キミと僕でおはなしをしよう

首藤慧一

第1話 都築先生とぼく

    一、


「どうしたの、何かあった?」

 通い始めた中学校の夏服に初めて袖を通す頃の放課後、ぼくは担任の先生から声を掛けられた。

「……何でもない、です」

 ぼくは先生の言葉をうっとうしいと感じてしまったから、何でもない、そう言って誤魔化そうとした。

「なんでですか」

 なぜ先生はそんな事をぼくへ訊ねるのか、そういった主旨をぼくは先生へ訊き返した。先生は心配そうにぼくを見て答えた。

「だって、何も無かったらそんな顔しないもの」

 ぼくは先生の回答に黙って応えることしか出来なかった。先生は大人だから、ぼくみたいな子供の考える事なんてお見通しなのかな。そう感じた。

 ぼくは春に入学したこの中学校のクラス、一年A組では浮いた存在になってしまっている。

 小学校でもクラスにはあまり馴染めなくて、というのは少し控えめな表現なのだけれど、中学校は通っていた小学校の顔ぶれが無い所にしようと親と相談してこの中学校に通うことになったのだ。

 けれども、この近くの小学校から進学してきた奴同士がつるみ合って、仲間に入れてほしいと一声掛けるだけの勇気も持たなかったぼくは、今ではほとんどすっかり爪弾きの除け者だ。誰もぼくに構わないのがせめてもの救いか。

 先生──A組の担任である都築つづき ひかる先生、技術家庭科の技術の方を教えてくれる男の先生だ──は、ただ黙っている僕へ優しく言った。

「……言いたくない?」

 まるで見透かされたみたい、ひょっとしたらぼくが気付いていなかっただけで四月からずっとぼくの事を見ていたのかも知れない、とまで言ってしまったら自惚うぬぼれだろうか、でも、僕が何も言えないことは分かっているという口ぶりだった。

 都築先生の問いに、ぼくは首を縦に振って答えた。

 それとも、先生が四月からぼくの事を見ていなかったとして、ぼくは誰の目にも明らかに浮かない顔をしていただろうか。そういえばさっき、先生は「何も無かったらそんな顔はしない」と言った。なら、あれはぼくが自惚れただけか。そんな事を頭の中でごちゃごちゃと考えていると、先生はぼくへ語りかけた。

「僕ね、そんな風な顔した子で、よく知ってる子が一人居るんだ」

 都築先生は多分、ベテランの先生だから、卒業生の内の誰かを指して言っているのだと、ぼくは何となく思った。

 先生は何だか楽しそうに、うふふ、と笑いだしたのでぼくはどうしたのだろうと疑問に首を傾げた。

「誰だろう、って少しは気になったでしょう」

 先生は穏やかに笑って言った。

「……別に。卒業生の中にぼくみたいな生徒が居たんだろうな、って思ってました」

 ぼくは素っ気なく返してしまった。

 すると先生は頷いて「やっぱり普通はそんな風に思うよね」とやはりどこか楽しそうに言ったのだ。

 先生は溜息をひとつつくと、楽しそうな雰囲気とは打って変わって暗い顔になった。

 何か思う様に窓の外、どこか遠くの方を見たから、ぼくも何となく同じ方へ視線をやった。

 先生はいつもの軽やかな調子の声とは全然違う、沈んだ声で言った。

「……キミくらいの歳だった頃の僕だよ」

 ぼくは予想と全くかけ離れた答えに度肝を抜かれた。

 ぼくが先生に何て言おうか決めるよりも早く、先生は困ったような笑顔を浮かべてぼくへ言った。

「先生ね、中学生の頃は今のキミみたいな顔ばっかりしてたの」

 悲しそうな声だった。

 だからね、と先生は続ける。

「キミがどんな気持ちでいるのか、少しは分かるつもりだよ」

 ウソだ。ぼくは反射的に思った。

「本当はね。先生、見て知ってたの」

「……何をですか」

「キミがずっとそんな顔で教室に居たこと」

 ぼくは息を呑んだ。先生は言う。

「言い訳にしか聞こえないと思うけど、遅くても五月中にはクラスに溶け込めるかなって様子を見てたんだ」

 ぼくは顔が少し熱くなるのを感じた。やっぱりぼくの思った通り四月からずっと見ていたんじゃないか。ぼくの直感は間違っていなかった。

 でもね、と先生は付け加えた。

「やっぱり難しそうかな、って判ったよ。ごめんね、『もっと早く声を掛けろよ』って思ったでしょう」

 都築先生はなぜ、ぼくの思っている事をこんなにも的確に言い当ててくるのだろう、とぼくは不思議に思ってさっきまで感じた怒りは忘れてしまった。

 どうして分かるのだろう。先生は大人だから? そんな事で説明がつくのか?

 頭の中が疑問符でいっぱいになっているぼくに向かって先生は軽やかで角の無い声で「ねえ」と呼びかけた。

 ぼくがそれに視線で応じると先生は

「もし嫌じゃなかったら、朝でも放課後でもどっちでもいいからさ、明日から先生の事、手伝ってくれない?」

 思わぬ提案にぼくは「えっ」と頓狂とんきょうな声を上げてしまった。

 先生は加えて言う。

「その間、キミは僕に何を話してもいいし、キミが僕の話を聞きたいって言うなら何だって話してあげる」

 どう? と言って先生は、放課後で誰も居なく誰の席の椅子でも空いていたのに机の上にどかっと腰掛けた。

 ぼくはそれを見てなんて行儀の悪い先生だと思ったけれど、先生の腰掛けた机がクラスで男子の側にも女子の側にも幅を利かせた、王様気取りで鼻につく奴、と思っていた武内たけうち健太けんたのものだと気付いてぼくは何だか胸の空く思いをしたのだった。

 この日は梅雨になる前の晴れで、都築先生の元から明るい茶色の髪は西陽に照らされてレンガの様な色になって、髪より薄い茶色をした目は日差しを受けてガラス玉みたいだった。ぼくは先生の眼差しに吸い込まれそうになった。

 ぼくの家は両親が共働きで、きょうだいも居ない(し、おまけに部活にも入っていない)ので〝先生の手伝い〟で帰りが遅くなったところで叱る人は誰も居ない。

 ぼくは

「今日からでも大丈夫です」

 と口に出していた。先生は目を細め、

「決まりだね」と言ってから「キミが僕のをする間は、キミと僕だけの時間だから、この事は他の誰にも言わないって約束する」

 と言って左手の小指──都築先生は左利きなのだ──をぼくへ差し出し、また言った。

「だから、キミも僕の手伝いであった出来事は学校の誰にも話さないって約束してほしいな。出来そう?」

 ぼくは小首を傾げる先生の、差し出された左手の小指に自分の小指を絡め、指切りの形を作って先生へ大きく頷いた。

 そうして、ぼくは都築先生と『お手伝い』の名目で『おはなし』をするようになった。


    二、


 ぼくが都築先生と初めて出会ったのは、入学式の日だ。

 ガヤガヤと騒がしい教室にスーツ姿の、ぼくからすれば背は高いけれど、小柄で痩せっぽちの大人が入ってきて、ぼくは直感的に「この人がきっと担任の先生なのだろう」と思った。

 顔は男性ながら綺麗な顔立ちだけれど何だか少しくたびれた感じで、苦労性な人なのかな、というのがぼくの都築先生への第一印象だった。

 先生は手を叩いてぼく達新入生の注目を集めながら、痩せた体のどこからそんな大きな声が出るのだろうと感じてしまう、ハリのある凛とした声でぼく達へアナウンスした。

「入学式、始まるよ。みんな、出席番号順に廊下へ並んで」

 先生の声に教室は一瞬、静かになった。そして、また皆口々に何かを話しながら教室から廊下に出て出席番号順に並んだ。

 その間、ぼくは中学校という新しい舞台で期待に胸をはずませている新しいクラスメイト達の様子をただ眺めていた。

 ぼくは新しい環境に緊張してしまって誰にも話しかけられなかったし、周囲からしてみれば全くの見ず知らずのぼくへは誰も話しかけてこなかった。

 ぼくがただただ周囲を窺っていると、不意に先生と目が合った。

 先生はぼくへ優しく笑いかけてくれたけれど、ぼくは何か照れくさくてそそくさと目を逸らしてしまった。

 入学式が終わって、ぼく達新入生が自分の教室……一年A組の教室へ戻ってから、全員で簡単な自己紹介をすることになった。その口火を切ったのは、先生自らだった。

「はじめまして。みんな、入学おめでとう」

 先生はそう言うと左手に白色はくしょくチョークを持って──ぼくはこの時に都築先生が左利きだと知ったのだ──色とりどりにデコレーションされた黒板の、そのデコレーションを一部消し去って作られた空きスペースへと縦向きにスラスラと文字を書いていった。

 

  都築つづき ひかる

 

 先生はそう書いた。先生の書いた文字は女子が書いたみたいな可愛らしい見た目だった。

 先生の名前かな。ぼくはそう思った。

 初めて見る珍しい苗字で、『景色』の『景』を書いて『ひかる』と読むと漢字の横に丁寧に書かれた振り仮名を見て知り、ぼくの心は動かされた。

 先生──都築先生の疲れた感じの顔を見ると〝ヒカル〟という名前は全然想像がつかないけれど、『景』と書いて『かげ』ではなく『ひかる』と読む名前は、ぼくの目にはちょっぴり羨ましく映ったのだった。

