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その日以来、バスには乗らなくなった。
理由はたくさんある。
彼女に付き合ってる男が居た事、それも要因の一つだった。
付き合ってる相手が居る子に手を出す趣味は無いし、若い男女の恋愛に、三十路間近の自分が入る隙なんて無いと思った。
恋愛に年の差なんて関係ないと思ってる。
だけどそれが自分の事になると話は変わってくる。
16歳の女子高校生相手に、何をやってるんだ…と虚しさを感じる事もあった。
だけどなにより、バスを降りて行く彼女を引き止められなかった自分に虚しさを感じたのが、一番の理由かもしれない。
バス停を横切る時も、もう彼女の姿を目で追うのはやめた。
見ないようにしたと言った方が正しいかもしれない。
今更恋愛なんて、向いてないような気さえして来た。
今まで通り、仕事に行って家へ帰るだけの日々が続き、また朝が来て会社へと向かう。
それで良い。
今までだってそうだった。
…―なのに、
彼女は忘れさせてはくれなかった。
最後に彼女と会った日から2週間は経った頃、月末に向けて事務業が忙しくなる社内で、会社の事務員をしてくれてるおばちゃんが体調不良で早退した。
自分が代わりに銀行へ行く事になり、午後から会社を抜けた矢先の事だった。
いつもの通勤道を自宅の方へ向かって走ると、反対車線にあのバス停が見える。
昼間にこの道を通る事は殆ど無く、信号が赤に変わって停車しないといけない状況になった所為で、見ないようにしていたバス停へ不意に目を向けてしまった。
あれ程見ないようにしていたバス停を見たのにはそれなりに理由があった。
学校に通っている彼女が、こんな昼間にバス停へ居る筈が無いと思ったから。
それに、信号が赤になって停車しなければ、まずバス停を見る事は無かった。
いつもの様に通り過ぎていたに違いないと自分でも思う。
それなのに、普段と違った状況が色々と重なって、結果…見てしまった。
もう忘れようと思ったし、諦めようと決意すらした。
姿を見なければ大丈夫だと思った。
そんな決意が、脆くも崩れさっていく。
思わず笑いが出そうな程、自分の決意の脆さを情けなく思った。
そこには居ない筈の彼女の姿がある。
寒そうにマフラーに顔を埋める姿を見ると、もうダメだった。
理性が吹っ飛んでも良いと思った。
このまま車を降りてバス停へと駆け出したい衝動に駆られた。
だけど、それが出来ないのが大人だ。
年を重ねる毎に、想うがままに動けなくなってしまった。
「こうしたい」とか「こうしよう」とか、いくら思ってみても、現実とゆうものはそれを許さない。
30年近く生きていると、自分が自分の行動を制御してしまう。
ましてや人の上に立つ立場に居る自分は、必要以上に自分の言動を気にかけなければ成らない。
そして迅速な判断を下さなければ成らない。
信号が青に変わって、バス停から視線を逸らした。
今は仕事中だと自分に言い聞かせて、車を発進させた。
銀行に着いて後悔したのは言うまでもない。
彼女の事に限らず、自分の人生は後悔ばかりと言った方が正しい。
何度同じ事を思ったか分からない。
何度も同じように後悔して来た。
だけど後戻りは出来ない。
だから抱えきれない後悔を背負って進んでいる。
今日した後悔は、何とも言えない切なさを感じた。
銀行での用事を全て終わらせ、再び来た道を戻る。
これで一つ仕事が終わったと思う安心感と、会社に戻ってしなければいけない残っている仕事を早く終わらせないといけないとゆう焦りを、同時に感じていた。
あれこれ考えたくないのに、考えないといけない現状を目の前にして、自分には後悔と向き合う暇すら与えて貰えない。
それに加えて、久しぶりに見た彼女の姿が、あれこれ考えている思考に割って入ってくる。
