第22話

「……で。

現実は甘かないわけですよ」


ヒルズのいつものカフェで遅い昼食を取っている私は、スーツ姿だった。


「お子さんのご予定は、ってさ……」


お気に入りのサーモンサンドを頬張る。

前は鈴木との思い出に複雑な思いだったカフェだが、いまではいい息抜き場所になっていた。


やっと面接にこぎ着けた会社でひたすら聞かれたのは、子供のことだ。


――新婚だそうですが、お子さんの予定は?


――子供ができたら産休を取りますよね?


訊かれたのは私の能力ではなく、主にそんなことばかり。


子供の予定?

そんなの、当面ないんじゃない?

私はそのつもりだから職探ししているんだし。


……まあ、御津川氏の希望は確認していないけど。

確かに就業してすぐに子供ができて産休、となれば困るのはわかる。

でもこっちとしては即戦力で働ける自信はあるし、御津川氏がその気でも、最低一年は我慢してもらうように説き伏せる用意はある。

なのに。


「ほんと、仕事辞めなきゃよかった……」


FoSはその辺りも、万全だった。

妊娠出産からの復帰でも前と立場は変わらなかったし。

それでいて子供のことで休んでも会社としては嫌な顔もしない。

パパの育休も積極的に勧めてくる職場だったのだ。

でも、世間の会社は違う。


このまま、就職活動を続けるのが憂鬱になってきた……。


夜は御津川氏に連れられてラウンジへ行った。

ここには週一くらいの割合で顔を出している。


最初にここへ来た直後、――MITSUGWAの株価は一時的に暴落した。


『ああ。

東峰さんの制裁だ。

おっかないよな』


なんて御津川氏は笑っていたが、また彼になにかしたらと思うと気が気じゃない。

株価の方は一週間程度で元に戻ったからよかったけど。


「慧護!」


私たちを見つけ、すぐに純さんが寄ってきた。


「ねえ、紹介したい人がいるんだけど……」


するりと彼女の腕が御津川氏の腕に絡み、さりげなく私から引き剥がす。


「李亜」


「どうぞ、行ってきてください」


振り返った彼に、笑顔を貼り付けて返事をした。


「すぐに戻る」


「早く、慧護」


御津川氏を急かし、純さんがこちらを向く。

視線のあった彼女は、にたりと目を歪ませた。


……毎回、そうなのだ。


純さんはなにかと理由をつけて、私たちを引き離す。

御津川氏も他の女性なら邪険に振り払うのに、彼女だけはしない。

彼の中では完全に、純さんは友人に振り分けられているのが理由みたいだが、純さん自身の気持ちには気づいていない。


もう、女性に彼が絡まれるのは仕方ないと割り切れるようになっていた。

だって、御津川氏はそれだけ格好いいんだから仕方ない。


でも、純さんは別。


御津川氏としても純さんは〝友人〟という枠ではあっても、他の女性に比べたら、特別なのだ。

それが、嫌だった。


「……はぁーっ」


ため息をつきつつ、人気のない壁際へ行こうとしたものの。


「おっと」


「す、すみません!」


一歩踏み出したところで、男性とぶつかった。


「いえ、大丈夫……咲乃?」


ここで旧姓呼び、しかもよく知った声が降ってきて、顔を上げる。


「夏原なつはら、社長……?」


意外そうな顔をして立っていたのは私の元上司でいまはFoSCompanyの社長、夏原陽人はるとさんだった。


「ひさしぶりだな」


通りかかったボーイを止め、夏原社長は私にもワインを勧めてくれた。


「課長……社長の下で働いていた頃が懐かしいです」


彼が社長に就任したのは今年一月。

それまでなにも知らずに彼の下で働いていて、実は社長の息子で……なんて発表があったときは驚いたものだ。


正直に言えば、マッチングアプリに手を出したのも、会社を辞めたのも、彼が結婚し、直属の上司じゃなくなったからというのも少しはある。

夏原課長は私の――憧れでもあったから。


「でもなんで、こんなところに?」


僅かに、彼の首が傾く。

それはそうだろう、こんなところで元部下に会うだなんて思わない。


「御津川社長と結婚したんです。

それで」


「御津川社長と?

咲乃が寿退社したのは聞いていたが、相手が御津川社長なんて話は知らなかったな」


「え、えっと。

はははっ」


思わず、笑って誤魔化した。

だって会社の人間が知っている私の結婚相手はあくまでも、〝鈴木二郎〟だ。


「夏原社長こそ、どうして」


ワインを一口飲み、反対に彼に問う。

彼が、ヒルズの住人なんて話は聞いたことがない。


「ん?

ここは異業種交流にはもってこいの場所だからな。

月に一度くらいの割合で顔を出している。

もっとも、妻を夜、ひとり家に残すのは嫌なんだが」


奥様のことを思い出しているのか僅かに笑い、彼はワインをくいっと飲んだ。


「奥様も一緒に……」


そこまで言って、止まった。

だって、彼の奥様は。


「雪花ゆかはいま、妊娠しているからな。

こんなところへ連れてきて、無理をさせたくない」


ズレてもいない眼鏡を、彼がくいっと上げる。

本当にいい旦那様で羨ましい。

いや、御津川氏が夏原社長に劣るなんて言わないけど。


「それにしても咲乃……いまは、御津川か。

御津川が会社を辞めたのは惜しかったな。

君にはあと二、三年で営業統括部初の女課長、なんて期待していただけに」


「夏原社長……」


ふっ、と淋しそうに笑い、彼がグラスを口に運ぶ。

そんなに彼が私のことを買ってくれていたなんて知らなかった。

知るといよいよ、会社を辞めたのが悔やまれる。


「もしよかったらいつでも戻ってきてくれ。

出産して落ち着いてからでもいい。

待っているから」


名刺入れから名刺を一枚抜き、彼は渡してくれた。

私を見つめる、レンズの向こうの瞳に嘘はない。

もともと、社交辞令なんて失礼な相手にしか使わない人だった。


「夏原社長、私」


いま、就職活動をしているんです。

すぐにでも働けます、なんて言ったらどうするんだろう。


「李亜」


けれどその言葉は、こちらへやってきた御津川氏によって止められた。


「これは御津川さん、おひさしぶりです」


御津川氏に気づき、夏原社長は軽く会釈をした。


「本当におひさしぶりですね。

社長就任以来ですか」


にこやかに御津川氏は挨拶しているが、それが作り笑顔にしか見えないのはなんでだろう?


「知らないうちに僕の元部下の咲乃と結婚したんだとか。

困りますよ、彼女ほどの女性を専業主婦にしておくなんて」


「俺は李亜が一番輝ける環境を準備できる自信があるので、お気になさらずに」


長身イケメン同士が腹の探り合いをしているのはこう……迫力がありすぎて、怖いです!


「李亜、行くぞ。

日角ひすみご夫妻にはまだ、紹介していなかっただろ? ……じゃあ、失礼します」


夏原社長にあたまを下げ、彼は軽く手を引っ張った。


「夏原社長、お会いできてよかったです。

では、失礼します」


「うん、僕も嬉しかった。

さっきの話、本気だからな。

考えておいてくれ」


あたまを下げ、さらに私の手を引っ張る彼に着いていく。

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