「僕は君たちA組の担任の、都築 景です。『都築先生』でも『景先生』でも、みんなの呼びやすいように呼んでくれていいよ」

 都築先生は、そこまで言うと嬉しそうな笑顔になった。

 ぱっと見ではどのくらいの年齢だかよく分からないと思っていたけれど、目元に出来た皺と口元のほうれい線を見て、もう四十歳は超えているのかな、と何となく感じたものだ。

 ぼくがそうしてぼんやりと先生の年齢について考えていると、先生は笑顔のまま続けた。

「僕は、みんなが中学校で初めて習うことになる技術科の先生だから、この教室以外だと、木工室、金工室……それからパソコンルームで会えるね」

 そう言って先生は満面の笑みから少し表情を和らげると「兎も角、一年間よろしくね」と挨拶した。

 何か訊きたい事はあるかな、と先生はぼく達へ向けて質問を募った。

 すると一人、勢いよく挙手した男子生徒が居た。先生は生徒名簿をちらと見て、

石川いしかわくんだね。どうぞ」と言った。

 初日から全員の名前を覚えている訳ではないようだった。お互いに顔を見るのはこの日が初めてだったのだから無理も無い話だ。

「都築先生って、いくつなんですか」

 この指名された石川勝生まさきはクラスのリーダー格になったヤツだ。社交的で面倒見が良く、クラス内での人望もあついが、仕切りたがりなのが玉にきずなヤツだ。ぼくとはまるで正反対の生徒である。

 石川が真っ先に先生の年齢を訊ねたねらいは、教室のパワーバランスを推し量ろうしたのだとぼくはうっすらと気付いた。

 若い先生だったなら教師と生徒の境が曖昧に、つまりパワーウェイトが生徒の側に傾いて生徒の無茶振りにも応えてくれるかも知れないけれど、ある程度歳を重ねた先生だったなら、余程生徒に甘い先生でなければその望みは薄いだろう。

 しかし、都築先生はどんなに若く見積もっても二十代には見えない。どう見ても若手の先生ではないし、ぼくには都築先生が必要以上に生徒に甘い先生にも見えなかった。それは、都築先生がぼく達生徒を見渡した時にほんの一瞬だけ見せた冷たい表情から察せられたことだった。

〝必要以上に甘くない〟はあくまでその時のぼくの希望的観測であって、もしかしたら物腰柔らかな態度とは裏腹にとても厳しい先生である可能性だってあの時点ではあったのだ。

 ぼくは石川のその浅はかな思惑に勘付いた時、一体何の為に訊いたのだか、と小さく溜息が出たものだ。

 実際は甘くもなく、かと言って厳しすぎもしない、教師おとな生徒こどもの間の線引きをきっちりとわきまえている先生だったのだけれど。

 それはともかくとして、ぼくは石川のねらいとは無関係に都築先生の年齢は気になっていた。

 一見して歳がいくつなのか分からない、というのが見た目の印象の中にあったからだ。四十歳を超えているのかも、と思ったのは笑い顔に刻まれた皺を見てそう感じただけで、表情が変わるともっと若いのかも知れないと思ってしまう顔立ちなのだ。

 都築先生は呆気に取られた様子で言った。

「幾つって、歳が?」

 石川が「うん」と頷いたのを見て、都築先生は困った様にその質問へ答えた。

「三十七だよ。今年で三十八かな」

 もうおじさんだよ、と都築先生は溜息をついたがその答えに教室内が女子生徒を中心に少しざわついた。何人かの女子生徒は「全然そんな歳に見えない」とか「かっこいいからもっと若いと思った」と口にしていた。

 そんな反応を見た都築先生は、ちょっと照れたような態度で「ありがとう」と言ってみせていた。その反応に、更に数人の女子生徒はまるで恋人が出来たみたいにはしゃいでいたのを覚えている。

 何せその時のぼくは「別に都築先生は君たちに気があってあんな風に言った訳じゃないだろうに」と胸焼けがしていたのだから。

 一方ぼくはと言うと、都築先生の歳を聞いて特に意外だとも思わなかったし、見た目通りの歳だとも思わなかった。三十七歳だと聞いて、そうなんだ、と素直に受け止めただけだった。

 教室内が一頻ひとしきりさんざめいた頃、一人の女子生徒が控えめに挙手した。都築先生はそれに気が付くと、名前を確認してから指した。

和田わださん、だね。どうぞ」

 指名された和田という女子生徒、和田翔子しょうこはとにかく美人だと入学から早々にしてクラス内外問わず有名になった生徒だ。

 顔は美人だしスタイルも良く、おまけに気立ても良いからと男子生徒に人気があるのだ。他方で、人に媚びている様に見えるところが一部の女子生徒からは不評を買っている。

 和田はもじもじと恥ずかしそうに都築先生の顔を見たり見なかったりして、なかなか口を開かなかった。

 そんな和田に向けて、彼女と同じ小学校から進学してきただろう数名の女子生徒が「何照れてんの翔子!」や「翔子ちゃん、都築先生に一目惚れしたでしょー?」などとはやし立てるのを聞いて、ぼくは心底うんざりした気持ちになったものだ。

 和田は自分を冷やかす若干名へ「もう、うるさい」と猫撫で声で返すと、そのままの声でようやく質問をした。

「景先生ってぇ、結婚はしてるんですか」

 ぼくはそれを聞いて、貴様は一体先生の何になりたいのだと心の中で毒づいた。

 一方の都築先生本人はそんな質問にも慣れた感じで「そんな事聞いてどうするの」と、にこにこ笑って

「独身だよ。恋人は……そうだなぁ……募集中。——って事にしておいて?」

 そう言って和田の質問をひらりとかわした。

 最後に、ぼくの目の前の席に座っている男子生徒が挙手した。

千葉ちばくんだったね、どうぞ」都築先生は指した。

 お調子者の千葉悠真ゆうまは今やクラスのムードメーカーだ。

 出席番号はぼくの丁度ひとつ前で、入学式当日こそ同じ小学校を卒業した他の生徒と連んでいてぼくへ話しかけてくることは無かったが、席替えをするまではぼくの目の前が千葉の席だったから、千葉はよくぼくへをかけてきたりもしていた。

 千葉はその持ち前のひょうきんさで、入学から一ヶ月も経たない内にクラス中の人気を集めて教室の雰囲気を愉快にしてくれる、A組には無くてはならない存在となった。

 席替えをしてぼくと席が離れてからも時折ぼくを構ってくれることがあり、ぼくはそれに悪い気はしない──正直に言って、誰にも構われないぼくを少しでも構ってくれるだけで嬉しく思うし、彼と話していると孤独な学校生活が少しは楽しくなっていたのだ。

 そういった経緯もあって、ぼくはこのA組の中で千葉となら仲良くなれそうだと思っているけれど、人気者の千葉は忙しいからきっとぼくと友達になって仲良くしてくれる望みは薄いだろうな、と遠慮する気持ちから本人にその事を言ったことは無い。

 そんな千葉が落ち着き無く言った。

「超フツーの事訊くんですけど、都築先生って誕生日はいつで、血液型は何型で……あっ、あと、趣味って何ですか」

 千葉は〝フツーの事〟と言ったが、これらの事項は都築先生への質問を締め切られた後に行われた生徒一人ずつの自己紹介の雛型となったのだ。

 ぼくは千葉のこういう、痒い所に手が届く様なところを心地いと感じたのだった。

 都築先生は、千葉から放たれた質問に元からぱっちりと大きな目をみひらいて「あ、そっか」と声を漏らした。

「自己紹介って本来そういう事を言うんだったっけ。ごめんね。僕、自己紹介で何を言ったらいいのか分からなくなっちゃうんだ」

 教師でありながら人前で緊張しやすいのだ、と都築先生はぼく達へ説明した。

 都築先生は肩をすくめ「もう十何年と先生やってるのに、ダメダメだね。ありがとう、千葉くん」と述べてから千葉の質問へ答えた。

「誕生日は、十一月十九日……のさそり座。血液型はB型、趣味は……何だろう? ギター、かな。音楽は好きだよ。あと、ホームセンターとか家具屋さんを見てくるのも好き……だな。そんな感じ」

 都築先生はこういった事を誰かへ言うことには慣れていなさそうで、当たり前の自己紹介をするだけなのにはにかみながら答えていた。

 それにしても家具店を見るのが好きだなんて、ちょっと変わった趣味を持っているのだなとぼくが思っていたら、クラスの問題児──武内健太はふてぶてしい態度で言った。早速、都築先生を舐めている様子だった。

