第二章



「ずっと好きだった」



ごく自然に出た言葉は、最初から自分の中にあった感情。



一瞬で恋に落ちた日から、過ぎ去る現在いまを好きだと認識し、10年かけて愛に変わった。



この気持ちを隠すつもりは更々無く、だけど言葉にしようと思っていた訳でもなかった。



驚いた表情のまま固まっているのは想定内で、驚かない筈がない。


突然好きだと言われて、戸惑わない訳がない。



「出会った頃、君はまだ高校生だったけど、いつも一生懸命な君が、俺には眩しく見えた。素直で、健気で、明るくて。好きになるのは当たり前だろ」


「蒼汰さんちょっと待って…」



離れない様に、手を強く握り締め過ぎていたかもしれない。



「いくらでも待つよ」


「そうじゃなくて…」


「君への想いは10年越しだから」


「じゅ…私が16歳の時から…?」


「そうだよ。ナギちゃん大人になったな」



愛らしい表情を残したまま、見た目はすっかり社会人で、年月の経過を思い知る。



「蒼汰さん…私の事、いつから見てたの?」


「え?」


「今日、傘を差し出してくれたのは偶然じゃなかったの?」


「傘を差し出したのは突発的な事で、君を追いかけたのは偶然じゃない」


「私が走り出すのを、見てたの?」


「見てたってゆうか、見えたってゆうか。まぁ見てたのか… え、俺って気持ち悪い?これハラスメントになってる?」


「なってないです!何のハラスメントですか…」



いつ訪れるか知れない君を、見逃したくなかったのは事実。



「雨が降るまで本屋の前から動かなかったのに、降り出した途端に走り出すから何事かと思って」


「…すみません」


「待ち人が来ないから、やけくそに走り出したのかと思った」


「ご迷惑をおかけして…」


「いや、お陰で話すきっかけが出来た」


「私は…」


「君には悪いけど、この雨には感謝してるんだ」


「私は…ずっと理由を探してました」


「ん?」


「ここへ…蒼汰さんへ、会いに行く理由を…」


「理由なんて要らないだろ」


「私には必要な事だったんです…」



あの日…いつもと同じ様に走って来た君は、初めて「間に合わなかった」と呟いた。



「おじいちゃんが倒れた事を何も知らないままここへ来て、事情を聞いて…状況を理解して、私は、言い訳ばかりしてましたよね」



それは、待ち合わせ時間に遅れたからじゃない。誠一郎さんを待たせてしまったと言う思いからだと感じた。



「私はいつも通り、間に合う様に走った。いつもなら先に着いていた筈だった。どうして今日はおじいちゃんが先に居たの…って、蒼汰さんに言い訳ばかり吐いてました」


「言い訳じゃないだろ。混乱してたんだ」


「言い訳なんです…両親から言われてたんです。おじいちゃんを凪沙の都合で振り回しちゃいけないよって。後から考えると、自分の行動を正当化する為に出た言葉だったと感じて…そんな想いを蒼汰さんにぶつけてしまって…私は合わす顔がありませんでした」



俯いてしまった視線が、後悔を物語っている。



「そんな事しか言えない自分が情けなくて。恥ずかしくて、後から思い出す度にやり切れなくて…このお店に行けないと言うよりは、蒼汰さんに会う事に足が遠退いてしまいました」


「俺がそうさせてしまったのかな」


「違います…私が勝手に…今日だって、声をかけて貰えるとは思ってなくて。本屋に居る事を知られていたのも恥ずかしくて…」


「どうして?」


「だって、私は…いつこのお店へ入ろうかと。どうやったら蒼汰さんに会えるんだろって…そればかり考えて、あの本屋で待ちぶせをしてました」



視線を上げ、真っ直ぐ見つめてくるその瞳が、勘違いしそうになる程、揺れ動いている。



「田中くんを待っているのは口実で、向かいのお店から蒼汰さんが出て来ないか…待ちぶせをしていたのは、私の方だから…」



握り締めていた掌の中で、小さな手が震えるように動き出す。



「蒼汰さん、」


「うん」


「ずっと、ずっと、会いたかった…」


「うん」


「初めて会った時から好きだったのは、私の方だよ」


「え?」


「最初は蒼汰さんに憧れてた。お店を買い取るなんて、高校生の私には想像も出来なくて…自分よりも大人の男性と言う事にいつもドキドキして…憧れから恋に落ちたと気づいたのは直ぐだったよ」


