第0―9話 追憶①

 何もする気が起きなかった。


 白雪が生活圏とする聖堂を出た雄臣は、聖堂を取り囲む湖のほとりで顔をすすいでいた。水をすくっては血の付いた顔を何度も何度も手でこする。


 湖面に映った自分の顔は、酷く険しく強張っていた。誰かの死を間近で見たのは初めてじゃない。親の死も、町に暮らす人間の死も、子どもの死も、嫌な程見てきた。けれど、今回の死は、今までの死と違った。確かにあの男を生かしておけば、無関係の人間が犠牲になる。あの男に対して嫌悪や殺意を抱いていたことも確かだった。けれど、殺して欲しくはなかった。白雪だけは誰も殺さないと、心の何処かで思っていた。


「一体いつからこんなことに……。あの決断が、正しい正義なのか――。僕には分からない」


 雄臣は膝を付いたまま苦悩する。


「……悪は悪と割り切って、殺せと言うか。楽に戦えるだと。そんなわけないだろっ」


 人の命を殺めることに耐性のない雄臣は、顔についた雫を拭うこともせず、ずっとその場に居座り続けた。


「……もう、いい。もう帰ろう。美楚乃が待ってる……」


 三十分近く、立ち上がるまでに長い時間がかかった雄臣は、妹の顔を思い出してやっと何とか歩き出した。けれど、走るにはまだ身体がずっしり重かった。何処までもずっと続く竹藪の中を一人歩く。周りにはガラクタのように散乱とした乗用車たち。森の中に横たわるのは傾倒した鉄塔と電柱。そんな廃棄物だらけの道を辿りながら、一つの結論に至った。


(……僕は怖いんだ、人を殺すことが。……なぜなら僕はまだ正気で居たくて、善でも悪でもどちらでもないから。だから白雪のように絶対的な善にはなりきれない)


 一人自問自答しながら山林を歩く。


(だいたい僕と彼女は違う。僕は人間で、彼女は戦乙女テンシ。人間じゃないから、判決を下せる)


 勝手に自己完結しようとする。


(くそ、くそ、くそ、くそ、くそっ。だいたい何が罪深いんだ。美楚乃を病から救ったことの何がいけないんだ。永遠の命を与えることの重大さなんて、やっぱり僕には分からないよ。僕は殺したんじゃない。救ったんだ。たった一人の大事な妹を……)


 雄臣は歩きながら、昔のことを思い返す。


……

…………


 白雪と出会ったのは今から四年前。最初に思い返すことは、今自分の命がこうして生きていられるのは彼女のおかげだということだ。

 人は死ぬために生きている。成長は死に向かって、人の身体は完全ではないが故、壊れやすく死ぬためにデザインされている。


 生きている以上、死というものは平等に唐突に来るものだ。

 平等な死。個人差はありつつも皆必ず訪れる死。母親は妹を産んだ後、病で死んだ。

 唐突な死。本来そこで死ぬはずじゃなかった死。父親は厄災から自分の愛する子どもを守るために死んだ。


 そんな父親に助けられた兄と妹は二人で何とか生きていった。

 けれど母親の遺伝か妹の美楚乃は身体が弱くて、毎日泣いてばかりいた。だから兄である雄臣は美楚乃が寂しくならないようずっと傍に居てあげた。

 けれど、体調は一向に良くならなくて、薬草とか飲ませたり、栄養のあるものを食べさせたりしても回復の兆しはなかった。病院も何もないから、見つけ出した医学書を読んでも薬も治療法もないから、正体不明の病を治す手立てなんて見つからない。周りの大人は自分たちが生きることで手一杯だから当然相談に乗ってはくれなかった。自分たちにゆとりがなければ、他人のためには行動できないものだ。


「兄さまぁ……耳が聞こえなくなったり、目が見えなくなったり、私、何か悪いこと、したの、かなぁ。兄さま、死にたくない、死にたくないよぉ……」


 次第に美楚乃は寝たきりになって、どんどん頬が痩せこけていって、苦しそうに咳をしては吐いてを繰り返して、そんなつらい毎日を過ごした。


 雄臣は美楚乃が寝静まった後、一人隠れて泣いた。

 何も出来ずに見ているだけだなんて耐えられなかった。


 だから毎日願った。


 美楚乃が生死の境を彷徨うくらい病状が深刻になった夜はもう、ただひたすらずっと願う他なかった。その痩せ細った妹の手を両手でぎゅっと握りながら、この病気を治してほしいと。生きていて欲しいと。