「家具なんて見て何が楽しいんスか」

 都築先生は全く気にしていない様子で

「僕は技術科でも木工……大工仕事が専門だから、関連する物を見るのが好きなの。ちょっとした職業病かな」と答えてみせていた。

 武内は、自分から訊ねておいて興味無さそうに「ふうん」と言っただけだった。

 A組の問題児こと武内は、言ってしまえば『いじめっ子』そのものだ。

 図体と比例するみたく態度がでかく、ヤツが右と言った物事は右にならなければたちまち機嫌を損ねてしまう。

 ヤツの機嫌を損なうと暴力に訴えようとするから、クラスの誰もがコイツのご機嫌取りをしている状態だ。中には手下として武内に同調して取り入れば機嫌を損なうことも減ると考えた小賢こざかしい奴も居るほどで、そいつらが所謂いわゆる〝いじめっ子グループ〟として徒党を組んでいる。

 武内が王様気取りで教室内で幅を利かせている以上は、クラスの誰もが目標ターゲットになることを恐れて「口が裂けても言えない」と黙っているけれど、武内とその配下はクラス中でこっそりと煙たがられている。つまる所、武内は裸の王様なのだ。

 ぼくだって、武内とその一味を煙たい存在と思っている一人だ。

 余計な話がかなり混ざってしまったけれど入学式の日に出会った都築先生についてぼくは、穏やかで、優しくて、感情的になるところなど想像もつかなくて、でもどこか掴みどころの無い、掴もうとすると水の様に流れ、風の様に舞う不思議な雰囲気のある人だと感じた。

 入学から二ヶ月が経ってもその印象は覆ることは無く、都築先生は都築先生のままだった。僕へ〝手伝い〟を持ちかけてきたのも、間違い無く

『都築先生』だった。


    三、


 翌日の朝、ぼくはこれまでよりもうんと早い時間に登校した。空にはどんよりと雲が立ち込めて、傘を持って行かないと心配になる様な天気だった。

 昨日、ぼくは都築先生の提案に「今日からでも手伝える」と大見得を切ったのだけれど、都築先生は「今日は手伝ってほしい事が無いよ」とあっさりぼくを下校させた。

 それで、先生は手伝いをするのは朝でも放課後でもいいと言っていたからぼくは欲張って、出来る限りどちらも顔を出すことに決めた。

 都築先生の手伝いをすることにしたぼくは、一体全体何を手伝えばいいのか分からなかったけれど、学校に通う動機を段々と無くしていっていた気がしたからこれをいい機会と思うことにした。

 ぼくは朝に弱くはないし、放課後に誰と約束を取りつける訳でもないし、行きが早くなっても帰りが遅くなっても文句をつける人は居ないから、どうせ時間を費やすのなら先生の手伝いに使えばいいと思ったのだ。内申点稼ぎの下心も、少しはあったかも知れない。

 入学して全然間もない頃は歩き慣れず、乗るバスを間違えないよう慎重になったものだけれど、二ヶ月が経ってしまえば慣れたものだ。

 しかし、今朝からは登校する時間を大幅に早めたからバスの時刻には気を付けた。同じ停留所でも、間違った時刻のバスに乗ってしまうと学校とは違う方向に向かってしまうのだ。ぼくは一度それで遅刻したことがある。

 今朝は幸先よく、きちんと正しい行き先のバスに乗ることが出来た。

 乗り合わせたのは背広を着たサラリーマンや、ぼくよりも歳上の、多分高校生が多くて、ぼくみたいな中学生は見かけなかった。

 途中、私立の小学校に通っていそうな制服姿の子供を一人か二人見かけて、わざわざ遠くの小学校に通うなんて大変そう(ぼくだって、わざわざ遠くの中学校に通っているのだけれど)だな、と思いながらぼくは趣味の読書をしていた。

 行先表示がぼくの通う中学校の最寄りの停留所を示して、ぼくは停車ボタンを押した。

 これまでの時間のバスでは、他の乗客に先を越されて停車ボタンを押されてしまうことが多いのだけれど、この時間はどうやらぼくくらいしか下車する乗客が居ないらしく何だか得をした気分になった。

 停留所から徒歩で学校へ向かっていると、上級生の姿や学年集会で見たかも知れない顔がちらほらとあった。

 運動部や吹奏楽部の朝練でこんなに早くから来ているのかな。それにしたって早すぎやしないか、とぼくは思った。今朝のぼくの登校時間はそれほどに早かったのだ。

 けれども、全体を考えればほんの少数だったから、ぼくみたいに何か用があって早く登校しているのかもな、とも思った。

 昇降口の、自分の下駄箱の前でぼくは外履きのスニーカーから上履きへ履き替えて都築先生を探した。

 宛も無く探した訳じゃない。真っ先に職員室へ向かった。先生なのだからそこに居るだろう、と見当をつけたのだ。

 昇降口から真っ直ぐ職員室へ向かって、その引き戸を開きながらぼくは「失礼します」と声を掛けた。

「都築先生、いらっしゃいますか」

 ぼくはとりあえず目に入った先生へ訊ねた。

「あら、おはよう。早いのね。都築先生なら木工室じゃないかしら。会議の時くらいしか職員室にはいらっしゃらないのよ」

 早速当てが外れたぼくは僅かに落胆した。

「木工室……。分かりました、ありがとうございます」

 ぼくは、失礼しました、と職員室を後にして言われた通り木工室に向かうことにした……のだけれど、週に一度の技術の授業──今、丁度木工を教わっているところだ──でしか足を運ばない木工室の場所は、ややうろ覚えだった。

 確かこの廊下を通って、窓から見える景色はこんな感じで……と技術の授業の前に目にしている光景の記憶をパズルみたいに合わせていった。

 一年A組の教室からだったらもっとすんなり移動出来た筈、と思ったけれど今朝のぼくは昇降口から教室ではなく、職員室へ向かってしまったので少しだけ迷ってしまった。

 はっきりと見覚えのある廊下に出て、それまでおっかなびっくりな足取りで校内をうろついていたぼくは安心してしっかりと廊下の床板を踏みしめ木工室に辿り着き、重たい鉄の扉を開いた。

 木工室の扉を開いてもそこは無人だった。

 都築先生は木工室に居るんじゃないのか、とぼくはちょっぴり向かっ腹を立てた。

 中で待っていればその内来るのかも、と思って廊下から広い木工室へ足を踏み入れたのと時を同じくして奥の準備室からひょいと人影が現れた。ぼくは驚いて思わず「わっ」と小さく声を上げてしまった。

「ごめん、びっくりした? 人の気配がしたから、誰か僕に用があるのかと思って出てきたんだけど……キミかあ。おはよう、早速来てくれたの」

 現れた人影は都築先生のものだった。ぼくは都築先生の姿を見て〝木工室のあるじ〟という言葉を思い浮かべた。

 作業用の紺色エプロン姿がトレードマークの都築先生は、その言葉が相応しいと感じるくらい木工室の雰囲気がよく似合っていた。木工が専門らしいから、きっと間違いじゃないだろう。

「ぼく、朝は平気だし、家に居てもする事が特に無いから……朝も放課後も来ようと思って」

 ぼくは都築先生へそう言った。内申点がどうこうという事は、一応黙っておいた。

「そう? 僕がキミくらいの頃はテレビゲームとかに興じたものだけど、そういうのはやらない?」

 都築先生の口から「テレビゲーム」という言葉が出てきたのは何だか意外だった。そういう事とは遠い世代の人だと、ぼくの勝手なイメージがあったからだ。

「ぼくはゲームは特に……」

 ぼくはどちらかと言えば、ゲームよりも読書の方が好きなたちなのだ。

「そっか。僕の偏見だったね、ごめん」

 都築先生はそう言って困ったような笑みを浮かべた。

 ぼくは謝られたけれど、大して気にしていなかったから「別にいいですよ」と応えた。都築先生はそれに「ありがと」と短く返してくれた。

 一転して、「もしも、の話なんだけど」と都築先生が切り出したのでぼくは、何だろう、と先生の顔を見つめた。先生は言う。

「内申点を期待してたら、先に言っておくけど、ごめんね。全く付かない活動だよ」

「えっ、そうなんですか」

 ぼくは下心があったことのボロを出してしまった。都築先生の目にはお見通しだったみたいだ。

 やっぱりね、と都築先生は笑った。

「ごめんね、騙したみたいになっちゃって。でも、これで内申点付けちゃったら依怙えこ贔屓ひいきになるから、そういう事は出来ないって分かってほしいな」

 じゃあ、とぼくは反駁はんばくした。

「ぼくは先生の手伝いに呼ばれたのに、一体何をすればいいんですか」

 ぼくはむっとしてしまった。都築先生は終始穏やかな顔つきでぼくへ言う。

「強いて言うなら……お休みの日以外は毎日学校に来る、かな。言ったでしょう、この時間は僕とキミだけの他言無用の時間、って。僕はただキミとおはなしがしたいの」

 もちろん風邪をひいた時とかは来れなくていいけどね、と先生は付け加えて言った。ぼくはこの乗りかかった船から降りることも出来なくて

「部活、だと思ったらいいですか」

 と、先生へ訊ねていた。先生は

「部活ともちょっと違うかな」と答えた。

「だって、部活動だと内申点を付けなきゃいけなくなるし、僕は部活動だけは受け持たないことにしてるから」こうも言った。

 そして

「本当にただ、キミとおはなしがしたいだけ」

 と言って都築先生はぼくを真っ直ぐ見据えた。

「ぼく……何も面白い話のひきだしとか、無いですけど」

 先生は何も威圧などしていないのに、ぼくは思わずしり込みしてしまった。そんなぼくに先生は

「ぜーんぜん。昨日、『キミは僕に何を話してもいい』とも『もしキミが何か僕の話を聞きたければ何だって話す』って、僕言ったじゃない。気張って面白い話をしよう、とか思わなくていいよ」

