第6話
暁音の寂しげな笑いに沙霧は押し黙った。沙霧が視線を彷徨わせて俯くと、暁音は手を下ろしてコップを手に取った。紅茶を飲むでもなく、ただ水面を見つめながら静かに瞬きをすると口元を下げた。
「私にはちょうど沙霧さんと同い年の妹がいました。六つ年下の妹は生まれてからずっと、私にとって可愛くて仕方がない存在でした」
暁音の言葉選びから察した沙霧は顔を上げた。
「生まれつき病弱だった妹は、小学三年生の時に持病が悪化して入院生活が始まりました。家は母子家庭でしたから、母は中学三年生になったばかりの私と妹の入院費を稼ぐために毎日必死に働いてくれました。私はなんとか助けになろうと家事だけは必死に頑張って、中学を卒業したら私は就職するつもりでした。しかし妹に反対されて高校に入学することになりました。妹は、私の分まで楽しく生きて、と言ったんです」
暁音は壁にかけられたドライフラワーに目を向けた。嫌いだと言った割には愛おしさを滲ませる目に、沙霧は戸惑った。
「あの花、ニゲラは妹の好きな花でした。トゲにも見える葉に包まれて動けなくなっている様子を自分に重ねていたみたいで、病室には絶対に飾っていました」
トゲのような葉に囚われたあの御空色の花。大切な思い出が篭ったニゲラの花。それは同時に、哀しみをも抱えていた。
「あの花は城ヶ崎さんが好きな花なんだそうです。以前二人でお会いした時にそう教えていただきました」
「そういえば、城ヶ崎に教えたことがありましたね。妹の好きな花だと。確かあの時、ニゲラについて調べた彼は、自分にとってのニゲラは私だと言いました」
どういう意味だったのか、と首を傾げた暁音に、沙霧は不安そうに唇を噛み締めた。しかしすぐに首を振って顔を上げると、なんでもない顔で笑った。
「それで、その時入学した高校で城ヶ崎さんと出会ったんですよね?」
「え、ああ、はい」
急に話を戻されて驚いた暁音は、不思議そうにしながらも身の上話の続きを語った。
「彼はバイトを探す私にご両親が経営していたレストランを紹介してくれた上に、他にも二つバイトを紹介してくれました。それから高校を卒業して、一年はレストランで働いていたのですが、城ヶ崎が今の会社を立ち上げたから働きに来いと言って私を引き抜いてくれました。城ヶ崎のおかげで今の私があると言っても過言ではありません」
一度言葉を切って手に持ったままだった紅茶を一口飲むと、リビングにその音と風鈴の音だけが響く。
「必死に働いていたある日、母が過労で倒れました。私も母も働いてばかりだったので、病院のベッドで眠る母の顔を見たのは二週間ぶりでした。酷くやつれていたのに、私は忙しさにかまけて気がつくことができませんでした。母はそれから動くこともできなくなったので、私は二人分の入院費を稼いで、それだけを目的に生きていました。ですが、去年の9月の始め。妹が亡くなってしまいました。母も後を追うように、二日後に息を引き取りました」
言葉を探そうと目を彷徨わせた沙霧は、黙ってそっと暁音の手を取った。しばらく風鈴の音しか響かなかったリビングに、次第に嗚咽が混じった。
沙霧が暁音を抱き寄せ、その背中をテンポよく柔らかに叩くと肩から力が抜けた。
「私には、何の目的もなくなりました。仕事も、実を言えば昨日まで休んでいましたし、辞めるつもりでした」
小さくボソボソと話す声は、ゼロ距離にいた沙霧には確かに届いた。背中を叩いていた右手を暁音の頭に移すとゆっくり撫で始めた。
少し固いまっすぐな髪からは沙霧と同じ、この家に備え付けられたシャンプーの蜂蜜の香りがする。暁音は安心したのか、頭を沙霧の肩に預けた。
「昨日の朝、城ヶ崎から電話がかかってきました。派遣ではなく城ヶ崎の元で専属で働かないか、と。ですが、今までずっと城ヶ崎に頼りきりだったのに、これからもなんて、申し訳ないと思いました。だから、この仕事を最後に会社を辞めようと決めたんです」
辞める、という言葉に沙霧の手が止まる。そしてそっと左手を伸ばすと、暁音の腰に腕を回した。
「他に、行く宛てがあるのですか?」
沙霧が今朝から使っていた子供っぽさの滲む声ではなく、出会ったばかりのときのような大人っぽい声で突き刺すように話すと、暁音は肩をビクリと跳ねさせて腕から逃れた。
「行く宛てなんて、あるはず、ないですよ」
背を向けて俯き、拳を握りしめる暁音に沙霧は立ち上がって歩み寄るとその腕を強く引いた。
「ならば諦めて、私の。いえ、私と城ヶ崎さんの為に生きなさい」
二人の影が重なり、風鈴の澄んだ音はかき消された。
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