春【花の泥濘、水鏡に映す世界】

 過去となった日常が風で吹き飛び一気に春がやってくる。目の前で桜が散り、道を進むとさらに色とりどりの花弁が風に舞う。


 こんなにも鮮やかな花たちが嵐のように舞い込むのに、受け止めきれずに両手からこぼれ落とした。あまりの眩しさに顔を歪めるのは至って自然なことだろう。


 ──花の襲来は眠っていた何かを呼び起こすように焦りを掻き立てる。


 ふと、足元で水の跳ねる音がした。昨日は雨だったのだろうか。ぐちゃぐちゃになった花弁と泥濘ぬかるみに、足が僅かに沈む。


 茶色の地面と泥だらけの花たちを見つめながら一歩進む。これが人生だろうか。色を無くしていく顔は次の泥濘ぬかるみに気づく。


 こうして大人になっていく、心が平らになっていく、強くなっていく。


 そう思っていたのに、次の泥濘ぬかるみに足を踏み入れることはなかった…………否、落とせなかった。


 美しい────。


 その水たまりは鏡のように世界を映していた。花舞ううららかな春の息吹と、驚いた自分の顔の向こうに澄みわたる青空を。


 踏みにじれなかった。自分の体幹に自然と力が入り、その水鏡を足は越えた。そうして気づくのは地面ばかりに気をとられていたこと。


 見上げると空は変わらず美しかった。変わったのは自分の色眼鏡だった。


 この世界は変わっていない。そうだ、泥濘ぬかるみの世界か花の世界かは自分で選べるのだから。


 また踏み出した自分の表情は、水たまりに映さなくても分かる。両手で抱えていた花弁を手放すと、人生を彩るように風に舞い踊っていた。


 一度立ち止まると新春を深く息を吸い込む。次に口から新たに風を生み、向かい来る花たちを歓迎して歩き出した。


 きっとまた泥濘ぬかるみは現れるのだろう。そのたびに何度も何度もこの美しい世界を生きていこう──。



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