 と、まなじりに深く皺が刻まれるほどの笑顔になって言った。キミはね、と先生は更に言う。

「毎日学校に来て、何となく思ってる事を僕に話してくれるだけで僕は全然構わない。今こうして会話してるのも、僕がキミとしたかったこと」

 都築先生は本当にただぼくと話をしたいだけらしい。

 なぜそうしたいのか、ぼくには分からない──心当たりがあるとするならば、ぼくがクラスに未だ馴染めていないことだけれど、形はどうあれ先生と一緒過ごす時間を登校の動機にしようと思ったのは確かだったからぼくは

「じゃあ……今日からよろしくお願いします」

 と、改めてぺこりと頭を下げた。

「あの、朝は何時に来たらいいですか」

 八時半から朝学活が始まるから、今朝はとりあえず一時間早い七時半に学校へ到着するように来た。

 都築先生は強く握ったら折れてしまいそうな腕を組んで「そうだなあ」と少し考え込んだ。そして、おもむろに左手を口許へ遣るとちょっと目を大きく開いて

「朝は全校朝礼が無ければ七時半に木工室で待ち合わせ……で、どう? それより早いと、僕が朝礼に出てて居ないし……」

 朝礼が長引いて遅れたらごめんね、と先生は言う。ぼくは、先生にも朝礼があるのかと納得して「分かりました」と応えた。

「放課後は終学活が終わったら木工室、にしようか」にこりと都築先生は言う。

 とにもかくにも〝木工室〟なのだな、とぼくは思った。

 やっぱり都築先生は本当に木工室の主なんじゃないかな。先生へ返事する傍らでこんな事を考えていると、先生は「そうだ」と言った。

「どうしたんですか」ぼくは訊ねた。

「水曜日の放課後だけは必ずお休みにしてもらっていい? 職員会議の曜日なんだ」

 ふう、と先生は肩を落とした。先生が会議に乗り気じゃないのはぼくにも伝わってきたけれど、一生徒であるぼくにはどうしようもない事だ。

「分かりました。じゃあ、全校朝礼が無い限り毎朝七時半と、水曜以外は終学活後に木工室で待ち合わせ」

 ぼくがそう言うと、先生は気を取り直したように穏やかに微笑んで「うん」と頷いた。

 それから先生は頭上の時計へ視線を遣った。つられてぼくも時計を見ると、八時二十分を回っていた。

「いけない」先生は飛び上がった。

「ほら、キミは早く教室に行って。僕は一度職員室に行くから」

 あと十分程度で朝学活が始まる時間だった。

「出席簿とかですか? なら、ぼく手伝いますけど」

 ぼくは教室に向かう以外、特に何も無かったから名乗りを上げたのに

「いいの、気にしなくて。ほら行った行った」

 と、えなく一蹴されて今朝のところは木工室を追い出されてしまった。

 僕が自分の教室へ入ると、変わらぬ賑わいがそこにあって、やはりぼくはそこで孤独だった。

 八時半の本鈴ほんれいが鳴ると、時間ぴったりに都築先生は教室へやって来て朝学活が始まり、いつも通りに出席を取る先生の姿があった。

 教室の、黒板を向いて右側、少し後ろ側の目立たない席で朝学活の話を聞き、都築先生の顔を眺めた。いつも通りの優しい顔で、穏やかな口調だった。

 でも、「キミとおはなしがしたい」と言ってくれた時の真摯な顔はしていなくて、教室中の生徒へ向けて分け隔て無く接していた。

 朝早いあの時間、都築先生は〝木工室の主〟だった。きっとあの場所は先生の不可侵領域で、その事を知っているのは多分クラスの中でぼくだけだ。

 ぼくはそれに優越感に似た気持ちを覚えた。

 入学から二ヶ月経った今もクラスに馴染めていないぼくが一体なぜこんな優越感を覚えてしまっているのだろう? それに、先生は何を考えてぼくと話をしたいなどと言うのだろう?

 都築先生はよく分からない人だ。不可解な思いを抱えて、ぼくは今日ちょっとだけ授業に身が入らないで一日を終えた。


    四、


 終学活の後、ぼくは帰り支度をした通学鞄を持って木工室へ向かった。

 他言無用、と言われているのでぼくは周囲に人が居ないのを確認して、木工室へ入った。

「あ、来た来た」

 木工室の主は電動糸のこぎりの点検をしている最中だった。

「あ、はい。ええと……」

 ぼくはこんな時に何と挨拶すれば良いのか分からず、言葉に詰まった。

 点検作業を終えた木工室の主は、ぼくが挨拶に困っていることに気付いてくれて、

「来ました、とかでいいよ」

 と言って楽しそうに、うふふ、と笑った。

「今日は初日だけど、何のおはなしをしようか」彼はのこぎりの本数が減ったりしていないか確認して言う。

 ぼくはすっかり彼のペースに呑まれていたけれど、自分のペースを保ち続けるよりも誰かに合わせていた方がどこか気楽だからそのままになっていた。

「何でも、いいです」

 ぼくは木工室の適当な机へ自分の鞄を置いてそう答えた。

「何の話でもいいって?」

 彼はそう言ってかんなの手入れをしていた。鉋を金槌で叩いて大きな音が立っていたので少し声が大きかった。

「何を話そうか分からなくて」

 鞄を置いた机の側にあった椅子に腰掛けたぼくは視線を落とした。

「何を話してもいい、は無茶振りだったかな」

 彼はぼくに笑って言った。

 それから作業用のエプロンについたホコリを手でぱっぱと軽く払って、室内の水道で手を念入りに洗うと木工室の中を泳ぐ様に——恰度ちょうど、水を得た魚だ——移動して俯いたぼくの視界から消えてしまった。

「おーい」

 ぼくは主の声に顔を上げた。

「こっちおいでよ、涼しいよ」

 ぼくが声の方向を頼りに視線を動かすと、彼は木工準備室の出入口から上半身を覗かせるようにして立ってぼくを呼んでいたのが判った。

「え……生徒は立ち入り禁止じゃないんですか」

 ぼくはためらって言った。

「僕がいいよって言ってるからいいの。そんな所、蒸すでしょう。今日は湿度高いし。ここならエアコン利いてるよ」

 そう言ってぼくへおいでおいでと手招きしていた。

 確かに今日はじめじめと湿気の多い日で、騒音を外に出さないように音楽室と同じくらい頑丈で重たい扉が付いている木工室の中は気密性が高く、蒸していた。

 ぼくが、じゃあ、と鞄を携えてそちらへ近寄ると彼は準備室の中へひょいと引っ込んだ。

 準備室の中は直射日光を避けるようカーテンが半分閉まっていてクーラーが利いているせいか、ひんやりとしていた。

 木工室以上にぎっしりと多種多様な木材が並んで、木工の授業で使う物差しと指矩さしがね、金槌や釘抜きなどが入った箱とか、他にもドリルややすり、接着剤の類やぼくにはよく分からない物品が入れられた箱たちが几帳面に棚に仕舞われて、室内の一角にある木製の机には木工室の主もとい、都築先生の私物と思しきノートパソコンや先生の授業で使う教科書、ぼくたち生徒から提出されたプリントなどがひとまとめになって、その近くには電気ケトルと紅茶のティーバッグが入った紙箱、更にその隣には無地のマグがワンペア置かれていた。

 日直などで職員室で都築先生の机を見た時はやけに物が少ないと思っていたら、ここにあったのか。

 思い返してみれば入学式の日、あの日あの時は特に気に留めなかったけれど、都築先生が「教室以外で会える場所」としてのはこの為か。こういうのを〝私物化〟と言うんじゃないのだろうか。

 ぼくが思っていると、先生は物品の点検は一苦労だったとばかりに大きな溜息と共に机とセットの作りになった木製の椅子へ深々と座って、ぼくにも木工室に置いてるのと同じ背もたれの無い四角い椅子を勧めた。

 ぼくは通学鞄を床に下ろし、言われるがままに腰掛けた。

「机と椅子、セットなんですね。お洒落」ぼくの感想だ。

 先生の使っている木で作られた机と椅子は、全体的に角が無く丸っこくて飾り気の無いデザインで、木材そのものの目や色を活かす様にペンキなどは塗られておらず、木材の表面へ薄く塗られたニスにカーテンの間から差し込んだ光が柔らかく反射していた。