「何?」


「蒼汰さんって鈍感だよね…」



確かに混乱はしていた。自分の事を言われている様で、そうでない様な気もして。やっぱり自分の事を言われているのかと、ぼんやりと浮かんでは消える。



「私は元々コーヒー飲めなかったから」


「え?」


「好きな人がコーヒー好きだから、飲めるようになったんだよ…」



どう言葉にして良いか悩むくらいには、まだ混乱していた。



「片思い拗らせちゃって…この歳まで誰とも付き合って来なかったの」


「……」


「蒼汰さんが彼女にしてくれないと、私はずっと浮いた話の一つも無いまま…また周りに心配されて、誰か別の男性を紹介されるよ」


「……」


「蒼汰さん…」



求める様な声が、耳に纏わりつく。



「蒼汰さ…」


握った手を引き寄せ、体を抱き締めた。遠慮がちにしがみ付いてくる力が愛しくて、壊してしまわないか心配になる。



「蒼汰さん…大好き…」


「…俺の方が好きだよ」



何言ってんだこの子は…って、呆れるくらい愛しかった。



しがみ付いてくる腕を離したら、物足りなさそうに見上げてくる。



「ナギちゃん、うち来る?」


「…行く」


「意味分かって言ってる?」


「分かってると思う…」



戸惑いを隠せない自分に、戸惑っている。



帰宅道中は何を考えていたのか思い出せないから、何も考えていなかったのかもしれない。



何も疚しい事なんてないのに、何故か誠一郎さんの顔が浮かぶ…



部屋へ入るなり、すぐお風呂へ案内した。


いつもなら、こんな雨の日は静かに酒を飲んで寝ている…今日はこの静けさが、やけに落ち着かない。



「洗濯どうする?明日着て帰るなら洗う?」


「…良いですか?洗濯機、借りても…」


「いいよ」


「あの、借りてたお店の服は、クリーニングに出して返します」


「え?しなくて良いよ。店の分はまた別でクリーニングに出してるから」


「でも…」


「大丈夫。後でそこに出しといて」


「はい…すみません…」


「洗剤とか、うちので大丈夫?てゆうか、うちにあるのしかないんだけど…」


「全然大丈夫です」


「着替え俺ので良い?てゆうか、俺のしかないんだけど…」


「全然大丈夫です。ありがとうございます」


「洗濯機これ。使い方わかる?」


「え?洗濯機ってどれも使い方同じですよね?」


「え?」


「え?違うんですか?」


「違うだろ…縦型とか、ドラム式とか…」


「え?縦型?」


「縦型でも、今は種類たくさんあるし」


「うちは何型なんだろ…」


「ナギちゃん、今いくつ…?」


「26歳になりました」


「洗濯機、使った事ある?」


「ない、ことは…ないです…」


「覚えようか。おいで」



申し訳なさそうに「すみません」と謝る姿は、どうでも良いけど可愛かった。



「中、何も入ってないからお風呂上がったら回して良いよ」


「え?私のだけ洗うんですか?」



自分の服を抱え持ち、不思議そうに問いかけられた。



「え?スカートとかシャツとか。普通に洗うと皺になるだろ?」


「え?普通に洗わないんですか?」


「洗濯コースがあって」


「洗濯コース?」


「…ナギちゃん」


「すみません…何も出来ない奴で…」


「これを機に覚えようか」



申し訳なさそうに「よろしくお願いします」と小さく頭を下げる姿に、どうでも良いけど可愛いなと思った。



洗濯が終わるまで30分弱。


入れ替わりで自分も風呂に入り、飲み物を取りにキッチンに入ったら、リビングから誰かと電話をしている様な声がした。



「あ、蒼汰さん…」


かけられた言葉に、水を飲む手を止めた。



「何?」


振り返ると、近くまで来てスマホを差し出して来る。



「弟なんですけど…」


「え?」


「潔白を証明して貰えますか?」


「え?」



疾しい事なんてしてないのに、急に自分が疚しくなるのは何なのか…



「もしもし?」


恐る恐る電話を変わる。



「だれ?」


耳元に届く低い声。



「お前が誰だ」


思わずこっちも声が低くなる。



「蒼汰さん!弟です!」


目の前で慌てた様に声をかけられ、あぁそうだったと思い出した。



「ごめんごめん、ナオくんか。久しぶりだな」


「…え?本当に蒼汰さん?」


「本当に俺だよ」


「なんだ…良かった。ありがとう」


「え?何かあった?」


