第30話「世界からの祝福」
「驚いたな……」
「まだ驚くのは早いだろ」
「……ちなみにだが、貴様、最近私にたいして言動が礼を失しすぎてはおらんか」
「人と竜にどれだけの権威差があるっていうんだ」
ミアハはいつもの森奥の泉でその日も魔術の鍛練をしていた。
ミアハは家を出る前、ルナフレアが自分を尾行しようとしていることに気づいていた。
しかし予想は外れ、途中からルナフレアの香りを運ぶ風は届かなくなる。
――急用でも思い出したのかな。
忙しい彼女にはよくあることだ。
「おれたちは対等だ。だから取引は成立する」
「まあ、取引が対等な者同士で行われることには異論はないが……」
ゼスティリアがやや腑に落ちないという様子で言った。
「で、おれたちは取引をした。そしてお前は俺に対して礼など示していない。つまりおれも礼を示す必要がない」
「隻翼とはいえ竜族を相手にここまで堂々とした物言いができるのはいっそのこと感嘆するぞ……」
ミアハは日に日にゼスティリアに対してズバズバとした物言いをするようになった。
だが、そこには一定の親愛のようなものもある。
いうなれば気を許した友人に投げかける皮肉のようなものだ。
かくいうゼスティリアも、口では文句を言いつつ悪い気はしていないようだった。
「おれとお前は友人だ」
「友人……?」
「お前、友達いないだろう」
たしかにゼスティリアに友と呼ぶような人間はいない。
むろん、竜が相手であってもそうだった。
「お前ほどではないがな」
「たしかにおれには友と呼べるような者はいない。家にこもっていることが多いし、昔あった貴族の子どもたちとの交流も年を重ねるたびになくなっていった」
幼少時の貴族同士の繋がりは、年を重ねると場がそれぞれの屋敷から社交界へと移る。
お互いに公務を取り仕切るようになれば、なかなか昼のうちに互いの屋敷でゆっくりお茶をくみかわすこともできなくなるからだ。
「おれは社交界にも出席していない」
「人間にしては――顔は悪くないほうなのだがな」
「竜に人の顔の良しあしなんてわかるもんか」
「たしかに、くわしくはわからん。だがその社交界とやらでうわさになっているというのは聞いたぞ」
ゼスティリアが言うと、ミアハが編んでいた術式を急にほどいて顔をあげた。
「聞いた? ……誰から? まさかお前、おれ以外の人間と――」
「そう怒った顔をするな。聞こうと思えば聞こえるものだ。忘れていそうだから言うが、私は竜だぞ。生物としての能力は人間風情よりよっぽど優れている」
「……」
そう得意げな顔で言うゼスティリアに、ミアハはわずかな違和感を覚えたが、そのときは口にはしなかった。
「それで、生体錬成の進み具合はどうだ。ドラゴン・レースとやらはもうすぐそこに控えているのだろう?」
「……いけるよ。おれを誰だと思ってる。〈悲劇の子〉だぞ」
ミアハは
ちょうどそのあたりで一陣の風が吹く。
「風が強いな……」
風が強い日にはよくないことが起こる。
ミアハはわずかに心のざわつきを覚えた。
「――おい、ミアハ」
「なんだ」
と、今度はゼスティリアが妙にまじめな顔でミアハを見ていた。
彼は言った。
「お前、今、風を
◆◆◆
ミアハ・レイデュラントには風が見える。
比喩ではなく事実である。
「……ああ、見たよ」
風読みの眼と呼ばれる特殊な魔眼。
ミアハが〈風に愛された子〉と呼ばれるゆえん。
「それは本来、空を縄張りとする有翼種族が持つ眼だ」
「知ってる。知ってるけど、しかたないだろう。見えるものは見えるんだ」
「人間が風読みの眼を……」
ゼスティリアの顔には驚愕があった。
「これくらい、ほかにも持ってるやつはいる」
たぶん、世界中を探せば、とミアハは付け加えて、再び魔術の編成に勤しむ。
しかしこのときゼスティリアが真に驚いていたのはミアハの眼に風が見えることにではなかった。
――風が、ミアハを避けた。
まるで、ぶつかってしまって怪我をさせないように。
風の精が、ミアハという存在を慈しむように。
当たるはずだった突風は、ミアハの手前で急速に進路を変え、その白い髪の先をわずかになでるようにして過ぎ去った。
――風を、操る。
魔術ではない。
ミアハに魔力は存在しない。
――これは、『世界からの祝福』だ。
生命が営みを続けるこの大地。
空と空気。
ミアハはその根源的存在に、愛されている。
――竜でさえも自然の風そのものを完全に操ることはできないというのに。
ややもすれば、世界を
ゼスティリアが持つ竜としての風読みの眼には、そう見えた。
「よし、なんとなくわかった。一応、試しに一回だけやってみるか」
「やってみる?」
ふとミアハに声をかけられて我にかえったゼスティリアは、わずかに首をかしげた。
「決まってるだろ」
対するミアハはにやりと笑った。
「お前の片翼を、ここで作るんだよ」
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