第20話

朝ごはんは夜のうちに仕込んでおいた玉子サンドと、昨日の残りのスープで済ませた。


「あ、そういえば。

三橋さんのデニムの着物は、洗い屋さんに出した方がいいですよね」


なぜか不思議そうに、眼鏡の向こうで彼がパチパチと数度、瞬きをする。


「洗い屋に出さずに、どうするんですか?」


「え、自分で洗いますけど?」


また彼が、パチパチと瞬きをした。


「着物を?

自分で?

洗う?」


「はい」


「すみません、私はそこまで考えたことがありませんでした……」


はぁーっ、と三橋さんの口からため息が落ちる。

でも普通はそうだよね、スーツはクリーニングに出すものだし、Tシャツでも高級ブランドのものは自分で洗わない。

それと同じようなものだ。


「あの、私の着物は基本、安い一万円以下のデニムか木綿か、手芸店で買った生地を自分で縫ったのなんで、ガラガラ洗濯機で回しても問題ないんですけど、さすがに三橋さんのは」


「えっ、着物を洗濯機で洗うんですか」


今度はさらに信じられなかったみたいで、目玉が落ちてしまわないか心配になるほど目を見開いた。


「洗いますよ。

さすがに、手洗いコースですが」


「……はぁーっ」


また、三橋さんの口からため息が落ちていく。


「私は決まりに縛られず、カジュアルに、自由に着ているつもりでしたが、まだまだですね……」


そんなに落ち込む問題なんだろうか。

だって三橋さんはそういう世界に住んでいるんだから、私のような乱雑にやっているのは知らないのは当たり前だ。


「……精進します」


「えっ、精進とかそんな!

三橋さんが好きなように着ればいいんですよ」


すっかり下を向いてもそもそ玉子サンドを囓っているけれど、……ねえ?


「……私の着物も洗濯機で洗ってしまってください」


「それはさすがに、勘弁してください!」


うー、なんか変な、三橋さんのコンプレックススイッチ押しちゃったよー。


「まあさすがに、それは冗談ですけど」


「冗談、ですか」


慌てた私がおかしかったのか、くすっと小さく三橋さんが笑う。

それはちょっと、性格悪いぞ。


「でも今度、可愛い鹿乃子さんがよく利用しているお店を教えてください。

私も洗濯機でガラガラ洗える着物が欲しいです」


「それなら、喜んで」


やっと気持ちは浮上したのか、顔を上げて最後のサンドイッチを三橋さんは口へ入れた。


今日は三橋さん車で実家へ向かう。

当然、運転は三橋さんだ。


「おはよーございます」


「おはよー」


母屋に声をかけ、さっさと工房を開ける。

いつもどおり掃除をして準備をした。

三橋さんはこのあいだ、祖父とお茶タイムだ。

ちらりと一度、覗いてみたら、相変わらず噛みついてくる祖父を、にこにこ笑いながら三橋さんがのらりくらりとかわしていた。

どうも最近、祖父の扱いに慣れてきたらしい。


「じゃあ今日も、帳簿を見せてもらいますね」


そのうち、父たちと工房へ来た三橋さんは大量に帳簿を積み、隅に置いてあるパソコンと向き合った。

内容を精査しつつ、いまだに電子化していない帳簿を入力してくれている。


「いつもながら、早いな」


父が作業の手を休め、ほぇーっと感心しながら三橋さんの手元を見る。

そこでは目にも留まらぬ速さでキー入力が続けられていた。


「お父様」


「おう」


三橋さんに呼ばれ、一緒に父が画面をのぞき込む。


「これも経費計上できますよ」


「おお、そうか!

漸くん、助かるよ」


領収書を見ながら三橋さんが微笑み、父はほくほく顔だ。

今年は漸くんのおかげでかなり節税できそうだと、父はこのあいだ喜んでいた。


「お父様の方はいいんですが、可愛い鹿乃子さんの帳簿は全然、可愛くないですけどね……」


「……!」


首を傾けたうえに頬に手をあて、わざとらしくため息が吐きだされ、ヒクヒクと口の端がつった。


「……すみませんねぇ、可愛くない帳簿で……」


私だって一応、簿記の勉強はしたのだ。

でも、苦手なものは苦手だし。


「まあ、私が可愛い帳簿にしてあげますから、大丈夫ですよ」


とか三橋さんがにっこりと笑い、もう悪い予感しかしなかった。


私が仕事の日に一緒に来ては、三橋さんは有坂染色と私の『子鹿工房こじかこうぼう』の経営コンサルを頼んでもないのにしている。

事の発端は九月に入ってすぐ、先月も赤字だー! なんて叫んでいた私の、帳簿を三橋さんがのぞき込んだのにはじまる。


『いけません、鹿乃子さん。

可愛い鹿乃子さんにあまり厳しいことは言いたくありませんが、それはあまりにもダメダメです』


などとその長い指を額にあて、二、三度、あたまを振られた日にゃ……さすがに、ヤバいと思った。

自分でもこのザル帳簿はさすがにマズいという自覚はあった。

それを指摘されたのだ、返す言葉もございません。


その日から私の経営する子鹿工房には三橋さんの、厳しいメスが入っている。

まだ一年たっていないし、仕方ないよね?

なんて苦し紛れに言ったのがまた悪かった。


『すべて最初が肝心です。

最初をおろそかにしたら、あとが大変になりますよ』


と、またもっともなことを言われ、海よりも深く反省したのはいうまでもない。


私がビシバシ、三橋さんから指導を受けているのを見た父が、こっちの帳簿も見てくれ……とか言いだし、三橋さんも気軽に受けるもんだからそれ以来、有坂染色と子鹿工房両方のコンサルを彼はやっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る