 シンプルだけれどモダン、という都会的な印象を抱かせる設計がなされたその机と椅子は、まるで都築先生本人みたいだとぼくは何となく思った。

 特に、飾り気の無さは一目見て気に入ってしまった。先生は微笑んで

「そう、よく気付いたね」と言うと少し照れくさそうに「ありがと。結構昔に……なんだけど、自分で作ったんだよね」と言った。

 まさかとは思ったけれど先生自らが作った机と椅子だったなんて、とぼくは驚きに目を剥いた。

 確かに先生は自己紹介の時に「大工仕事が専門」とは言っていたけれど専門にするとこんな事まで出来てしまうものなのか。

「……すごい。自分で……」

 感嘆の声がぼくの口から出ていた。

「僕、こういうのを作るのが好きなんだ」

 都築先生はそう言いながら机の下に忍ばせていたペットボトルの水を取り出すと、それを電気ケトルに注いだ。

「どうして先生は家具屋さんとか……何というか、ええと……そういうのにはならなかったんですか」

 家具作りが好きならそっちの道に進めば良かったのに、とぼくは思ったのだ。

「ん? ふふ。キミもいつか分かる日が来ると思うけど、〝好き〟を仕事にするって大変なことなんだよ。僕は家具作りや大工仕事が好きだけど、たまたま人に物を教えるのが得意だったから学校の先生になったの」

「好きな事って仕事に出来ないんですか」

 てっきり好きな事を仕事にするのが大人だと思っていたぼくは、先生が好きな事を仕事にしなかった、まして「大変なこと」と言ったことに面食らってしまったし、少しがっかりした。

 電気ケトルがカチッと音を立てた。

 お湯が沸いたらしい。先生がティーバッグを入れた二つのマグへそれぞれお湯を適量入れる。

 先生は言う。

「うーん……『出来ない』ってことは今の時代、無いと思うけど……。やりたくない事もやらなきゃならないのが〝仕事〟だもの。やりたい事だけやるのは、〝趣味〟だよ」

 はい、と先生はマグの片割れをぼくへ寄越した。「熱いから気を付けて」とぼくへ言って話の続きをした。

「さっきも言ったけど、やりたくない事もやらなきゃならないのが仕事だから、せめて〝得意な事〟を仕事に選んだ方がね、楽なの。実務的にも、気持ち的にも」

「だから、都築先生は教えることが得意だったから先生になったんですか」

 ぼくは味気無い見た目のマグの中へ視線を落とした。

 紅茶の水色すいしょくが溶けだす中に自分の顔が映っている。何ともしけたツラだ。琺瑯ホーローのマグ越しに手指へ熱が伝わる。

 先生はぼくのげんに「そういう事」と肯定した。

 ぼくは、そうなんだ、と現実の厳しさを一足先にに知った気になった。

 ぼくの〝知った〟など、理屈の上辺を理解しただけなのだろうけれど。

「先生」

「なぁに?」

 先生は猫舌なのか、何度もマグの中の紅茶に向かって息を吹きかけていた。

「会議の時以外はいつもここでお仕事してるんですか。今朝、職員室に行ったら『会議の時くらいしか居ない』って言われて」

 職員室のデスクにはほとんど物が無いし、とぼくは指摘を交えて訊ねた。

 すると先生は明るく笑って

「あはは、とうとうキミにも知られちゃったか。そうだよ、大体いつもここに居る」

 そう言うと彼は漸く紅茶を一口含んだ。

「どうして職員室じゃなくて木工準備室ここなんですか」

 変なの、とぼくは思っていた。先生はううん、と唸った。

 少しの時間があって、悩んだ顔で先生は言う。

「職員室って、僕には居心地が悪くて。色々場所を変えてみて、やっと集中して仕事が出来たのがここだったんだ」

 教師は職員室に居るもの、という固定観念が否定された瞬間だった。

 ぼくは更に踏み込んで言ってみた。

「だから、こんな……私物化? してるんですか」

 先生は堪えきれない、という様子で「ふふっ」と笑った。

「私物化、なんて難しい言葉知ってるね」

 そして愉快そうな眼差しでぼくへ言うのだ。先生は続ける。

「まあ、ね。私物化してる、と言われてしまえばその通りだね。キミ、痛い所突いてくるなあ。でも、昔はちゃんと職員室に居たんだよ? 随分昔の話だけどね」

 キミがまだ赤ちゃんだった頃かもよ、と先生はころころ笑った。

 何と言うか、都築先生の笑い声はオノマトペにすると〝ころころ〟と表すのが一番しっくり来るのだ。

「僕はこの学校で勤めて長いから、色々とお目溢ししてもらえてるのかも知れないな」

 ぼくは、へえ、と相槌を打つ。

「先生は何年この学校に居るんですか」

「どうだろう。そういえば、新任からずっと転勤したこと無いや」

 先生は何か思い出した様に言うと、上目遣いでどこかを見ながら算盤そろばんを弾く様な手付きをした。その間にぼくは、本当に細い指だなあとか、繊細な作業には向いていそうだけれど力仕事は不向きなのだろうな、だの関係無い事を思っていた。

 そうしていると、先生は上を見たまま表情を硬くした。先生が口を開く。

「もう十四年もこの学校に居るや、今年で十五年目」

 その言葉にぼくは心底驚いた。

「十四年もですか」

 僕の人生を丸々費やしても足りないほどの間、都築先生はずっと〝先生〟だったというのだから目玉が飛び出そうになった。

「ね、僕もびっくり」

 先生も長い睫毛をはためかせて目をぱちくりさせた。それから腕を組んだり口元に手をやったりして「そっかあ、もうそんなに長く居るのかあ」と感慨深げに言っていた。

 ぼくは、先生がいつから職員室ではなく木工準備室にこもって仕事をしているのかが気になった。ぼくが赤ん坊だった頃、都築先生は木工準備室ではなく職員室に居たのだとしたら、少なくとも十年前は職員室に居て仕事をしていた筈だ。

「じゃあ、いつからここで仕事をするようになったんですか」

「明確にいつから、って訳じゃないよ。ここが居心地いいって気付いて、段々と職員室に寄り付かなくなって……ほとんど完全に移ってから、かれこれ八、九年……は経つのかなあ。ここに籠って仕事する内にちょっとした不便があってこんな物までしつらえちゃった」

 先生はマグから片手を離して、自作の机をぽんぽんと叩いて示した。やはり都築先生は〝木工室の主〟で間違い無いのだと、ぼくは確信を得た。

 今のところ、ぼくから話す事が見つからなくて都築先生を質問責めにしてしまっているけれど、都築先生は嫌な顔ひとつしないで答えてくれるし、ぼくへ無理に話させようともしてこない。程よい距離感を持ってぼくと話をしてくれていた。

 だけど、ぼくの事を他の生徒みたいに苗字で呼ばないことに、決して悪い意味ではないけれど、違和感を持った。

 ぼくは思い切って訊いてみることにした。

「あの、都築先生。先生はどうしてぼくを『キミ』って呼ぶんですか」

 不意に、先生の表情が曇った。

「……ごめん、嫌だったかな」

 ぼくは、そんな事ない、と首を振った。それを見た先生はホッとした様子になってぼくへ言った。

「言ってみればさ、課外活動な訳じゃない。今ってさ。だから、学活や授業の時みたいに苗字で呼ぶのは余所余所しいかな、って思って。僕からのお近づきの印」

 先生はにっこり顔になってみせてくれた。ぼくはそれに礼のひとつも言えないで、曖昧な返事をするのみだった。

「どうして、ぼくだったんですか。……先生の、中学時代と重なる……から?」

 手の中の紅茶は飲み頃になっていたけれど、ティーバッグを入れっぱなしにしていたせいで渋みが少し出てしまっていた。

 先生は優しげだけど少し憂鬱そうな顔をして目を伏せた。

「……どうだろうね」

 穏やかで、優しくて、懐かしそうで、悲しそうで、そのどれとも言えない複雑な声色で先生は答えた。その先に何かを言いかける口の動きをしたけれど、言葉は紡がれてこなかった。