「ナギに泊まる所決まったのか聞いたら、蒼汰さんとこに泊めて貰うって言うから。変な奴に騙されてんじゃねぇかと思って」


「なるほど…大変だな」


「そうなんすよ。今日も鍵忘れるわ、傘も忘れたとかさっき言ってたな…」


「大丈夫。明日ちゃんと送ってく」


「本当…すみません。よろしくお願いします」



律儀な弟は、姉が姉だからか、しっかりせざるを得ないのか…



「ナギちゃん」


スマホを返すと、「ありがとうございます」と受け取り「私の言った通りでしょ?」と、電話口の弟へ言葉をかけていた。



飲みかけの水を飲み干したら、丁度洗濯機が止まる音がした。



「ナギちゃん、洗濯終わったよ」



声をかけると、電話も終わっていて、「どこに干したら良いですか?」と聞かれた。



「乾燥機に入れても大丈夫?」


「どうでしょうか…」


「わからないものはやめておこうか…リビングに持って来て」


「はい」


一度も使った事のない干し竿を、リビングの天井から吊るし出す。



「凄い…こんなのあるんですね?」


「いや俺も初めて使ってみた」


「いつもはどうしてるんですか?」


「乾燥機に回してる」


「へぇ…」


「はい、ハンガー」


「あ、すみません」


「手伝おうか?」



洗濯した服を抱えていたから、何気なく聞いただけだった。



「い、」


「え?」


「あの…」


「え?」


「下着をここに干すのは、流石に恥ずかしいとゆうか…」


「え?」


「服は干させて貰うんですけど」


「え?」


「下着はちょっと…」


「え?」


「え?」


「待って」


「え?」


「ナギちゃん、下着の替え持ってた?」


「持ってないんで、さっき服と一緒に洗ったんですけど」


「えっ…」


「え?」



待て待て、ちょっと待ってくれ…



「じゃあ今って…」


「え?」



言葉にするのは躊躇って止めた。


その服の下、何も身につけてないんじゃねぇか…



下着はネットに入れて、乾燥機に回してみようと言う事になり、だったらもうその他の服も回してしまおうと言う事になり、最後の方はやけくそだった。



中身は高校生の頃のまま、見た目ばかり大人になっていく。


これだから弟の方がしっかりせざるを得ないんだろう…純の家にも泊まろとしていた子だ。



「ナギちゃん」


ソファに横たわる背中に声をかけるが、返事がない。



乾燥機を回している間に、ベッドのシーツを交換し終わった。


一緒に寝るぐらい良いかなと考えて、余りの世間知らずな様子に、今日は別々に寝ようと考え直した。



「ナギちゃん」


今度は正面へ周り、寝ているのを確認してもう一度声をかけた。



時刻は0時を回っていて、眠たくなるのも無理は無い。



折角シーツも変えたし、起きてベッドまで移動して貰いたい気持ちと、寝入っているからこのまま寝かせてあげたい気持ちと、寝顔を見ながら格闘し始める。



「ナギちゃん…」


とは言え、このままここで寝かすのはやはり忍びなく、もう一度声をかける。



寝ている体に触れて良いのか躊躇し、ぎこちなく肩を揺らした。



瞼が薄っすら開き、



「やだ…」


寝惚けているのか、身体ごと背けようとする。



「ナギちゃん」


「んー…」


「ベッドで寝よう」


「ナオくんが使って…」



ダメだ。



「ナギちゃん」


「ぅん…」


「起きれる?」


「ママにあげる…」



…完全に寝惚けている。



「ナギちゃん…」


「んぅ…」


「一緒に寝る?」


「んー…」


「おいで…」


体の下に腕を通すと、自然に絡み付いて来る。



「起こすよ…」


体を持ち上げようとしたら、布越しでも肌の柔らかさを感じた。



「蒼汰さん…」


担いだ途端に名前を呼ばれ「ん?」と顔を近づける。



「また来るね…」


「え?」


「好き」



寝惚けていると分かっていながら、



「…俺の方が好きなんだって」



言葉にせずにはいられなかった。



ベッドへ寝かせると、絡み付いていた腕が力なく離れる。


肌けた服を隠す様に布団をかけた。



こんな状況で寝れるんだから流石と言うか…



寝室の窓に打ち付ける様な雨の音が、唯一の慰めとなっていた。



リビングに戻り、酒でも飲もうかとキッチンへ向かう。



雨の音に紛れて、ドン!っと音がした。



