天命の巫女姫

たけのこ

序章 昔日

第0―1話 襲撃①

 美楚乃みそのが丹精込めて作ってくれた昼食を食べ終わった雄臣たけおみは、二階の自室に戻り、寝間着から外出用に身支度を整える。


「今日は冷えるな」


 着替え途中、カーテンを開けると窓はびっしり結露で覆われていて、外の風景を見ようと手で拭うと、当たり前だが、板氷のように冷たかった。


 今朝の急激な冷え込みもそうだが、今日は一日中、冬の到来を実感させられる日になりそうだ。昼だと言うのに空は薄暗く森の緑さえ見えやしない。四方を森で囲まれていて気温がそこまで上がらない理由もあると思うが、今外の景色を見ている間にも窓はすぐに結露で曇ってしまった。


 昔は朝早くに外出するのが日課になっていたが、最近は昼に家を出ても夕食時間の十九時頃までには帰ってこられるようになった。


(まあ、何事もなければの話だが……)


 雄臣は下着を着た身体にシャツを通し、その上に黒の厚い上着を羽織り、手には黒の革手袋をはめて、部屋から一階の居間に下りた。暖炉の効いた居間は温かくて、これから外に出るのは少し名残惜しい。


「兄さま兄さま、はいこれ。あったかいから飲んでね」


 台所からやってきた美楚乃が差し出してきたのは湯呑。食後にお茶を飲む習慣はないが、今日がこんな冬の寒い日だからだろう。気の利く妹は、わざわざお茶を沸かしてくれたみたいだ。


「ありがとう」


 一度席に着いた雄臣はテーブルに置かれたおぼんから湯呑を手に取り、お茶を一口飲んだ。昔飲んだことがあった母親の麦茶がどんな味だったかあんまり覚えていないが、今飲んでいるお茶の味は少し薄いが、葉っぱ独特のクセの強い苦味はなく抵抗感なく飲めた。


「熱すぎ?」


 テーブルを挟んだ向かい側に座っている美楚乃は、お茶の温度を訊いてきた。


「いや、こういうのは熱過ぎなくらいの方がちょうどいい。……美楚乃も飲むか?」

「うん! 飲む、飲みたいっ」

「なんだ。飲みたいなら自分の分も作ればよかったのに」


 言いながら美楚乃に湯呑を手渡す。


「うん。でも熱いお茶、苦手だからさ」


 言って、美楚乃は両手で湯呑を包むように持ちながらふうふう息を吹きかけた。


「ん? じゃあ、どうして飲みたいだなんて言ったんだ?」


 苦手なのに飲みたいだなんて、どこかの修行僧みたいだ。


「あ、え、えーと、あっ、兄さまがおいしそうに飲んでいたから飲みたいなって」


 湯呑に入ったお茶を眺めながら執拗に熱を覚ましていた美楚乃は、一瞬こちらに目を合わせた後、なぜか少しあわあわして、その後、物凄い早口で後付け感が拭えないワケを話した。


「そ、そうか。火傷、気を付けてな」

「うん!」


 そろりと湯呑の縁を口に運んだ美楚乃は、味見するみたいに唇をつけた後、「あちっ」と反応して咄嗟に口元を外した。


「ふうふういっぱいしたのに……」


 少し不満そうに言いながら、湯呑をこちらへ遠退かせた。


「もういいのか?」

「うん、あげる」


 もう一度、お茶を一口すすった。美楚乃は熱いと言っていたが、その後飲んだお茶は最初に飲んだ時に比べたら、適温ぐらいまで冷めていて、雄臣はそのまま一気に飲み干した。


「美楚乃、ありがとう。おいしかったよ」

「えへへ」


 じわりと身体中に染み渡った温もりを感じながら、もう一度礼を言い、湯呑を洗い場に持って行く。


「あ、いいよ。後で片づけておくから、ここに置いといて」

「そうか? 分かった」


 お言葉に甘えて湯呑をおぼんの上に戻す。


「こんなことで喜んでくれるなら毎日作ってあげる」

「でも手間がかかって大変だろ? わざわざ見繕ってきた葉っぱを細かくすりつぶしたり、布で濾したり、工程が」

「ううん、喜んで飲んでくれる顔が見たくてやってるんだから、こんなの全然大変なんかじゃないよ」

「じゃあ、飲みたい時は頼もうかな」

「うんっ! 任せて」


 元気一杯の陽気な返事。その笑顔も彼女がくれる温もりも名残惜しいけれど、そろそろ行かなくてはならない。


「じゃあ、そろそろ兄ちゃん。行って来るから」

「……うん」


 打って変わって元気のないしょんぼりした返事に変わった。まあ、外出する時はいつもこんな感じだからあまり気にはしていないけれど。


 あれ以来、いつになってもこのもどかしい朝は慣れないし、妹を独りぼっちにさせるのは気が引けるが、雄臣は私情を捨てて椅子から腰を上げた。立ち上がった雄臣は玄関へと続く廊下を歩く。美楚乃もその後ろを付いてくる。昔は袖を引っ張って引き止めたり、泣きながら駄々を捏ねたりしていたが、四年もこんな生活をしていれば嫌でも受け止めるしかないだろうし、きっと美楚乃も心のどこかで『これは決まり事だから仕方がない』と諦めているのかもしれない。