 ぼくはそれを追及するほどの図々しさを持っていなくて、ただ目を伏せた先生を見ていた。綺麗な顔立ちをしているな、と考えることにした。

 目元にクマが無くて、瘦せすぎていなければ女性から引く手数多だろうに。余計な事まで考えた。

「キミは、さ」

 先生の口が小さく動いた。ふっ、と上げられた視線はぼくの顔を捉えたと分かった。ぼくは先生の目力の強さに刹那、息を吞んだ。

「クラスについてどう思う? A組の事」

 藪から棒にそんな事を訊かれたぼくは、先生の目力に圧倒されていたのに肩透かしを喰らった気分になった。

「どう、って……」

 その抽象的な質問にぼくは何と答えれば良いか困ってしまった。先生の意図が掴めず、何を言うべきか分からなかったのだ。

 勿論もちろん、何か真剣な話を振られるのかと身構えたのに肩透かしを喰らったせいもある。そんなぼくに先生は優しく言う。

「特に模範回答とかは無いよ。ただキミが感じた事をありのまま言ってみてほしいな」

 ぼくは先生のこの言葉を受けて、内心『肩透かし』という言葉を撤回した。先生は至って真面目にぼくの話へ耳を傾けようとしているらしかった。

「じゃあ、本当にただ思ってる事を……」

 先生はぼくへ頷き、少々居住まいを正した。

「なんか、告げ口みたいですね」ぼくはまだ回答を躊躇ちゅうちょした。

「告げ口だなんて、そんな風に思わないでよ。だって今の僕は〝A組の都築先生〟じゃないもの」

 先生はぼくの顔を見つめたまま小首を傾げた。大きな両手で包まれたマグの中からはいつの間にかティーバッグが取り去られて無くなっていた。

「A組の先生じゃないなら、木工室の主ですか」

 こんな様な話をアイスブレークと言うのだっけ。ぼくはそう思いながら訊き返していた。先生が、ふふ、と笑いはじめて、やがて大笑いした。

「あっはは、何、『木工室の主』って。キミ、僕の事をそんな風に思ってたの」

 先生は心底楽しそうに腹を抱えて笑っている。そんなに面白かったかな。ぼくは首をひねった。

 先生はまだ笑い足りなさそうに、うふふ、と笑いを噛み殺しながらぼくに言った。

「その肩書、気に入っちゃった。キミってなかなか面白いセンスしてるね」

 それから何か思いついた様に手をぽんと叩いて先生は言う。

「わかった。〝担任の先生〟じゃなくて、〝木工室の主〟に向かって自分のクラスについて話してごらんよ」

 それなら告げ口じゃないでしょ、と先生はまだおかしそうにくつくつと肩を震わして言った。

 ぼくは先生へ「それは詭弁きべんだ」とも言えず、これだから大人は……と呆れてしまった。

 ぼくが本当に何を言っても良いのか訊ねれば、先生はここでぼくが話した事はクラス運営の為に使わないと約束してくれたので、ぼくはそれを信じて話すことにした。信じるしか無かったのが本音だ。

「和田、居るじゃないですか。あと、山本やまもととか……高橋たかはし

 ぼくは手始めにクラスで目立つ女子グループの中から三人、名前を挙げた。

 モテ女子の和田翔子、その和田と同じ小学校から進学してきた太鼓持ちの山本由里ゆり、そしてまた別の小学校から来て和田達と仲良くなった服装違反の常習犯、高橋愛佳あいか。見ているだけで胸焼けがしてくる連中だ。

 先生はぼくの挙げた名前にうん、と相槌を打った。ぼくは声を潜めて言ってやった。

「先生の事、好きらしいですよ」

 恋をしている、という意味だ。

 先生はそれを聞いてもちっとも動揺の色を見せず、ただにこにこ笑って

「うん、知ってる」

 と、ひとこと言うのみだった。これにはぼくの方が動揺させられた。先生は言う。

「だって、ずうっとそんな目で見られてるもの。気付くよ」声が笑っていた。

「惚れっぽい年頃だからしょうがないな、って思ってるし、僕に惚れるなんて見る目無いなとも思ってるけど、男を見る目なんてこれから養っていけばいいから好きなようにさせてるところ」

 先生はそう言うと余裕を示す為か、ぼくへウィンクなんかをしてみせた。

 先生の明け透けな物言いにぼくは、啞然としてしまった。ぼくが「そんな事言っていいんですか」と質しても「今の僕は担任の先生じゃない」とか言ってのらりくらりと躱された。更には「このくらいぶっちゃけるのが丁度好い」とも言うのだ。

 それなら、とぼくも普段よりずっと自分に正直になって話すことにした。

「石川ってA組のリーダーって感じじゃないですか。あの仕切りたがるところとか。あと、石川とよく連んでる奴ら。確か、井上いのうえとか佐藤さとう、それから、ええっと……福田ふくだ……だっけ。そうだ、柴原しばはらもだ」

 ぼくはクラスのリーダー格・石川勝生、成績優秀な優等生の井上京介きょうすけ、昆虫博士で変わり者の佐藤 じゅん、サッカーバカの福田雅人まさと、それから石川の金魚の糞・柴原晋一朗しんいちろうの五人を挙げた。

 先生はぼくの話にそうだね、と相槌を打つ。ぼくはアイツらに対して反吐へどが出そうな思いを持っていたから、思い切り毒づいて言った。

「アイツら、点数稼ぎに必死だなってはたから見て思うんですよね」

 先生はふうん、とあたかもぼくへ同調したかの様に言って

「でも、彼らには内緒で不公平にならない様に内申点を計算して付けてるんだってよ。あからさまな点数稼ぎの行動に点数付けちゃったら、他の子が不利になるってさ」と、木工室の主として答えてくれた。

 木工室の主伝てに〝担任の先生〟の話を聞いたぼくは、石川たちの行動のほとんどは徒労だったのだと分かって密かに「ざまあみろ」と思った。

 木工室の主はそれに加えてこうも言った。

「だけど、クラス全体を引っ張ってくれるのは助かってるから、そこは評価して任せてるんだって。評価すべき所はきちんと評価して、余剰な点数は付けないのがA組の先生の方針らしいよ」

 ぼくはすかさず訊ねた。

「それって、石川たちを利用してるってことですか」

 ぼくの質問に木工室の主は「さあね」と言って肩を竦めた。どうやら肝心な事は答えてくれないらしい。

 ぼくは話題を石川らから別の人物の話題へ切り替えることにした。

 この際、ぼくが一番気になっている事へ焦点を当てた話題を振ってみようと思ったのだ。

「武内たちの事、A組の先生はどう思ってるんですか」

 ぼくは、担任の目から見て〝いじめっ子〟たちがどう映っているのか知りたかった。

 都築先生は腕をしっかり組んで眉を寄せううん、と考え込む仕草をした。

「それは……一度質問で返させてくれるかな」

 都築先生は言う。

「キミや、A組のみんなはどう思ってるの?」

 ぼくはしかめっ面で答えた。

な奴、ってぼくは思ってます。多分、アイツら以外のクラス全員がそう思ってると思います」

 ぼくは一度深呼吸した。

「だって、アイツら気に入らない事があるとすぐ怒って手を出そうとするし、中学生になったっていうのにガキっぽくて、クラスの邪魔ばっかり。自分じゃ分かってないと思いますけど、アイツら、クラスのお荷物なんですよ」

 鼻息荒く言ったはいいけれど、未だクラスに馴染めていないぼくだって他のみんなからすればお荷物かも知れない。だけどその事は棚に上げた。少なくとも、ぼくは邪魔はしていないから、その分だけ自信があった。惨めな自信だ。

 先生は憂鬱そうに、そうなんだ、と言ってそのままの調子で

「荷物に『荷物だ』って自覚があったら、それは最早荷物じゃないよね」と言った。

 理解出来るかな? と言うので、ぼくは「理屈は分かります」と答えた。

 先生にも思うところがあるらしく、ひどい皮肉を聞いた気がする。

 先生は深く溜息をついた。

「僕もあの子らには手を焼いてるんだよね。特に、武内くんはご家庭にちょっと問題があって……正直に言うと、お母さんが所謂モンスターペアレントってやつだから、問題行動が見られるとも言いづらくて。角が立たないようにどう伝えたらいいか困ってるんだ」

 言いづらい事も言うのが教師ではないのか、とぼくは憤慨して先生に不満をぶつけてしまった。先生もそれが正論だ、と肩を落とした。

「それでも、正論だけじゃ人は動いてくれないから僕も、キミも、悩むんだよ」

 先生はほとほと困り果てた顔で言った。疲れた声で「人間が理屈だけで動いてくれたらどんなに楽だろう、ってよく思うよ」と呟くのも聞こえた。全くその通りだと思ったぼくは、先生へ不満をぶつけたことを申し訳無く感じた。

「なんで人間で理屈で動けないのかな」

 ぼくはぽつりと言ってみた。先生は困ったような笑い顔で

「理屈で動いてくれたら、そりゃあきっと楽だろうと思う。けど、理屈でしか動かなかったらきっと世界はつまらないと僕は思うよ」

 と、ぼくへ投げかけた。

「えっ」

 ぼくが先生へ反応すると先生は

「音楽とか、絵画とか、芸術品に心動かされたことはある?」

 と、ぼくへ訊ねたのだ。他にも何だっていいよ、とも先生は言う。

 ぼくは──入学式の日を思い出した。ぼくははにかんで、

「先生の、名前……」と恐る恐る答えた。

 先生は少し意外そうな顔をした。

「僕の名前? それは、どうして?」

 先生がそう訊くのでぼくは理由わけを話した。

「景色の『景』を書いて『ひかる』って読むのが、いいな、って入学式の日に思ったんです。『かげ』って読まないのが少し羨ましくて」

 ぼくの話に先生は、意外そうな顔のままでふむふむと頷くと更にぼくへ訊ねた。

「それは、キミの中で理屈があってそう思ったのかな」

 ぼくはそれにハッとさせられて、ふるふると首を振った。

「気持ちが動いたんだね」

 先生が言って、ぼくは深く頷いた。

「キミが僕の名前に心を動かされたのはちょっと意外だったけど……人間にはそんな風に動く〝気持ち〟が備わってるから、きっと色んな絵画が描かれて、多くの曲が書かれて」先生は自作の机を指でとんとん、と叩いて「僕はこういう物を作って」それからぼくと先生自身を交互に指差す。「キミは僕の名前を『いいな』と思う」

