第67話

極力目線を下げていた華菜恋は、思っていたより大丈夫、だと感じていた。


 鬼のアカシはその目付きが怖いだけ。その目さえ見なければ、芽衣胡のように怯えることもないのだろう。


 芽衣胡の視線はいつも鼻のあたりから口の辺りを向いている。入れ代わりが悟られないよう、そして無駄に怖がらなくていいように、華菜恋も自身の視線を下げたのだった。


 だがそれよりも問題なのは胸だった。


 芽衣胡の寸法に合わせて仕立てられたドレスは胸のところが細目に縫製されていた。解いて縫い直す時間もないということで、大きな胸を抑えるためにさらしが巻かれたのである。


 ――思ったより苦しいわ。


 息を吸っても半分も肺に入らない。

 浅い呼吸を繰り返す華菜恋に向かって證は「緊張しなくていい。私がずっと横にいる」と言って手を重ねてきた。


「やめてください」


 膝に置いていた両手を咄嗟に胸の前に持ち上げる。驚いたせいで華菜恋は證の顔を一瞬みてしまった。


 顔は変わらず怖いまま。それなのに、何故か傷付いたような表情に見えて戸惑う。

 だけど女性の手を断りもなく触れるなんて許せないわ、と華菜恋は思った。


 パーティー会場にはすでにたくさんの招待客であふれていた。

 松若汽船の社員、関係者、取引相手と多岐にわたる。


 主役の二人が登壇すると賑やかだった会場はしんと静まった。


 背筋を伸ばし、指先、足先まで意識するが、たくさんの衆目を前に緊張して指が震えてしまう。


 松若汽船の社長――證の父が話している声も華菜恋の耳に入りはしなかった。


 ――駄目よ、このような場所で倒れては駄目。


 出発前に薬を服用していたが、極度の緊張に身体は保ちそうにない。


 前回、といっても死ぬ前のこと。その時のパーティーは何だかんだと理由をつけて参加しなかった。

 だが今回は芽衣胡が参加を断らなかったために仕方なく出ている。


「大丈夫か? 顔色が悪いようだが」


 気遣う證の声。

 證の腕で腰を支えられると、全身に怖ぞ気が走った。

 

「大丈夫です。大丈夫ですから」

「そうか……。もう少し我慢してくれ。乾杯までの辛抱だ」


 社長の長い話、それからどこかのお偉い様のありがたいお話が延々と続き、ようやく乾杯の頃には華菜恋の顔は真っ青になっていた。


 乾杯の合図と共に歓談が始まり、会場はまた賑やかになる。


「もういいだろう。控えの部屋があるからそこで休むといい。榎木」

「御意」


 ずっと横にいた榎木が、華菜恋を会場から連れ出す。


「すぐにお水を持って参りますね」

「ええ」


 一刻も早く帰ってさらしを解きたいと思う華菜恋は水を持ってきた榎木に命令する。


「榎木、帰りたいわ。すぐに帰りたい」

「え、っと……」


 普段の華菜恋から出ないだろう言葉に榎木は呆然とする。


 まず、「榎木」と呼び捨てにされたことも驚きだが、パーティーが始まったばかりで「帰りたい」と自分本位な言葉を聞いた自分の耳を疑いたくなる。


「こんな大きな会場で、たくさんの人を前にして動転されていらっしゃるのですね。證様が華菜恋様とのダンスを楽しみにされていらっしゃいますよ」

「踊りたくない」

「そう言わないでください」


 困ったな〜、と榎木は明後日の方を見やる。

 華菜恋はそんな榎木の態度に唇を尖らせた。

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