雷?じゃない…



音がした理由を探しに、キッチンからまたリビングへ戻り、それらしき異変を探すが見当たらず、隣の寝室を覗いた。



「えっ…?」


ベッドの下に横たわる姿を発見し、慌てて駆け寄る。



「ナギちゃん?」


体を摩ると、寝息が聞こえた。



そうだ…この子、寝相がめちゃくちゃ悪いんだった。


小さい頃にベッドを買って貰ったけど、必ずベッドから落ちて寝ているから、ベッドを使わなくなり、下に布団を敷いて寝ていると言っていた事がある。



誠一郎さんの家に泊まる時も、壁側で寝させないと、どこまでも転がり続けて行くと聞いた事がある。



笑い話だった筈なのに、リアルは笑えないもんだ。



「…痛くないのか?」


思わずおでこの前髪を掻き分けた。


頭でも打ってたら大変だろうに…



キッチンまで届くぐらい音がしたのに、当の本人は全く起きる気配がない。



「ナギちゃん…」


とは言え、このままと言う訳にもいかない。



大人二人は優に寝れるだけの広さがあるベッド。


端に寝かせた訳じゃないのに、ここから落ちるとなると、見てないとまた落ちてしまうか…



「ナギちゃん」


声をかけながら腕を肩に回し、転げ落ちたであろう体を抱え起こした。


再びベッドへ寝かせ、異常がないか寝顔を見下ろす。



起きていても寝ていても、手がかかる子供みたいで、それがまた愛しくて堪らない。



人の気も知らないで、可愛い顔をしている…



手を握ると、しっとりとした肌の感触に酔いしれそうになった。



「んーっ…」


窮屈そうな声を出しながら、寝返りを打つように握っていた手が離れ、



「わっ…」


手と足が同時に降りかかって来た。



咄嗟に受け止めた自分の反射神経に感動する。



いつまでもベッドサイドから見張っている訳にもいかず、軋むベッドの上へ移動し、布団の中へ入った。


体を引き寄せ、羽交締めの様に抱き締める。



「んーっ…」


また窮屈そうな声を漏らし、手と足を同時に伸ばそうと悶えている。


でも、拘束された体は思うように抜け出せないらしい。



「んーっ…」


唸る度に体をよじらす所為で、脇の下で絡めた両腕に胸の膨らみを感じてしまった。



「んーっ…」



んーじゃない…



「ん…」



力が弱まると、自分の腕の力も緩める事が出来た。力んだまま寝るのは、緊張状態が続いている様で疲れる。



体の力を抜いた途端に、腕の中の温もりが心地良く、ベッドに体が沈んでいくような、意識が遠退いて行く感覚があった。



深く深く沈んでいくような…



「こら…」


人が眠りにつこうとしているのに、温もりが離れて行こうとし、咄嗟に体を引き寄せた。


また羽交締めの様にして抱き締め直すと「んー…」と窮屈そうに体を捩らし、腕の中で体勢を変えようと動き出す。



「ん…」


漏れる声が窮屈そうで、少し寝づらいかと思い、密着していた体に隙間を作ってあげると、直ぐに寝返りを打ち、手と足が伸し掛かって来た。



「やだ…」


寝相が悪い上に、寝言も多い。


抱き付きながら嫌だと言われても説得力がない。



「…っとに可愛いな」


「ん…」


「起きたらキスして良い?」


「んー…」



寝息を感じ、呼吸のリズムが合わさって心身共に満たされていくような…こんなに心地良い眠りにつくのは初めてだった。



瞼がぴくりと動き、五感が段々と冴えてくる。


外の雨音が気になって、薄らと瞼を開いた。


辺りはまだ薄暗く、もう一度瞼が下がってくる。



今日は休み。


今日は休み…


今日…



急に脳が覚醒し、ハッと目覚めた。



「ナギちゃん!」


一緒に寝ていた人が居た事を思い出し、慌てて隣に目を向ける。



「え?え?どこ行った…」



寝落ちる寸前まで腕の中に居た人が居ない。


薄暗い室内で人の気配が感じれず、ベッド下に転げ落ちたのかと思い、確認しようと勢い良く布団を捲った。



「ナギちゃん…」



かろうじてベッドの上で寝ている姿を発見する。


足元に居たから起き上がる前に気づいて良かったと安堵した。



ベッドの上を這って移動し、大の字で寝ている体を引っ張り上げる。



「どうやってここまで来たんだよ…」



頭は半分ベッドから落ちそうになっていた。



これだけ体を動かしても全く起きない。



まさか…この子、寝起きも悪いのか?