一目会いたかったとか、声をかけたかったとか、叶わなかった後悔が、彼女の姿を思考に映し出すのかもしれない。
そして“会いたかった”とゆう後悔が、“会いたい”とゆう願望に変わり、“まだバス停に居て欲しい”とゆう身勝手な想いを生んでしまう。
そんな都合の良い事はありえないと知りながら、
だからかもしれない。
「ありえない」とゆう言葉を、この身を持って何度も体験しているからこそ、ありえない現実を目の当たりにした時、それを「運命」だと感じてしまったのかもしれない。
親父が死んだ時、人はそれを「運命」だと言った。
死ぬ「運命」だったんだと…
そして自分が会社を立ち上げた時、人はそれを「奇跡」だと言った。
そんな「ありえない」事をしたのかと…
どちらにしても自分には良く分からない。
親父の死は「運命」なんて言葉で終わらせられないし、自分がしてきた事を「奇跡」なんて言葉で片付けられたくはない。
バス停が見えて来た頃、そこに彼女の姿も見えた。
これを人は運命と言うのか、奇跡とゆうのか…
考える間もなく、バス停の近くで車を停車させ、バス停に一人立つ彼女の元へ急いだ。
このクソ寒い中、バスにも乗らないで何時間も何をしてるんだって、文句の一つでも言ってやりたかった。
だけど、実際出て来た言葉は…
「どうした…?」
何かあったんじゃないかとゆう心配が大きく勝っていた。
ゆっくりと振り返った彼女は、目を見開いた。
「…あ、」
「どうした?何かあった?」
「い、いえ…」
「でもずっと立ってるから」
「え…?」
「え?」
彼女の反応に違和感を感じて、自分は余計な世話をやいたのかと、不安になる。
「ずっと立ってたから、」
続けて出た言葉は、何とも言い訳がましいものになってしまった。
「たまたま、ちょっと仕事で通りかかったんだ。そしたら君が、ここにずっと立ってたから…」
「…心配して、来てくれたんですか…?」
「あ、いや…うん」
「…ありがとうございます」
小さくお辞儀をした彼女の瞳が、寒さの所為か潤んで見えた。
「会えて良かったです…」
「え?」
「…朝バスで見かけなくなったから、待ってたんです」
「え?」
「バスの時間を変更したのかと思って…」
「ちょ、ちょっと待って」
「はい…?」
「待ってたって…俺?」
「はい…」
寒さの所為で、彼女の声が震えていた。
「何で!?」
「…すみません」
「いや、君は悪くないんだけど…」
「…すみません」
「いや、怒ってるとかじゃないんだ」
「…はい」
「何で俺を待ってた…?」
ありえない彼女の言葉は、想像すらつかない。
もし自分がこうして話しかけなかったら、いつまでこのクソ寒い中立っていたんだろうかと不安になる。
彼女を見つけてあげた自分に褒美をやりたいと思う反面、銀行なんて後回しにして、さっさと声をかけてあげれば良かったと後悔した。
「いきなり姿が見えなくなったから、ここに居れば会えるかと思って…」
「…何言って、」
「もう会えないなんて、嫌です…」
三十路間近になって、異性の言葉にここまで心が震えるとは思いもしなかった。
「寒いから、場所を変えよう」
彼女の手を取って歩き出した瞬間、その手の冷たさに胸が痛んだ。
「え、でも…」
「車、そこに停めたままなんだ。寒いから、とりあえず乗って」
「お、仕事は…?」
「大丈夫。俺まだ昼飯食ってないんだ。今から昼食摂りに行こう」
「え…?」
「君は?」
「わ、わたし?」
「学校、行かなくて良いの?」
コートを着てマフラーを巻いているから制服は見えないけど、わずかに制服のスカートがコートの裾から覗いている。
「わたしは…大丈夫です」
そう呟いた彼女の言葉を、学校には行かなくても大丈夫と言う意味で解釈し、歩く足を止めずに車の助手席へ乗せた。
車を走らせながら、真っ昼間から女子高生を助手席に乗せて何やってんだ…と、自問自答を繰り返した。
「…本当に、すみません」
「何が?」
