第16話 届かない思い
那津はトレーにコーヒーを3つ乗せて戻ってきた。花乃と葉月は笑顔で「おかえり」「ありがとう」と言って迎える。
那津は一つずつコーヒーを手渡す。
「ありがとう。」
花乃が那津からコーヒーを受け取り、笑顔でお礼を言う。
そんな、なんて事ないやり取り。
なのに、那津はそんな花乃の様子に違和感を感じた。
いつも通りに両手でコップを持って、ふうふうと冷ましながらブラックコーヒーを飲んでいる。そして、花乃は葉月との会話を楽しんでいるように見えた。
気のせいだろうか。
そう思って、那津は花乃の横に座った。
「ねえねえ。そろそろお腹空かない?」
花乃はスマホを操作しながらそう聞いた。
確かにお腹が空いてきた。
そう思って、那津はお腹を押さえた。
時計を確認すると、もう昼を過ぎている。
「お姉ちゃん、なに食べたい?」
花乃はキラキラとした瞳で尋ねる。
その顔は、花乃がおすすめしたいものがある時の顔だ。
那津はそんな花乃の表情を見て、クスッと笑った。どうやら葉月も気付いたようで、にやりと笑った。
「あ。その顔はおすすめがあるのね。」
「へへ。」
花乃はいたずらがバレた子どものように無邪気に笑い、スマホを見せた。
「見て見て。ここのハンバーガー食べたくない?」
「大きいな。」
「そうなの!だから1人じゃなかなかチャレンジできなかったの。」
「でも美味しそうね。食べたいなあ。」
「じゃあ私買ってくるよ!」
花乃は嬉しそうに立ち上がり、いそいそと移動し始めた。
「花乃。」
どうもおかしい。
那津はその違和感を拭いきれなかった。
飛び出していった花乃の後を、那津も追いかけて行った。
そんな2人の様子を、葉月はあたたかく見守っているのだった。
「おい、花乃。俺も行くよ。」
花乃の後を追って来た那津。
花乃はくるりと振り返り、那津に耳打ちした。
「那津、今がチャンスじゃない。」
「はあ?」
「お姉ちゃんのこと、好きなんでしょ。」
「ああ。そうだよ。」
その言葉に、花乃はきゅっと胸を締め付けられた。
「ねえ、このままでいいの?」
花乃は苦しそうな表情で尋ねてくる。
「9年だよ。那津が失恋して、9年。もう前に進まなきゃ。」
「……。」
「私たち、もう子どもじゃない。結婚もできるし、何だってできる。だからこそ、自分で選んでいかなきゃ。」
那津は眉間に皺を寄せたが、何も言わなかった。
握り拳を作って、俯いている。
花乃はそんな那津の手を優しく包み込んだ。
「頑張ってね、那津。」
そして、逃げるように那津のそばから走り去っていく。
那津はそんな花乃の後ろ姿を、見送ることしか出来なかった。
那津が葉月のもとへ戻ると、葉月は優しい笑顔で迎えてくれた。
昔から変わらないその笑顔に、那津はぎゅっと胸を掴まれる。
葉月は、那津にとって理想の女性だった。
優しくて、真面目で、可愛い。
どうして自分と5歳も歳が離れているのだろう、と何度も悔やんだ。葉月の同級生と葉月が仲良くしておる姿を見かけるたびに、早く生まれて来なかった事を嘆いた。
花乃から葉月が人気者だと自慢されるたびに、それはそうだろうと納得すると同時に、嫉妬した。
それでも大人になれば5歳差なんて、と自分を鼓舞して、葉月に釣り合う男になるため、弁護士を目指した。
それは、葉月が当時流行ったドラマの弁護士がカッコいい、憧れだと話していたからだ。
今の那津は、全部葉月のために目指した姿だった。
けれど、葉月は那津よりも年の離れた人と結婚した。
結婚式で幸せそうな葉月を見た時、那津は、ぎゅっと唇を噛み締めることしかできなかったのだ。
「那津くん、花乃との生活はどう?」
那津が席に着き、葉月と向き合うと、葉月は真剣な眼差しでそう問いかけた。
「違和感がないんですよね。ずっと一緒だったからか、一緒に生活してるのが自然っていうか。」
「それって大事なことよ。」
那津の答えに満足したのか、いつもの笑顔の葉月に戻る。
葉月にとって、花乃は宝物のように大切な存在だと、昔本人から聞いたことがあった。
好かれようと頑張らなくてもいい相手、無条件で愛してくれる存在、それが花乃なのだと。
それは、那津にとっても同じだった。
那津にとって花乃は、無理なく付き合える相手だった。
どちらかと言うと那津は、愛想を振りまいて人好きはするものの、人との間に一線引いた付き合いをしていた。
「私は結婚した頃、少し違和感があったもの。」
葉月の告白に、那津は意外そうに目を丸くした。
「そうなんですか。」
「ええ。遠距離恋愛だったのもあるけど、緊張しちゃってね。」
「花乃に緊張なんて皆無ですよ。」
那津は呆れたように葉月にそう漏らした。
花乃の部屋に押し入った時から、花乃は嫌そうな表情はしたものの、緊張していたようには見えない。
ーー他の人にもそういう態度なのか、あいつは。
しかし、自分以外にもそういう態度を取るのかと、考えていくとあまり面白くはなかった。
「花乃も那津くんと一緒で安心してると思うの。」
その言葉に、那津は嬉しい反面、気恥ずかしくなった。そして、話題を変えようと焦りながら話し始めた。