「危ないから森の中には入って行っちゃ駄目だよ」


 そんな思いを巡らせながらも玄関口で靴を履いた雄臣は最後に念を押した。自分でもこんなしつこく言われるのは嫌だって分かっているけれど、この言いつけだけは耳にこぶができるくらい毎回言い聞かせている。


「うん」


 でも美楚乃は嫌な顔一つ見せず、素直に頷いてくれる。もちろん、言いつけを破ったことだって一度もない。


「兄さまの好きなシチューでも作って、待ってるね」


 浮かない顔でもしていたのだろうか、美楚乃にいらぬ気を掛けてしまったようだ。


「……早く帰ってきてね。…………一人は寂しい」


 その呟きは妹の切実なる思いだった。


「……。ごめん」


 謝ることしかできない雄臣は、同じ黒髪の同じ薄水色かかった黒い瞳をした美楚乃の頭を、優しく撫でた。


「ううん、わがまま言ってごめんなさい」

「謝る必要はないよ。報いは切り捨てられずに付き合わせた僕にある」

「どうして? わたしの命、救ってくれた。兄さま、悪くない。悪いのは他にももっといっぱいいる。……そうなんでしょ?」

「……そうだね。でも、この世界が平和になれば、ずっと一緒にいられるから。それまで……我慢してくれ。美楚乃」


 これまで何度使ったか分からない我慢という言葉を今日も使ってしまった。使う度に心が締め付けられる嫌な言葉である。


「……うん。わたしも兄さまの役に立てるよう、自分にできること頑張るね」

「でも無理は禁物だよ。身体はあまり強くないんだから」

「大丈夫っ! 兄さまのおかげで、わたしはずっとずーっと元気なままだし」


 そう言うとニコリとはにかんで、えっへんと胸高らかに元気アピールをする。


「そうか。それは報われる。じゃあ、行ってくる」


 美楚乃はこくんと頷き、「気を付けてね」と最後に一言そう言って見送った。



 街の外れに佇む家の近くには庭兼畑があり、レタスやトマトなど畑には旬の野菜が収穫時期を迎えている。その周りにある風景はどれも同じ。緑の濃い深い森が鳥籠のように二階建ての家を囲んでいる。そんな木々に包囲された我が家を出た雄臣は、白い息を吐いて目だけを動かし周囲を見渡す。


「……よし」


 何も異常がないことを確認すると、フードを深々と頭に被り、森の入り口に足を踏み入れた。


(……理想のために僕は戦う。平和のために、美楚乃のために……)


 理由なくして人は戦えない。それが青年が戦うための動機、理由である。――瞬間、妹には見せたことのない表情に切り替わる。その紺色じみた黒い瞳は、ただ悪を見付けるための器官となり、希望を抱く胸の内は、戦う覚悟だけを強く宿していた。


……

………


 今となっては遠い昔のようにも思える出来事だが、忘れることは絶対にない。

 戦乙女テンシと人間の成り果てとの攻防があった夜のこと。見渡す地上は一面の焼け野原と亡骸。だというのに、見上げた夜空には煌めく流れ星のような光の粒たちがひたすら降り注いでいたことを覚えている。そして、流星だと思っていた光の粒が幼い美楚乃を抱きかかえていた僕の頭上へ落ちてきたのだ。眩い光の粒子たち。その光の奔流は僕の全細胞、全血液に流れ、溶け込み、次の瞬間、身体の奥底から力が湧き上がってくるのを実感した。何でもできるんじゃないかって思えるくらいに。


 夜が明けた頃には、もう戦いは終わっていた。戦いに負けたのか、勝ったのか分からぬまま、けれど何もかも終わっていた。かつての近代都市の真似事をして、文明を発展させてきた街も社会も世界も跡形もなく廃れて、どうしようもない時代に突入した。

 だがそれでも人間だけは数を減らしながらも懸命に生きていた。また一から人間の活動が始まる。もう何も生まれない。天敵となるものは生まれない。生まれるものは人間だけだ。


 だというのに、人間は愚かだった。人間同士の争いが始まったのだ。


 後に分かったことだが、生き残った人間の中には、魔法を扱える者と扱えない者の二パターンで分かれていた。だから、魔法を使える者が強者となり、使えない者が弱者となる構図は事の成り行き上、自然と成立した。


