4話 懐かしい初夏の日

色んな事があったけれど、今思うと始まりは、一緒に掃除をしたあの日だったのかもしれない。


 懐かしいはずの想い出は、まるで今、目の前で起こったことのようにリアルに蘇る。気づいて現実に戻ってくるといつの間にか教室からは人が消えて静かになっていた。


 行きたく、ないな……。


 今日行ったら先生は必ずいる。ちゃんと話そうって言った、その約束の為に。


 物音がして、突っ伏していた顔を上げると入って来たクラスの男子達と目が合ってしまい、何となく気まずくなって教室を出た。


 外に出て冷たい風の中を歩く。あんなに咲いていた桜も、青空に映えていた緑も散ってしまった。もう何もない、枝だけになった桜並木を通り過ぎて図書館に入る。


 いっその事、辞めるのをやめたい。このまま部室に行っていつも通り掃除して、疲れてるかもしれない顔を見て、広い背中を眺めながら本を読んで……どうでもいい事で笑ったりして残り少ない時間を一緒に過ごしたい。


 何か聞かれても、やっぱり何でもないって笑顔で言えたらいいのに。


 ピロン!


 スマホが鳴った。


[ごめん、急な会議で部活行けなくなった。明日、必ず話聞くから。 16:40]


 先生からのメッセージを見た瞬間、ぐっと胸につかえていた物が下りていくのがわかる。


 よかった……とりあえず今日は。落ち着いてもう一日考えよう。 


 時間をつぶす理由がなくなった私は引き返して部室へと向かう。部を辞めるまでにやっておきたい事がある、それまでは毎日ちゃんと通うと決めていた。


 部室は予想以上ににぎやかで、引退した吉永さんも来ていた。


「来てくれたんですね」

「うん、大学受かったの!! だからその報告に来たんだけど……澤田先生は? 」

「おめでとうございます。でも澤田先生は急な会議で来れないみたいで……」

「ほらやっぱり、先生の居場所はしお先輩に聞くのが一番だって」

「澤っち、史織先輩のこと大好きだもんな」

「違っ!! その……そうそう、今、走ってく先生とすれ違ったから、それで聞いたの」


 咄嗟とっさに変な嘘をついてしまった、後からバレるかもしれないのに……身体中から汗が出て急に暑くなってくる。私が辞めようとしている事はまだ誰も知らない…隠し事って、苦手。


「まぁまぁ、史織ちゃんは誰より部室に来てるし、しっかり者だから信頼されてるの。みんなが思うような仲じゃないんだから」


 吉永さんの助け舟まで、私達が噂になっている事を示しているような感じがして苦しい。


 みんな、その後は吉永さんのお祝いだと言ってゲームをしたり、ジュースとお菓子を買ってきて騒いだり……文芸部にしては珍しくパーティー状態だった。みんなが慌ただしく帰っていった後、静まった部室をぐるっと見渡す。


 好きだったなぁ……ここが。


 笑い合った、哀しかった、傷ついたりもした、その全部の思い出の中に先生がいる。ロッカーから掃除道具を出して机やソファーを、丁寧に拭き始める。


 ここに流れていた優しい時間はもう戻ってこない……拭いているのにソファーが滲んでくる。あの頃に、戻りたくて仕方ない。


 私が不器用じゃなかったら……ずっと続いたのか、それももうよくわからないまま、蘇り続ける思い出は私に訴えかけてくる。


 あの人と離れられるのかと。







 次に思い出したのは制服が半袖に変わって、教室の窓から眺める景色も桜色から鮮やかな緑へ移り変わった頃の事。それまでの私は、授業中でもよく景色を見ながら空想の世界に身を置いて、心を羽ばたかせていた。


 いつもこの時間だけは現実の悩みを忘れていられたのに、私の頭の中は初めて現実的な問題に頭を占領されていた。


 私の予感は当たった。


 今まで居心地良く籍だけを置いていた幽霊部員が次々に辞め始め、ちょっとした騒ぎになった。その生徒達が転部して、文芸部や澤田先生の事を悪く言って……先生の悪い噂が広まった。