「そうですかね。そう言えば花乃、この前人気のドーナツ店からやっと買えた、て自慢してたんですけど、その日のうちにドーナツ5個も食べてお腹壊したんですよ。ほんと昔から子どもっぽいっていうか。成長してないんだから、て笑っちゃいましたよ。」
葉月はくすくすと笑った。
話題を逸らせたことにほっと那津も、ようやく笑みが溢れた。
「那津くんは、昔から花乃の話を楽しそうにするのね。」
間違いだったようだ。
むしろ、追い討ちをかけられた気分だ。
「それは……気付いてませんでした。」
那津は耳を赤くして俯いた。
その様子をさらに楽しそうに葉月は笑う。
「那津くんが変わらなくて、よかった。」
葉月の笑顔に、那津もつられて笑みをこぼした。
ーーああ、やっぱり好きだなあ。
そう思った時に、ふと、花乃から言われた言葉を思い出した。
『頑張ってね、那津。』
あの時の花乃は、どんな表情をしていただろう。
今までずっと近くにいたのに、花乃は那津に何も聞かなかった。それが居心地良くて、花乃に甘えていた。片思いでいいから、すがりつきたかった。そんな那津を、花乃は黙って受け入れてくれていた。
そんな花乃が、『前に進まなきゃ』と言ったのだ。
このままがいいと思っていた。
けれど、このままでいいのだろうか、と那津は逡巡する。
「葉月さん……。」
「なあに、那津くん。」
楽しそうに笑う葉月の笑顔が眩しい。
そんな葉月の笑顔が、那津は大好きだった。
でも。
その笑顔を引き出しているのは、那津ではない。
葉月が誰を思って笑っているのか。
そんなの、聞かなくてもわかっている。
あの結婚式の日に気付かされてしまったのだ。
もう、那津の想いが届くことがないのだと。
唇をぎゅっと噛み締めて、眉間に皺を寄せて、眩しいものを見るような焦がれるような熱い視線を、ずっと葉月に送ったのに、葉月の視界に那津は入らなかった。
だから那津には葉月の幸せを見守るしかできなかった。
『このままでいいの?』だって?
良いわけがない。
それでもこれ以上良くもならないのだ。
だから未練たらしく、必死にしがみついて、すがりついてしまうのだ。
ーーどうか。
那津は心から願う。
「幸せ、ですか?」
ーーどうか『不幸だ』と言って欲しい。
貴方の不幸せを、心から願うよ。
そうしたら、その隙間に自分が入れるかもしれないのだから。
那津は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「ええ。幸せいっぱいよ。」
葉月は花が咲いたかのような、今までで1番の笑顔で答えた。
幸せが溢れ出ているような、そんな葉月が、本当に眩しくて目を窄めてしまう。
届かない願いだと知っていても、つい願ってしまう。那津は心の中で自分を嘲笑った。
ーーバカみたいだ。
幸せな葉月の姿。
けれど、それは那津には手が届かないものなのだと改めて思い知る。
「それに、大好きな妹がしっかり者の貴方と結婚してくれて本当に嬉しい。貴方が本当の弟だったらな、て思ってたの。」
大好きな妹ーーその言葉で、那津は花乃のことを思い出した。
茶番みたいな契約結婚に付き合ってくれて、
いつまでも女々しい自分を受け入れてくれた、
気心知れた那津の仮初の妻。
那津はぎゅっと拳を握りしめて、精一杯のいたずらっぽい笑顔を作った。
「俺、ずっと、ずっと葉月さんのこと、好きだったんですよ。」
そして、にっと花乃に見せるような、不遜で不敵な那津の素のままの笑顔を見せる。
それが那津にできる精一杯の意地っ張りだった。
「うん。知ってる。」
「え。」
葉月の真面目な声色に、那津は体が強張った。
「知ってたよ、那津くん。貴方の気持ち。」
葉月は小さい子を宥めるような、そんな優しい表情をしていた。
「葉月さん。」
葉月は微笑むばかりで、それ以上何も言わなかった。
それが、葉月の答えだった。
「はは、冗談ですよ!いや、まあ高校の伝説のマドンナの葉月さんに憧れてたっていうか。まあ、お姉さんとしてというか、人としては本当に好きですけど。」
その言葉に葉月も満面の笑みを見せた。
ーー葉月さん、貴方は俺の嘘でなら、俺に笑ってくれるんですね。
思いは届かない。
それを思い知った。
「那津くん。」
那津は笑顔を貼り付けたまま、葉月を見た。
そうしていないと、溢れ出してしまいそうだったから。
「ありがとう。」
葉月は那津を真っ直ぐと見つめていた。
あの結婚式の日。
どんなに熱い視線を送っても見てくれなかった葉月が、ようやく那津を見てくれたようで、那津は心が軽くなっていった。
それでも、すぐには吹っ切れない。
ーー彼女にもう一度会えてよかった。
ようやくケジメがついた気がする。
次に想う人が出来るまで、俺は貴方のことを一番に想っている。
どうか、そのくらいは許して欲しい。
那津は軽くなった体で、ようやく次の一歩を踏み出せる気がした。
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