 無法地帯の世界で、魔法使い《隠修士》は無慈悲で残酷な仕打ちを容赦なく弱者に与えた。女、子ども関係なく、娼婦、奴隷、人身売買と扱われ……言われるがまま、されるがまま、欲望のままに好き勝手に愚弄され、蹂躙されるのが新たな世界の形となっていた。勿論、弱者だってこの状況に黙ってなどいない。


 反乱の時代。動乱の時代。どこもかしこも争いばかりだ。


 兵器と呼べるようなものが存在しない時代で、人を殺すには、己の手で殺す手段しかない。しかし、そんなものは理性と冷静さがあれば戦う前から分かりきっていたことだ。弱者が強者に勝てるわけがないことぐらい。


 だって魔法使いは魔法そのものが兵器となる。


 通常の人間に勝てる道理など微塵もない。二者間の戦力差は明らかだ。村の弱者が集団となって戦おうとも、どれほど強い反抗心を抱こうとも、一瞬で虐殺されるのが世の常。


 炎に溶かされた者。

 自然の養分にされた者。

 氷に圧し潰された者。

 骨ごと捻じ曲げられた者。

 未知なる召喚生物に捕食された者。


 他にも……ありとあらゆる殺され方をした。そんな死に際を戦場で嫌な程たくさん見てきた。


 反乱あるところへ僕は駆け付けた。何度も何度も、何度も何度も、赴いた。だが結末は毎回、同じようなものだった。戦場には死ばかりだ。救えた者もいたが、助けられなかった者の数の方が多かった。それに僕ができる範囲はここまでだ。授けられた魔法を駆使して、魔法使いと戦う。本当にそれだけだ。だから、力なき彼らの行方が死に直結することは珍しくない。飲み水もろくに確保できなければ、食べるものも少ない。貧しい生活。ひもじい思いをしながら、死に絶えた幼い子どもの死が印象的だった。そう、何処に行こうが、何をしようが、争いは起こり、たとえ逃れても死は存在するのだ。


 いつになったら平和が訪れるのか、おそらく、きっと、唯一生き残った戦乙女でさえ分からないのだろう。

 ただその戦乙女は、魔力そのものをこの世から無くすことで、この世に恒久的な平和が訪れることを思い描いている。その願望が果たして叶うのか、それが正しいのか、僕には分からないし、考えたところで、僕がやることは決まっているし、否定は許されない。


 だって禁忌を犯した僕は、戦乙女の命令に従うだけの、本物の正義とは程遠い存在なのだから。


………

……


 森の中に足を踏み入れてから走り続けて十分強。森林地帯を抜けて辿り着いたのは、廃屋が改築されつつある村のような小さな街。青年が毎日訪れている名無し村の一つだ。この街の住民たちは裕福な暮らしはできないものの、畑を耕し収穫した野菜や果物を交換し合いながら仲睦まじく暮らしている。


 自分も美楚乃を連れて訪れた時には、余所者だからと追いやられることはなく、『よく森を抜けてここまで来られたな』と讃えられたり、『腹減ってないか』と心配されたり、『おすそ分け』と言って野菜をくれたり、皆親切で優しい人間ばかりだった。


(……元来、人間とはそういう生き物のはずなんだ。同じ種同士、殺し合うことなどあってはならない)


 そんなささやかな暮らしを守るために、雄臣は普段通り街を見回った。


 空気に触れる顔は相変わらず冷たい。ここまでくる間に身体を動かして体温は上昇しているはずなのに上着の上からでも寒いことには変わらない。美楚乃が作ってくれたお茶の温かみも、肺に空気を送り込んだ途端、消え去ってしまった。


 とにかく空気が悪い。


 街は霧の底に沈んだように青ざめていて、周りはよく見えない。だから敵と呼べる者の気配を感知するには正直、状況が悪い。魔力の存在がある肌をぴりつかせるような感覚も冬の寒さにやられていて、殆ど役に立っていない。


(まあ、そもそも異常が見られないということも考えられるが)


 草の茂る道を歩きながら、ふと見上げた。昼だと言うのに、空は時間の感覚が狂うくらい厚い雲に覆われていて薄暗い。


(雪が降りそうだな)


 内心、しまったと思った。こんなにも天候が悪いとは思わなかった。魔力反応が期待できない以上、異常はないか街の隅々まで自分の目で確認する必要がある。その分、一つの街に掛けられる時間も土地の規模で多少変わると思うが、普段の倍以上の時間を掛けて巡回しないといけなくなる。


 このまま天候が晴れない限り、帰りが遅くなるのは否めないと、人通りのない家と家が建ち並ぶ入り組んだ道を歩く。


 街の中心部から遠ざかる場所にある家々は、どれも荒廃していて、自然力の風化していく跡が見えた。古びた壁の塗料。壊れた塀に倒壊した家屋。街の外れに佇む家々は、見捨てられた焦燥感と悲壮感を漂わせている。


 雄臣は住民の気配を求めて歩き続けた。

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