 そして先生は楽しげに言うのだ。

「動く気持ち──心や感情は、世界を楽しむ為に人間へ備わっているんだと、僕は思うな。そう思っていた方がきっと生きてて楽しいから」

 ぼくは、そういうものだろうかと先生の言う事が今ひとつピンと来なかった。

首を傾げる僕を前にして先生がひとこと。

「思想だけあって感情が無ければ、人間性は失われてしまう」

 ぼくがぽかんとしていると、先生はくすくすと笑いながら

「チャールズ・チャップリンって知ってる? 喜劇王って呼ばれてたの」と言う。

 ぼくは、聞いたことはある、と答えた。すると先生は

「理屈だけあって感情が無いのは人間らしくない、ずっと昔にチャップリンはそう言ったんだよ」と僕に説いた。

「それが『思想だけあって』……って格言? なんですか」

 ぼくがそう問えば先生は

「僕はそんな風に解釈してる、って話だけどね。ともあれ、感情は無いよりもあった方がいいと僕は思ってるよ」と答えた。

 先生はぼくが紅茶を飲み終わっていることに気付いて、ぼくの手からマグを取っておかわりを勧めてくれた。木工準備室の涼しさに温かい紅茶で丁度良くなっていたから、ぼくはお言葉に甘えることにした。

 ぼくと先生は電気ケトルがぶくぶくと湯を沸かす間も話の続きをした。

「でも、気持ちって楽しいとか嬉しいだけじゃないですよね。悲しい、だって気持ちです」ぼくが膨れて言う。

「悲しい気持ちにはなりたくない?」

 先生の問い掛けにぼくは、誰だってそうじゃないのかと答えた。先生は、

「そりゃそうだよね。僕だってなるべく悲しみたくないし、現にキミは楽しくない気持ちで学校へ来てる。そうだよね?」

 と、ぼくを引き合いに出して言う。

 ぼくがそうだと頷くと先生は加えて言った。

「僕は、楽しいだけが人生じゃないってよく知ってるつもりだよ。だって、辛い事ばかりで楽しい事なんてほんのちょっとだったもの。昨日だったよね、中学生だった僕が今のキミみたいにしょげた顔ばっかりしてた、って言ったのって」

「ぼく、今日もそんな顔でしたか」

 ぼくは自分の頬に触れてみた。タイミング良く湯が沸いて電気ケトルがカチ、と音を立てた。先生はケトルを手に取って

「僕が今日見てた限りではそうだったかな。つまらなさそうな顔してた」

 と言った。新しいティーバッグが入れられたマグへお湯を注ぎ先生は「放課後になって僕と話しはじめたら、ちょっとは楽しそうになってくれて良かったよ」と落ち着いた声で言った。

 ぼくにはそんな自覚が無く、「そうですか?」と訊ねると先生は紅茶を淹れたマグをぼくへ手渡しながら「心做こころなしね」と答えた。

「それで、ぼくと先生の中学時代がどうだって言うんですか」

 先生はまあまあ、とぼくを制した。

「結論は急がないの。順番に、ね」

 ぼくは座る姿勢が少し前のめりになっていたことに気付き、座り直した。先生が話しはじめる。

「僕ね、中学校はあんまり通えなかったんだ」

「それは……病気、とかですか」

 ぼくは先生の病的なまでに痩せて、且つ小さめの背格好とくたびれた感じの顔を見ていて、何となく先生はとても病弱な人なのだと勝手に思っていた。

 先生は目を閉じて、ゆっくり首を振った。

「僕、体は強い方でもないけど、目立って病弱でもないよ。こんななりしてるから体が弱いと思われやすいみたいだね。いや——うん、兎も角、学校にはあんまり通えなくて、毎日も楽しくなかった」

 病気でなければ何なのだろう、先生の言い方からして何か込み入った事情がありそうだな、とぼくは感じたけれどそれを突っ込んで訊ける胆力はぼくには無くて、受け流してしまった。

「それでも卒業はしたんですよね? 義務教育だし……」

 そう言ったぼくに先生は、あはは、と笑い

「誤解してる。義務があるのは大人、親の方だよ。親は子に『教育を受けさせる義務』があり、子は『教育を受ける権利』を持ってるの。詳しい事は社会の先生に訊いてごらん」と僕の誤解を訂正したけれど

「まあ、キミの言う通り中学はきちんと卒業したよ。高校受験にも合格してね」

 と、ぼくの発言そのものは否定しなかった。先生は話を続ける。

「それでね、僕、高校は普通科じゃなくてインテリア科に進んだの」

 普通科って言うのは習う事だけ発展して中学校と大して変わらない高校の種類ね、と先生は中学生になったばかりのぼくへ簡単に説明してくれた。

「中学と違って高校は結構楽しく通えてたんだけど、インテリア科の授業を受ける中でね、少しだけ舞台やテレビ番組で使う、うなれば〝大道具〟についても習ってさ。それを教えてくれた先生が、チャップリンの無声映画が大好きだったの」

 ぼくは先生の話に身を入れて聞いた。先生は思い出話を語り聞かせてくれるようにぼくへ話をした。

「それで、その先生はよくチャップリンの名言を授業で引用して、ある日言ったの」

 それでさっき、チャップリンの格言が出てきたのかな。ぼくは思って、次は何を言うのだろうと先が気になった。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ──って。それを初めて聞いた時、何て説明したらいいのかな、僕の頭にその言葉が焼き付いて離れなくなって……色々考えたの」

 先生は何を考えたのだろう。ぼくは最早先生とぼくとの間の結論なんかどうでもよくなって、話の更に先が気になった。

「それまでの僕っていうのは、ずっとクローズアップ、つまり〝寄り〟」先生は空いていた片手をカメラに見立てて机の天板へ〝寄せ〟た。「でしか物事を見ることが出来てなくて、だから毎日が楽しくなくて、悲しい気持ちにばかりなってたのかもってその時初めて思えたの。だから、ロングショット、『俯瞰ふかん』って意味なんだけど、要するに〝引き〟で」先生は天板に寄せていた手を今度は〝引い〟た。「見れば、辛いとか悲しいと思う出来事も実はそんなに大した事じゃないのかな、とも考えたんだ」

 先生は小休止にマグの中のティーバッグを取り出して、部屋の片隅に置いていたゴミ箱へ放った。ぼくにも気を回してくれて「捨てる?」と訊ねてきたので、ぼくは「はい」とお願いして、同じくマグの中からティーバッグを取り出した。

 先生はその後紅茶をひとくち飲んでから「どこまで話したっけ」と、とぼけた表情を見せ、ああそう、と話の続きをした。

「そんな事を考えたこともあったけど、大学に進学して就職する頃には忙しさなんかで忘れちゃってて。また最近になって高校時代のノートを見返したりして思い出して考えをめぐらせてみたらさ、本当にその通りだったんだ。僕より歳上の人にこんな事言ったら怒られちゃうかも知れないけど、長く生きてみるものだなあ、と思った」

 とどの詰まりね、と先生は言う。

「キミはまだ、十二年かそこらしか生きてなくて人生を〝引き〟で見たとしても〝寄り〟で見るのと大差無いから一つひとつの感情の割合が大きくて、僕たち大人が大した事無いって言う事にも大きく心が揺さぶられて、惚れっぽくなったり、キミや中学生だった頃の僕みたいに毎日しょげたりしちゃうんだと僕は思うの。もし今、キミが絶望しそうになってたとしたら、僕という生き証人が居るからさ……気楽に構えて生きていこう──なんて、思うんだ」

 先生は「キミは、A組でどうありたいとかあるの」と、優しい声でぼくへ訊ねて紅茶をひとくち飲んだ。ぼくはずっと思っていることを答えた。

「もっと、クラスの誰かと仲良くなれれば良かったのに、って思います」

 ぼくは一人でいいから友達と呼べる人物が欲しかった。

 先生は机の上にマグを置き、

「『なれれば良かったのに』って、随分悲観的に言うんだね。まるでもう誰とも仲良くなれないみたいな言い方じゃない」

 狐に摘ままれた様な顔をしてぼくへ言った。ぼくは言い訳がましく理由を話す。

「だってもう二ヶ月も経っちゃって、クラスのグループなんてとっくに出来上がっちゃってるし……」

 ぼくが誰かと仲良くなれる望みなどもう無いのだ。

「ほら。〝寄り〟で見てる」

 先生はぼくの言い分を、さっき言っていたチャップリンの格言になぞらえて指摘した。

「一年は何ヶ月ある?」先生に訊かれた。

「え……。十二ヶ月、ですよね」ぼくはいぶかしみながら答えた。

 先生は質問を重ねる。

「十二ヶ月の内の二ヶ月って、分数で言うと幾らだろう」

「ええと……六分の一、です」

 ぼくは先生からいきなり算数の問題を出され、どぎまぎしながらも解答した。

「そう、お見事。小学校で算数、頑張ってきたんだね」

 やにわに先生から褒められて、ぼくは照れてしまって据わりが悪くなった。先生は悪戯っ子の様に笑うと「じゃあ今度はちょっとイジワルな問題出しちゃお」と言ったのでぼくは次の出題に身構えた。先生が次の問題を出した。