布団を体に掛けると、それをギュッと抱き締めるように体を丸めた。


その体を更に抱き締めると、寝相の悪さなんて帳消しにするくらい愛しさの方が勝る。



出会って10年、知らない事はたくさんある。まだまだ呆れる事も多いかもしれない。


だとしても、この先自分の想いが変わる事はないなと確信した。



呆れる程可愛いくて、知って行く程愛しくなる。



この子を離したくないと強く強く願って、抱き締める力も強くなった。



「痛って…」



思いっきり頭突きを食らったとしても。




「本当に…ありがとうございました。朝食までご馳走になってしまい…」


「いや、大したものじゃないから。支度出来たら送って行くよ」



二度寝をして、スマホの目覚ましが鳴ったのは午前7時。


勿論、鳴ったのは俺のスマホじゃない。



持ち主は全く起きず、どこで鳴っているのか分からないスマホを寝起きの状態で探すのは中々だった。


揺すっても摩っても、全く目覚める気配がなく、いつもどうやって起こしているのか、弟にでも確認が必要だ。



「すみません…ベッドから思いっきり落ちてしまって…」


「いや、痛かったろ?」


「いえ、私は全然…」



起きないこの子をベッドへ残し、顔を洗いに洗面所へ向かった折、再び凄い音が響いた。



迷わず寝室へ駆けつけると、ベッドから転げ落ちた拍子に目が覚めたようで「おはようございます…」と、冷静に挨拶をされた。



ここへ来た事を覚えているかと確認したら、覚えていると頷いた。



寝ている時の事は何も覚えていない様で、寝ているのだから当たり前かもしれない。



「蒼汰さん、支度できました」


「じゃあ行こうか。家で良いんだよね?」


「はい。ありがとうございます」



着替え終わった姿を見て、乾燥機に入れた衣類が特に変わりなく見えて安心した。



「行こうか」


ソファーから立ち上がって背伸びをすると、



「すみません、お休みの日まで…」


何を思ったのか、急にしおらしくなる。



「蒼汰さん…また、お店以外でも会えるんですか?」


「え?」


「私達…」


「そりゃ、そうだろ?」


「そうなんですか?」



曇ったままの表情が中々晴れない。



「何か、不安な事がある?」


「私は、蒼汰さんの彼女って事で良いんでしょうか…」


「あー…」


伝えた気でいて、伝えてなかった。



「私は、そうゆう事かなって思ってるんですけど…」


「ナギちゃん」


「はい」


「結婚しよう」 


「え?」


「結婚して欲しい」


「私、蒼汰さんと結婚するんですか…?彼女じゃなくて?」


「この先、俺には君とゆう選択肢しかないんだけど、付き合う期間って重要かな?」


「…それは、私には答える術がありません。付き合った経験がないので…」


「そうか…仮に交際期間を設けたとしても、俺はまた直ぐ言うよ?結婚して欲しいって」


「…そうなんですか?」


「そうなんだよ」


「…どうしてですか?」


「え?だってずっと一緒に居るだろ?」


「え?」


「え?別れる予定ある?」


「え?ないです」


「だろ?」


「そっか…」


「だから結婚しようよ」


「…蒼汰さん…」


「何?」


「私、実家から出た事なくて…両親からも、弟からも、そんなんじゃお嫁の貰い手が無いって、ずっと言われて来て…迷惑いっぱいかけるかもしれないんですけど…」


「うん。確かに君は覚える事が多いと思うけど、俺も出来る事は教えるから。一緒にやって行こうよ」


「…じゃあ、私、結婚して貰っても良いんですか?」


「え?それはこっちのセリフだろ?」


「…私は、蒼汰さんのお嫁さんになりたい」


「そっか…良かった。ありがとう」



素直な言葉と切実な視線に、胸がやたらと苦しかった。



「ナギちゃん」


「はい」


「君が起きたら言おうと思ってたんだ」


「はい」


「キスしていい?」


「はい」


「え、するよ?」


「お願いします」



躊躇なくされた返事に、こっちが躊躇してしまった。



「ナギちゃんもっとこっち来て」


「はい。え?ここ?」


「もっと」


「もっと?」


「もっと」


「来ました」



そう言って見上げてくる視線が、曇りなき眼差しに見え、何だか自分が幼気いたいけな子を騙しているような気分にさせる。



「キスした事ある?」


「ないです…」


