第8話
「おはよう」
「……おはようございます」
目が覚めたら、和家さんが肘枕で私の顔を見ていた。
「なに、してるんですか?」
「ん?
李依の寝顔は可愛いなーと思って」
ちゅっと私の額に口付けし、彼が起き上がる。
「顔を洗ったら朝食を食べに行こう」
「そうですね」
私も起き上がり、一緒にベッドから出た。
身支度を済ませ、じっと指環を見つめる。
昨晩、和家さんが全部忘れさせてくれた。
もうこれは必要ない。
「バイバイ」
ゴミ箱にそれをぽとんと落とした。
もう、過去は振り返らない。
日本に帰ったら私は前を向いて生きていく。
……でも。
「着替え、済んだのか?」
「あ、はい」
返事をして寝室を出る。
「最後の朝は優雅に、ゆっくりホテルで食べよう」
「そういえばいつも外で食べていたので、ホテルの朝食はこれが初めてですね」
一緒にカフェに向かいながら和家さんをちらり。
きっとこのまま一緒にいたら、少しずつ好きになっていたんだと思う。
しかし彼とは今日でさよなら。
日本に帰ったら彼との関係は絶たれる。
朝日の差し込むカフェでの朝食も、最高だった。
「日本に帰っても元気でな」
「はい」
連絡先とか聞いたら、教えてくれるだろうか。
でも仕事すら教えてくれなかった彼が、簡単に答えてくれるとは思えない。
それに彼は、きっと住む世界が違う人。
たまたま、異国の地だったから彼とこうして知り合えただけ。
「初めて会ったときと違い、明るい顔になってよかった」
「和家さんのおかげです。
ありがとうございます」
今できる最高の笑顔で彼に返す。
「あのとき、和家さんに声をかけてもらえて本当によかったです」
巡り合わせてくれた神様には感謝を。
和家さんに出会えなければ、帰国しても落ち込んだままだっただろう。
「僕も李依に出会えてよかった」
眼鏡の奥で目を細めて笑った彼はどこか淋しそうで胸がずきんと痛んだが、気づかないフリをした。
朝食のあとは荷物の整理をし、和家さんに空港まで送ってもらった。
まだ時間があるのでカフェでお茶を飲む。
「あの、本当にホテル代とかよかったんですか……?」
結局、最後まで私は一切お金を使っていない。
とはいえ、あのスイートの宿泊費全額は払えそうにないが。
「李依がこうして明るく笑ってくれるためのお金なら、安いもんだ」
和家さんは笑っているばかりでまともに取り合ってくれなかった。
申し訳ないという気持ちはあるが、いくら言っても彼は聞いてくれない。
ならば。
「その。
せめて、なにかお礼をさせてください」
じっとレンズ越しに彼の目を見つめた。
「じゃあ……李依からキス、してくれるか?」
私を見つめるその瞳は、私を試している。
……和家さんにキスをする?
そんなの……。
「別に無理強いはしない」
返事を躊躇っていたら、ふっと和家さんの周りの空気が緩んだ。
「……あの。
いいんですが、ここでは」
これはお礼なのだ。
あれだけしてもらっていて断れるわけがない。
それに……彼との最後の思い出が欲しい。
「そうだな」
とりあえず同意してくれて、ほっとした。
カフェを出て、人目につかない場所を探す。
人気のない通路を見つけ、足を止めた。
「和家、さん」
「ん」
彼と向かい合って立つ。
背伸びをして手を伸ばしたら、彼は届きやすいように背を屈めてくれた。
首に手を回して抱きつき、その形のいい唇に自分の唇を重ねる。
これで最後。
もう二度と、彼には会えない。
そう思うと、なかなか離れられなかった。
顔を遠ざけながら、視線を絡めてじっと見つめ合う。
「……ありがとう、ございました」
「僕のほうこそありがとうだ」
ぎゅっと彼に抱き締められ、最後にその匂いを思いっきり吸い込んだ。
手持ちのエコノミーのチケットで帰るつもりだったが、和家さんがわざわざ同じ便のファーストクラスのチケットを取っていてくれていた。
「そのチケットだと、アイツの隣になるから嫌だろ」
「なにからなにまですみません」
ありがたく、その厚意を受ける。
「じゃあ、元気で」
「和家さんも」
ロビーで和家さんと別れた。
別れた彼との思い出は、和家さんが全部上書きしてくれた。
この素敵な思い出を胸に前を向いていけそうだ。
また会いたいけれど、もう会えないんだろうな……なんて思いながら、私はハワイをあとにした。
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