「六分の一は百分率パーセンテージで言うと幾つでしょう?」

「ええっ」

 急に難度の上がった問題にぼくは戸惑う。そんなぼくに先生はにっこりと笑う。ぼくの反応を見て楽しんでいる様に感じた。案外、サディストなのかな。

「ええと……先生、百は六で割れません」

 ぼくは白旗を上げた。先生は楽しげに、うふふ、と笑って

「百が六で割れないことが分かるだけで上出来じゃないかな。将来、数学の先生になれるかもよ」

 などと冗談っぽく言った。

 実のところ、ぼくは百分率を求めようと馬鹿正直に百を六で割ろうと暗算して、その途中で割り切れないと気付いたのだ。

「なれませんよ。だってぼく、百を六で割ろうと暗算したから」

「じゃあ、概数がいすうくらいは出せた?」

 そう訊ねてくる先生にぼくは首を振って出せなかった、と答えた。そっか、と先生は言った。解答を乞うぼくの眼差しに先生は

「答えは、約十七パーセント」

 と、答えてくれた。

 肝要な事柄ではなかったけれど、先生は答えを知っていて出題したのか、今この場で暗算したのかがぼくの気になるところだった。なぜなら、都築先生は数学の先生ではなく技術の先生だからだ。

 先生はぼくへお構いなしに

「〝引き〟で見てみて」

 と話しはじめた。

「まだ一年の約十七パーセントしか過ごしてないよ。夏休みとか冬休みの分を差し引いて、五分の一程度として考えてもまだ二〇パーセント。割合で言うとたったの二割」

 どう? と先生は口元に笑みを浮かべて首を傾げた。

 確かに、数字で示されるとまだ中学生活は始まったばかりだと分かる。これが三年分にもなれば一割にも満たないだろうか。けれど、ぼくは思う所があって先生に食い下がった。

「けど、一年の二割しか経ってないのにもうクラスの中には派閥が出来てるんですよ。今更どこに入ればいいんですか」

「どこの派閥に入るか、それともどこにも入らないかは、僕じゃなくてキミが考えて決める事だよ」

 先生はぼくが思うよりあっさり言った。その言葉に何も返せず呆然とするぼくを先生は毅然とした態度で

「キミはこれから大人になっていくんだから、そういう事は主体性を持って考えなきゃ」

 と叱った。ぼくは横っ面をぱたかれたみたいな衝撃を受けた。

 先生は、ぼくが大層ショックを受けていることに気付いたらしく、きりりと厳しくなった表情をふわりと和らげてぼくを慰めるつもりかお茶目に

「まあ、ただ『主体性を持って考えろ』って言って突き放すのもあんまりだから、一緒に考えてみようか」と言ってくれた。

 そして先生はぼくへ投げかける。

「キミは誰と仲良くなりたいと思うの?」

 ぼくには心当たりがある。

「実は」打ち明けることにした。先生はぼくを見て頷き、促した。

「千葉となら……仲良くなれそうだな、って……ずっと思ってて」

 ぼくはこの孤独な学校生活の中で、クラスのムードメーカーでひょうきん者の千葉悠真となら仲良くなれる気がして止まないのだ。

 理由は単純で、ただ出席番号がぼくの直前だから席替えをするまでは席が目の前で、誰からも相手にされなかったぼくを何度か構ってくれたことがあるから……というだけだ。

 正直に言うと、ぼくはアイツの明るい性格に救われる心地がしていたから、本当は〝仲良くなれそう〟ではなく〝仲良くしたい〟のだ。

「千葉くんと?」

 先生の声はひっくり返っていた。ぼくは変な事を言ったんじゃないかと不安になった。先生は長くて真っ直ぐな前髪を顔からどける様に指で軽くきながらどこかへ視線をやって

「千葉くんかあ。あの子、本当に人気者だなあ」

 と、しみじみ独りごちた。先生はどこかへ向けていた視線をぼくに向けると

「千葉くんは確かにいい子だね。人に媚びなくて明るくて真っ直ぐで、自虐は言っても誰かを貶したり、人を傷つける冗談は言わない。ご両親の教育方針が良いんだろうね。あの子だったら僕、太鼓判押しちゃう」と言う。本心から言っていると分かった。

 でも、とぼくが言いだすと先生は不思議そうに首を傾げた。

「アイツ、人気者で色んな奴から引っ張りだこだし、今更ぼくが『仲良くして』なんて言っても相手にしてくれるかどうか」

 先生は困り顔になった。

「どうして? 千葉くん本人から言質が取れてる事なの?」

「取れてなくても見れば分かるじゃないですか」ぼくは声を尖らせた。

 あのねぇ、と先生は渋い顔をして深く溜息をついた。

「見れば分かる事って、意外と多くないよ」

「でも、『百聞は一見に如かず』って言うじゃないですか」

 先生は今度は呆れ顔になった。

「じゃあ訊くけど……〝千葉くんは人気者〟で〝千葉くんは引く手数多〟。即ち〝彼はキミと仲良くするほど暇じゃない〟、だから〝キミが彼と友達になるのは諦めるべき〟──この内どれがキミが直接見て知った事なの?」

 はあ、と先生は溜息をつく。ぼくは

「千葉が人気者で、引く手数多なことだけ……」と答えるに留まった。悔しい。

 先生は更に畳みかけてきた。

「なら、千葉くんは忙しいからキミは彼との友人関係を諦めるべき、っていうのはどこから出てきた途中式と解なの」

 ぼくは何も言えなくなってしまった。

 本当は心のどこかで分かっていた、ぼくは誰とも仲良くなれない口実が欲しいだけなのだと。先生は直接口には出さなかったけれど、多分、そのことをぼくが自覚出来るように証明してみせたのだ。

 先生は俯いたぼくの顔を覗き込んで

「どちらも、キミの憶測だよね?」

 そう問いかけてきた。ぼくは黙ったまま俯いていることしか出来なかった。それが何よりの答えと知らずに。

 先生はいつもより少し険しい顔になっていたのをいつも通りの穏やかな顔まで表情を緩めると、ぼくへ言う。

「そんな顔しないで。責めてないよ」

 先生の大きな手がぼくの頭を優しく撫でた。髪型が少し乱れてしまうくらい沢山撫でてくれた後は、指を使って丁寧に髪型を整えてくれた。

 先生は髪型を整えてくれるとぼくの肩をとんとん、と叩いて「ほら」とぼくの肩越しに窓の外を指差した。

 ぼくが顔を上げ振り向いて半分開けられたカーテンの間から窓の外を見ると、いつの間にやら一雨あったらしく、空に虹が架かっていたのが見えた。

 ぼくがその美しさに見蕩みとれていると、後ろで先生の声がした。

「下を向いていても、虹は見付からない」

 ぼくが声に振り返ると、先生は穏やかに微笑んでいた。校内放送が流れる。

 ──最終下校の時間になりました。

 ──校内に残っている生徒は、速やかに下校しましょう。

「最終下校時間になっちゃったね」

 先生が名残惜しそうに言う。ぼくはマグに残った紅茶を飲み干した。

「そうですね。……明日も、また来ます。朝七時半に、木工室。ですよね」

 ぼくが床に下ろしていた通学鞄を膝に乗せてそう言うと、先生は一瞬だけ目を丸くして、そして優しく笑った。

「今日は紅茶しか間に合わせが無かったけど、何かリクエストはある?」

 先生は〝おはなし〟をする間、飲みたいものなどはあるかぼくへ訊ねた。ぼくが「何でもいい」と言うよりも早く「何でもいい、は無し」と突っ撥ねられてしまった。

「じゃあ、ココア……とか」

 ぼくが遠慮しながら言うと、先生は「分かった」と返事して「何かつまめる物も用意しておくよ」とまで言った。別にそこまでしなくていい、とぼくが言っても先生はいいから、とにこにこ笑うばかりだった。

「それじゃあ、失礼します」

 ぼくが椅子から立ち上がって一礼すると先生は

「今日の感想は何かある?」

 と訊ねてきた。ぼくは、自然と少しだけ口角が持ち上がって、こう答えた。

「……結構、楽しかったです。色んな話が出来て。ぼく、入学してからこんなに誰かと喋ったの、多分……初めて」

 それを聞いた先生は、そっか、と嬉しそうに言って

「明日はどんなおはなしをしようか、楽しみだね」

 眦と口元に深く皺が刻まれるほどの満面の笑みになった。

 少年の様な表情を見せた先生にぼくが失笑で返すと、先生は恥ずかしかったのか、あわあわと焦った様子になってから元通りの顔つきに戻った。

「じゃあ、ぼくはこれで。紅茶、ごちそうさまでした」

「うん、また明日。気を付けてね」

 今日の都築先生との〝おはなし〟は、世間話だった。

 明日は、何を話してくれるんだろう。

 ぼくは期待していたよりもずっと、都築先生との〝おはなし〟を楽しんでいた。

 先生は話のひきだしがとても多い人で、ぼくはそれに憧れて、あんな大人になりたいとちょっぴり思った。

 学校に行く理由なんて、先生との〝おはなし〟が目当てでもいいや。

 そんな風に思いながらぼくは、地面に出来た水溜りも気にせず家路に就いた。

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