「…って、言ってる俺が緊張するんだけど」


「え?大丈夫ですか?」



顔を覗き込まれるから、視線が重なって心臓が大きく跳ねた。



「胸が痛い…」


「え?やめときますか?」


「え?それはどうだろ…」


「出来そうですか?」


「…君は本当に可愛いな」



胸の鼓動が煩くて、言葉にした音が相手に届いたのか良く分からなかった。



両手で頬を抱え、顔を近づけると両腕を掴まれる。



「蒼汰さん…」


「何?」


「すみません…」


「ナギちゃん、もう唇触れそうなんだけど」


「すみません…私、どうしたら良いか聞いてなくて…」


「え?」


「すみません…キスする時ってどうしてたら良いですか?」


「そのまま目を閉じて」


「この、まま…?」


「そう」



唇に触れると、掴まれた両腕が更にきつく握られた。触れた唇は柔らかく、時が止まった様にさえ感じる。



離れると、ゆっくりと瞼を開いた。その瞳に真っ直ぐ捉えられる。



「…凄いドキドキした…」


「もう一回する?」


「え?」



返事を待たずに唇を近づけると、掴まれたままの両腕を再び押さえ付けられる。



「待って…」


「え?」


触れそうで触れられない。



「蒼汰さん…」


吐息がかかる距離のまま。



「え、これ何の待て?」


「私、初めてなんで…もうちょっとゆっくりお願いします…」


「あ、ごめん」


「もう一回、するんですよね…」


「しても良い?」


「はい…よろしくお願いします」


「こちらこそ」



もう一度触れた唇は、気持ち良さと心地良さが同時にあって、掴まれた腕の力が愛しくて…胸の締め付けが止まらない。



三回目のキスは自粛した。



今日は誠一郎さんの一周忌で、何が何でも送って行かないといけない。



玄関先で靴を履いている時に、誠一郎さんの顔が浮かんだ。



「今思った事があるんだけど」


「はい」


話を聞こうと立ち止まってくれる。



「誠一郎さんは、君に思いやりのある行動が取れる子になって欲しかったんじゃないかな」


「どうしたんですか、突然…」


「何となく、誠一郎さんが俺にそう伝えろって言ってる気がした」



玄関の扉を開けると、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っている。



「暑いな…」


体に纏わりつくような、生温い湿度の体感に思わず顔をしかめた。



鍵をかけ、マンションのエレベーターへと向かう。



「蒼汰さんは、私よりもおじいちゃんの気持ちが分かるんですかね」


「まさか…分からない事の方が多かったよ」


「蒼汰さん」


「うん」


「私は、おじいちゃんと話をするのが好きでした」


「うん」



エレベーターに乗り込み、次の言葉を待つ。



「だから、おじいちゃんの言う事は正しいと信じてます」


「うん」


「でも、あの言葉は…私にとっては遺言のようで…」


「うん」


「暫くは、誰かと待ち合わせをする事が苦痛でしょうがなかったです」


「そっか…」


「蒼汰さんは、呪いの言葉だって言ったけど…」


「いや、ごめん…言葉が悪かった」


「違うんです。言われた時、そうかもしれないと思いました。おじいちゃんの言葉に囚われて、身動きが出来ないみたいだなって」


「…それはさ、」



エレベーターがロビーへ到着し、駐車場へと向かって歩いた。



「待たせるかもしれない相手の事を考えて行動出来る人になって欲しかったんだと思うよ。人を待たせないようにしようと動く事が、相手の事を思いやる考え方に繋がる。誠一郎さんは、脅迫概念を植え付けたかったんじゃない」



車の鍵を開け、車内に乗り込んだ。


エンジンをかけ、息を吐く。



「君の事が大好きで、愛してやまなかった」



誠一郎さんの想いを代弁しているつもりが、自分の想いと重なった。



「誰かを待たせるとか、待ってなきゃいけないとか。そうゆう話じゃなくて、ナギちゃんはそのままで、誰かを想いやって行動すれば良いんだと思う」



幼い子の手を取るように、握り締めた。



「さぁ、呪いを解きに行こうか」


「はい」



穏やかな表情で、手を小さく握り返してくれる。



「…君は本当に可愛いな」



だから思わずその手に口付けをした。

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