山蔭の織物語り

市枝蒔次


 りいん、りいん

 と音が鳴る。

 

 その鈴のような音とともに、たづ・・は顔を上げた。


 遠くから、合図のように響く音。強さ弱さは定まり、かすれることもない。美しくありながらも、聞く者をどこか不安にさせる音。

 それが薄暗く乾いた夕暮に響き、夜の訪れを知らせるように近づく。


 りいん、りいん

 たづは、耳を澄ますように目を閉じた。今、小さな庵の中に響くのは、ぱちぱちと爆ぜる炎の音とこの音だけ。

 たづにとって、それは聞き慣れた音だった。その証に、ふっと独り言のように、三日月型の赤い唇がゆがむ。その仕草に引かれてさらりと流れた黒髪は、くもりなき夜闇を掬い取り、糸に仕立てたよう。 


 りいん

 ふと、その音が止み、ひとときの沈黙が水面のように広がった。それを合図に、息を潜めていた鳥や虫や獣たちが、安堵のような音を漏らす。

「来たね」

 代わりに庵を支配する、凛と通るたづの声。真白な指で一房の髪を耳にかけ直すと、墨黒の着物を整え、戸を開けに向かった。


 ぎい

「たづ様、日頃より大変世話になっております」

 どこか異界めいたその音の正体は、戸を開けたたづの目の前にいた。

「どうも、ご苦労なこった。『反物』は仕上がっているよ」

 戸の向こうに広がるのは、すっかり薄暗がりと化した深い山。昼間は錦を思わせる鮮やかな紅葉に満ちていたが、その色は日没とともに奪われ、すべては等しく淡く沈んでいる。


 その中に控えているのは、墨黒の、紗のような「布」を被った者たちだった。


 縦に列を組んで並ぶ彼らは、身動きをすることもなくそこに在る。土や葉の群れの中を来たはずなのに、疲労はまったく見せていない。息継ぎのいらない笛の音のような、美しくもいびつな話し声がなければ、置物と間違えてしまいそうだった。


 彼らは生き物ではない。


「急に数を増やしていただきまして、かたじけなく存じます。近頃は、飢饉で命を落とす生き物が多く、『反物たんもの』が不足していたのでございます」

「『反物』は、お前さんたちの仕事道具だからねえ。そりゃあ大変だ」


 たづは苦笑いすると、そのまま庵の中に一旦引っ込んだ。そして、文机の上に丁寧に置かれていたものに手をかける。絹にも似た手触りの、墨黒の「反物」。ちょうど、彼らが纏っているのと同じものだ。

 たづは、ふみのようにくるくると巻かれているそれを、一気に抱えて戻ってくる。そして、やはり動かずに待っていた彼らの前で、切れ長の瞳をゆるやかに細めた。


「大変な仕事だね、『死神』てのも」

「恐縮でございます」


 「反物」を手渡すと、彼ら――「死神」の頭上へするりと移動し、やがて静かに宙へ留まる。毎度のことながら便利だと感心しながら、たづは着物についた埃を払った。


「こたびの『反物』も、誠に上質でございます。流石は我らの『反物師』」

「はいはい、大事に使ってくれな」

「それはもう。……こちら、新しい『糸』でございます」

「また多いねえ。ずいぶんな飢饉と見た」

 籠一杯に入った「糸」を受け取ると、返事代わりにあの音が響き始めた。死の行列を示す音。秋の匂い立つ山の中に、またひとたび緊張が走る。それを肌で感じながら、たづは夕闇のいっそう深まる戸口で、列の行く手を見ていた。


「ハ、また織らにゃねえ……」

 音が遠ざかった頃には空はすっかり藍色と化し、安堵した山の生き物たちの心を示すように、いくつもの星が輝いていた。一転自然の音を取り戻した山のさまにかすかな微笑みをみせながら、たづは独り言のように呟く。

 そして庵の中に視線を向けると、そこには彼女の相棒である、はた織り機があった。



 山奥の庵に住む女・たづ。

 彼女は、「死神」と契りを交わした「反物師」である。


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