「わたし、会いたかっただけなんです…また会いたいと思って…それなのに、こんな風に振り回して…」
彼女自身、バス停で待っていながら、本当に会えるとは思ってなかったのかもしれない。
「それは良いんだけど…」
何度も「会いたかった」と言われると、変に期待をしてしまうからやめてほしい。
「名前、聞いて良い?」
「わたし、ですか…?」
「あ、言いたくなかったら…」
「彩です」
「…アヤちゃん?」
「はい」
「そっか…」
その名前は彼女にピッタリだと思った。
「わたしも、聞いて良いですか…?」
恐る恐る口を開いた彼女は、「お名前は?」と付け加えた。
「四季」
「シキ、さん…」
「さんは付けなくて良いよ」
思わず吹き出しそうになる。
「じゃあ、四季くん…?」
「そっちの方が良い」
律儀な彼女に、自分でも分かるぐらい頬が緩んだ。
「彩ちゃん、お腹空いてる?」
「いえ、わたしは…」
「遠慮しなくて良いよ」
「いえ、ほんとにわたしは…」
「じゃあ、俺の昼飯に付き合ってくれる?」
「あの…」
「ん?」
「本当に、すみません…」
「え?」
彼女は、何について謝罪してるのか分からない。
「とりあえず、そこの店入るよ」
「はい…」
真っ直ぐ車を走らせていると見えて来たレストラン。
その店にしようと決めた理由は特にない。
強いて言うなら、早く彼女に温かい飲み物をあげたかった。
だから、一番最初に目についたその店を選んだ。
昼食時を過ぎたレストランの店内は人数も少なく、すんなりと奥の席を案内された。
客層は老若男女でバラバラだった為、変に気を張らなくて済みそうだと安心した。
制服姿の女子高生と一緒に居るのは、どうも抵抗がある。
4人掛けのテーブル席に向かい合って座ると、すぐにメニューを彼女に手渡した。
「何か食べる?」
「いえ、わたしは…」
「じゃあ、温かい飲み物頼もうか」
「いえ、わたしは良いです。お先にどうぞ…」
「彩ちゃん」
「…はい?」
「頼むから、飲み物だけでも飲んで?」
「でも…」
「彩ちゃん」
「…はい」
彼女は渋々返事をして、メニューを受け取ってくれた。その右手の薬指に、光る指輪が目に付く。
お互いに注文し終わった後で、
「手の怪我、治った?」
彼女に視線を向けた。
「手?」
「あ、腕だっけ?怪我したって言ってなかった?」
「あぁ…!はい、大丈夫です」
「そうか。良かったね」
「ありがとうございます…」
「いや俺は何も、」
「嬉しかったんです…」
「何が?」
「優しくして下さって…」
「それは、」
君に好意があるから…とは、言えない。
「こんなに優しくしてくれる人が居るんだって…思いました…」
それは、下心があるから…
「わたし、少なからずあの一瞬は、救われました…」
「何かあった…?」
彼女が視線を落としたから、また余計な事を聞いたかと不安になる。
「困った事を言っても良いですか…?」
「…何か困ってるの?」
「いえ、そうじゃなくて…」
「…何?」
「四季くんに言って良いことなのか分からないんです…」
「え?」
「四季くんに話す事じゃないと思うんです…」
「…うん」
「だけど、話したいと思ってしまうんです…」
「…うん」
「四季君に、聞いてほしいって、思っちゃうんです…」
「…だから、俺に会いたかったの?」
「そうじゃなくて…!」
「うん」
「意味、分からないですよね…」
「…いや、」
「困りますよね…」
「いや、」
「すみません…」
また視線を落とした彼女に、
「話、聞くよ」
そんな言葉しか掛けられない。
「何かあった…?」
「…誤解しないで下さいね…」
「うん」
「四季くんに、どうにかしてほしいとか思ってないんです…」
「うん」
「解決してほしいとかじゃなくて…」
「わかった。俺は何もしない。話し、聞くだけ」
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