしません。

そんな男に大事な娘を嫁がせたとなれば先方は激怒しますし、当然、私の両親も大恥を掻きます。

いい気味だと思いました」


ぎゅーっと、漸が私を抱き締める。

そんな悲しい復讐、しなくてよかった。


「私は試したんです、鹿乃子さんを」


「……試した?」


って、私には全く自覚がない。


「鹿乃子さんが少しでも私の結婚を嫌がってくれたら、鹿乃子さんをきっぱり諦めようと決めていました。

そうしたら、鹿乃子さんが私のものだと言ってくれてました。

その言葉だけを抱いて、鹿乃子さんのいないこのあとの人生も歩んでいけると思った」


漸の目が潤んでいく。

それに胸が苦しくなって、その頬にそっと触れた。


「漸……」


「だから私は、父が希望する相手と結婚しようと決めました。

……でも」


漸の手が私の手に重なる。


「鹿乃子さんは何度も、私に諦めるなと言ってくれた。

店での私を見てもなお、なりたい私になれるように家族と戦ってくれると言ってくれた」


見上げると眼鏡越しに目があった。

少しだけ目尻を下げ、ちゅっ、と軽く唇を重ねてくる。


「しかも、私の可愛い鹿乃子さんは、漸は私の男だと啖呵を切ってくれました」


「えっ、あっ」


改めて言われると、顔が火を噴く。

きっとあのときの私は、ドヤ顔だっただろうし。


「格好よかったです。

惚れ直しました。

だから私も、諦めるのをやめたんです」


ちゅっ、とまた唇が触れる。


「でも殴りかかってくる父を、避けようともしないのはいただけません。

もしかして黙って殴られるつもりでしたか」


「……はい」


避けようと思えば避けられたと思う。

でも、思い知らせてやりたかった。

お前は人を暴力でしか言うことをきかせられない、最低な人間だと。

そしてそれでも、屈しない人間だっているんだって。


「鹿乃子さんの気持ちはわかります。

でも貴方が傷つくと私も痛いんです。

だからご自分を、守ってください。

ああいうことをまたやったら、いくら可愛い鹿乃子さんでもめっ、ですよ」


漸はどこまでも真剣だけれど。


「……めっ、ですか」


「はい。

めっ、です」


しばらくふたりで見つめあったあと、……同時に、噴き出した。


「漸にめっ、されるのは怖いので、気をつけます」


「約束ですよ」


また、ちゅっ、と漸がキスしてくる。

今日の漸は心配がなくなったからか、スキンシップが過剰だ。

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