 だからひたすら嬉しかった。


 声が聞こえる。顔が見れる。

 美楚乃が何事もなかったかのようにすこぶる元気な姿を見せてくれた時は本当に。


 でも同時に不思議にも思った。なぜ妹の病気がたった一夜で治ったのか。

 でもそういう理屈では説明できないものが、奇跡とか神の御業とか、世の中にはあるんじゃないのかって本気で思った。

 けれど、それが神の仕業じゃないことだと、だんだんと歳を取るたび気づくようになった。


 妹の病が治って、五年の年月が経った。雄臣は十五歳となり、美楚乃は十二歳となった。歳を取るということは子どもから大人になっていくということだ。身長も、体格も、顔つきも、声音も、幼かった部分が歳を取るたび成長していく。


 けれど、雄臣とは異なり、妹である美楚乃はあの時のまま、七歳のままの風貌。身長も、体格も、声も、何も変わらない。幼いまま、あどけないまま。それはまるで歳を取るという概念そのものが身体機能に備わっていないようだった。


 美楚乃も自分の身体の異変を不思議に思い始めていて、やっぱりおかしいことに気付いた。雄臣はその原因を突き止めることにした。手探りながらも、その原因を知っている人間がいないか、何かその病名を記した医学書がどこかにあるのではないか、他の街に赴くことにした。だが、北の村人に聞けども北の村人も知らず、南の村人に聞けども南の村人も知らない。結局、情報は何も掴めず、時間だけが過ぎていった。



 やがて雄臣は十六歳となった。

 妹の不老の原因を探し始めて一年。雄臣は朝食を食べ終わった後、いつも通り妹の病を治すため外へ出掛けた。


 その時まではいつもと変わらなかった。


 外に出たら空は晴れていて、いつも訪れる町は賑やかで穏やかで。


 それなのに、昨日と今日で一体何が起こったと言うのか。だって今まで生きてきた人間は皆、同じ人間で、決して人の手からは■■は生まれない。けれど、それが当たり前であるかのような世界が目の前には広がっていたのだ。


 とある町で雄臣は目撃し、狼狽える。生きている人間より死んでいる人間の方が多いのだから。見知らぬ街に来たのが悪かったと後悔する。雄臣は物陰に隠れて様子を窺った。


 ■■と化した腕を持つ男は、横暴で非道で残虐で、己の力にではなく、殺すことに心酔しているようだった。


 生き残った一人の男をまるで虫を殺すみたいにあっけなく殺した後、死んでいるのに、何度も何度もいたぶっていた。その光景を見た雄臣は心を取り乱した。何の理由もない人間が問答無用で殺されるという事実は、見つかれば自分も同じように殺されるということ。


 皆をそうしたように自分もそうされる。■■と化した手を凶器にして、滅茶苦茶に、何の恨みがあるとか、殺す動機とか、関係無しに、それが奴にとっては息をするのと同じような感覚なのだろう。


 雄臣は立ち竦み、逃げるタイミングを完全に見失った。下手に動いたら見つかると思った雄臣は、殺戮者がその場を立ち去るのを待つしかなかった。


 けれど、どうしたことか。

 次に目を覚ました時、雄臣は髪を鷲掴みにされながら引きずられていた。怖いというよりとても痛い。恐怖に意識が回らないほど痛い。


「どう、じて……」


 隠れていたのに捕まった。


 痛い。熱い? 苦しい。あれ? ない。


 早く抵抗しなければと手と足を動かした。

 けど無い。

 その感覚がどこにも無い。

 あるはずのものがない。

 四本の赤い体液がアスファルトに線を引く。

 雄臣の両手両足。膝から下、肘から上は綺麗に切断されていて、残った身体はまるで達磨みたいだった。


「ああ、あぁ⁉」


 自分の身体の一部がなくなっていることに雄臣は酷く慌てる。その声に反応した男は驚きの声を上げ、雄臣を蹴鞠のように地面に放り投げた。


「ぐっ、あ」

「ほう」


 仰向けになったまま、身動きが取れない雄臣を見て、男は感心するように手を顎に添えた。


「その出血でまだ生きているとは。ならば、脚の付け根まで。残った太腿、輪切りにしてみるか。お前の死に際がどこか見定めてやる」


 やっぱりそれはだった。

 鋼を凶器にしてやってくる。


「やだ、やだ、や、だ――」


 逃げようにも逃げられない。

 右腕を鋼の鉈に変えた男は、その無骨な凶器を振り上げ――


「ぐあぁぁああああああああ!」


 躊躇なく雄臣の右太腿を大根のように切断した。

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