第36話
「彼女すごい泣いてて…俺何やってんだろう、って」
彼は俯いたまま、辛そうにそんな言葉を口にした。
…驚いた。
あんなに愚痴をこぼしていたのに、彼は彼女のことがまだこんなにも大好きだったんだ。
そこで私はようやく気が付いた。
…あぁ、そうだ。
この人は昔から彼女のことが大好きだったんだ。
今思えば彼が私にこぼす彼女の愚痴はどれも嫉妬や寂しさからくるようなものばかりで、それが単なる愚痴ならもうとっくに別れていたはずだ。
それでも別れたくないと思えるくらい、彼は彼女のことが好きだったんだ。
「…彼女、別れるって言わなかったんですか?」
「言ったよ…でも俺が何度も謝って“別れたくない”って言った」
「……」
「……」
それからしばらくお互いに黙ったかと思うと、
「…だから、もう会えない」
彼は一方的に私達の関係に終わりを告げた。
その瞬間、正面を向いていた私の頬には静かに涙が伝った。
「こんな終わり方で本当にごめん…振り回して傷付けて、本当にごめん」
彼は助手席からこちらに体を向けているようだった。
今なら目が合うかとそちらにチラッと目をやると、彼はこちらに体を向けたまま頭を下げていた。
やっぱり目は合わなかった。
私はすぐに正面へと向き直った。
「私…スワさんのこと好きでした…」
「……」
「ずっとずっと、好きでした…」
「ごめん…」
ここに来てとても誠実な態度を取る彼に、私の中に怒りは全く湧いてこなかった。
「ちゃんとうまくやるから…また会ってほしいです…」
「…それはできない」
「月に一度でもいいし部屋に入りたいなんてもう絶対に言わないし、なんなら車でセックスするだけでも私、全然っ」
「ごめん」
彼は私の言葉を遮ると、「もう彼女を泣かせたくない」と今一番聞きたくなかった言葉で私の心をぶん殴った。
「それに俺なんかとはいない方がいいよ」
「そんなこと…」
「俺なんかよりいい男はいくらでもいるから」
そういう問題じゃない…
「違う…私が好きなのはスワさんだから、」
「気のせいだよ」
「えっ…?」
「初めての相手が俺だったからそう思い込んでるだけだよ…じゃなきゃ俺みたいな奴好きになんかなるわけない」
「……」
誰に何と言われようと恋だと思っていたこの思いを、まさか彼本人に否定されるとは思わなかった。
「ごめん…幸せになって」
その言葉には“俺じゃない誰かと”が前置きとしてあるような気がして、彼が車を出てドアの閉まる音と共に私の目からは涙が溢れた。
私はどうしてあの人にはなれないんだろう。
彼はどうして彼女じゃなきゃダメで、
私はどうして彼じゃなきゃダメなんだろう。
泣きながら車の中で彼のSNSを見ると、私との関係を続けている間も彼の彼女への想いはそこにしっかりと溢れていた。
私はしばらく先輩の家の前から動けなかった。
気のせいなんかじゃない。
じゃなきゃこんなに涙なんか出ないよ。
これはちゃんと、恋だったよ。
それから数年が経ち、同じテニスサークルだった子から彼の結婚の話を聞いた。
お相手はどうやらあの時の彼女ではないらしい。
私は今でも、彼との最後のあの夜から抜け出せないでいる。
— 03.『 ちゃんと、恋だった 』【完】 —
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