 もちろん、先生が悪いわけじゃない。活動を強制されたとか、部活に参加しなかったら冷たくされたとか、ほとんど言い掛かりだった。でも、印象が悪くなったからか退部者はどんどん増えてしまい、澤田先生自身の評判が悪くなって。


 みんな辞めていくんじゃないかって、そこまでは予想ついていたけど……。


 先生の笑顔はまだ消えてなかった、でもそれは表向きで傷を隠しているような、そんな気がした。


「難しいね……」


 部室で苦笑いする先生を見るのは、胸が痛かった。


「辞めたい人は辞めたらいいのよ、先生も私達も別に何もしてないじゃない」


 吉永さんは堂々としていた、というか少し逆ギレ状態だったのかもしれない。夏には三年生の引退がある。新しい部員が入ってこなければ、活動している部員は……私だけになる。部の存続が出来なければ、もうこの部室で本を読む事もできない。


「ごめんね」


 ある日、一人で本を読んでいた私に、入って来た先生がぽつりと呟いた。


「いえ……先生が悪いわけじゃないです」


 小さい頃から、こんなに本を読んできたのにこんな言葉しか言えない自分が情けない。もっと気が利いてて女子生徒らしくて、場が明るくなるような言葉で、励ませたらいいのに。


「ありがとう」


 先生はふっと微笑んでくれたけど、肩が落ちている。


「噂になってると思うけどさ、一人ずつに会いに行ってみたんだ、別に部室に来るよう言いたかったわけじゃない、ただどんな子がいるのかなって、少しでも部活に興味を持ってもらえたらいいと思ったんだけど……よく考えたらウザいよね」


 なんにも言えない私に、先生は話し続ける。


「関係ない、知らない先生から探されてさ……自分が生徒だったら鬱陶しいと思うかもしれないのに、忘れていたんだ。自分が教師なんだって。」


 そう……だったんだ。先生らしいな、まだよく知らないのにそう思った。思いついたら突っ走っちゃって、職員会議忘れたり一人で大掃除始めちゃったり。


「おもしろいですね、先生って」


 場にふさわしい答えじゃないのに、つい口走ってしまった。


「ん? 」


 先生は驚いたような顔している。そうだよね、深刻な大事な話してるのに。


「すみません、変な意味じゃないんです。でも私もよくやるから。本読んでて予定忘れちゃったり、これって思うと夢中になっちゃったりして」


「そっかぁ……そういえば初めて会った時も慌てて帰っていったよね」


 二人で一緒になって笑う。


「俺もよくやるからなぁ、この間もみんなに大事な話をしなきゃって思ってて職員会議忘れちゃったし。そうそう、この間もさ、一緒に掃除したでしょ」


 頷きながら、いつの間にか私も笑っている。


「あの日、本当はやらなきゃいけない仕事あったのに忘れちゃっててさ、帰ってから思い出して大変だったよ」

「大丈夫だったんですか? 」

「いやぁ、やらないわけにいかないでしょ? だからもう徹夜、次の日、眠くて眠くて」


 先生を励ますどころか、いつの間にか私が笑っている。最近、こんなに誰と笑っただろう。


 楽しい。


「またやっちゃったな」


 笑い合った後でそう言う先生は、まだ少し落ち込んで疲れている。


神崎かんざきさんは本読むの好きなんだね」

「はい、最近は控えめにしてますけど」

「どうして? 」

「読み始めるとつい時間忘れちゃうんです、スマホにも気づかないし。そうするとこの間みたいに色々失敗しちゃうから」

「そっかぁ……なんか一緒だね、俺達」

「そうですね」


 微笑む先生と、まだ明るい空に暮れ始めた太陽がとても眩しくて、ドキドキする。


「安心して、ここは俺が守るから」

「え……? 」

神崎かんざきさんが変わらずここにいられるようにさ」


 守る。そんな風に言ってもらえたのは生まれてはじめてだった。読書の趣味を嫌がる人はいても尊重してくれる人はいなかったから。


これからも、変わらず……ここにいたいと思った。

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