第73話

エレノアはその頃、業火の中をひた走っていた。

煙を吸い込みむせ返ろうとも、かまわずに走り続ける。死への恐れは掻き消え、ただひたすらに愛する者の無事を祈った。


(…オズ! オズ!)


 灼熱の世界は、何もせずとも己の身を焼き付くすほどであった。どこからともなく叫び声やうめき声が聞こえてくる。

 軍部は城下町に民が取り残されていることもかまわずに爆撃をしていた。エレノアは憤りを感じつつも、決死の覚悟でオズを探した。


 エレノアはしきりに周囲を見回す。ふと声が聞こえた気がして、足をとめた。

 がれきの中にうごめく黒い物体。轟轟とうねる炎が四方を取り囲み、荒れ狂う熱風が吹き荒れる。エレノアはその場に立ち尽くしたが、やがて冷静になり、ゆっくりと足を進める。


「オズ」


 呼びかければ、理性を欠落させた獰猛な瞳がぎょろりとエレノアに向けられた。禍々しいまでの黒い触手のようなものが、暗澹と伸びている。荒々しい息を吐き、口の端からは茹るごとき唾液がこぼれ落ちた。

 その大きな躰はさながら、うねる蛇のようであり、辛うじて四肢が体重を支えていた。全身の毛を逆立てている様子は、闇に堕ちた獣そのものであったのだ。


「ニン……ゲン」

「オズ、痛いのね」

「グ、ァァッ……」

「苦しいのね」


 オズはエレノアの呼びかけに反応を示すことはなかった。一帯には血だまりができていた。大きな躰には何本も矢が刺さり、翼の一部はもげてしまっている。

 それでもなお、命尽きるまで殺戮をやめようとしないオズは、エレノアにすら敵意を向けていた。


「お願い、もう……やめて」

「ニ、クイ」

「オズ」

「ニク、イ、ニクイニクイ、グァァッ……!」


 エレノアが一歩近づくと、オズは鋭い爪を振りかざす。頬に鈍い痛みが走ったが、エレノアはかまわずに歩み寄った。


「っ、どう…か、思い出して」

「…ウ、ァ、」

「私は、死んでなど…いない」


 オズは再びエレノアの躰を爪で切りつける。だが、エレノアは臆することなく、その大きな躰を抱き寄せた。


「アア、ヴアアッ」


 決して離さぬと言わんばかりに力強く抱き締める。

 エレノアを丸呑みできるほどの大きな口が開かれる。鋭い牙。粘つく唾液が糸を引く。生ぬるい吐息が吐き出されるが、エレノアは臆さなかった。


 血濡れたオズの躰は、氷のように冷たかった。



「オズワーズ。あなたは、気高き王よ」

「…ウ…、ア」

「皆を…導くの、でしょう。ともに生きるの、でしょう…?」



 エレノアは虚ろなオズの顔を両手で包み込み、懇願するように見つめる。敵意をむき出しにしていた瞳が鎮まると、やがて低い胸の鼓動のみが聞こえてきた。


「どうか、我を…忘れないで」


 エレノアは、ただひたすらに願った。


「大丈夫。あなたなら、思い出せる」

「…」

永久とわの約束を――果たしましょう」


(……オーディア様)


 エレノアが強く祈ると、それに呼応するように体が青く光った。足元に紋章が浮かび、オズの腕に浮かぶ赤黒い紋章と一つになった。

 業火がエレノアとオズに迫ろうとする寸前、眩い光の柱が現れる。エレノアが目を瞑ると、走馬灯のように無数の記憶が流れ込んできた。




『憚りながら、皇帝陛下……私の娘を差し出すことはできませぬ!』


 男はサンベルク皇帝を名乗る者の前で跪き、決死の覚悟で反意を示した。同様に庇い立てるようにする女の腕の中で、赤ん坊が安らかに眠っていた。


(父上…!)


 エレノアはとっさに手を伸ばすが、弾けるように記憶が移り変わる。




『この子は、私たちの子…! 争いのために利用するというのなら、かならずや女神からの報復を受けるであろう!』


 女は森の中で赤ん坊を抱き寄せる。振り下ろされた刃が胸を貫いてもなお、赤ん坊を奪われまいと抗った。


(母上…!)


 エレノアは再度、手を伸ばすが、脳内を駆け巡る記憶は次から次へと切り替わっていった。





 何年、何十年、何千年に渡る生きとし生きる者の記憶。願い。鉛のように重いそれらがずっしりとエレノアの中に入ってくる。

 時に身がちぎれるほどに悲しく、時に力強くたくましく。大樹が枯れ果てたのち、その切り株から若葉が芽吹くように、その思いのすべてが次を生きる者へと託されていく。


(今のは、いったい)


 そうして再び瞳を開けた時、あまりの眩しさに目が眩んだ。

 ようやく瞳が順応した頃、己が置かれている状況を知ることになる。エレノアは、光の柱の中で浮かんでいたのだ。


 ──ばさり、ばさり。


 眩い光の中に、悠然と羽ばたく黒い翼があった。エレノアを優しく抱き上げる腕。煌めく月のごとき美しい瞳を目にした時、エレノアの全身が歓喜した。


「…オ…ズ」


 幻ではないかと目を擦るが、消えることはなかった。なれ果てていたはずの容貌が、かつての威厳のある王のそれに戻っている。エレノアの瞳には大粒の涙が溜まった。オズもまた、愛おしげに目を細めてエレノアを見つめた。


「――ああ」


 エレノアはとっさに両手でオズの頬を包み込み、肌の感触を確かめた。



「……オ、ズ?」


(夢でも見ているの?)


 声を震わせながら、エレノアは愛おしい存在を呼んだ。胸もとは鱗のように硬く、だが、美しい顔に触れると人間のように柔らかい。


「オ……ズ」


 泣くものかと心に決めていたのに、瞳には涙が滲む。恐ろしかった。本当は、オズがいなくなるかもしれないと思うと恐ろしくてたまらなかった。


「私が、誰だか…分かる……?」

「エレノアだ」


 オズとエレノアは互いの額を合わせ、目を瞑る。オズもまた、走馬灯のような記憶を目の当たりにし、己を取り戻したのであった。


「死んだはずの、おまえの声が、聞こえた」

「…ああ、オズ…!」

「やさしく、愛おしい声だ」

「オズ、オズ……!」

「俺は、長く深い怨念の中にいた。己が誰かも分からぬまま、おまえまでを、殺すところだった」

「私は、信じていたもの……! オズは、このようなものに絶対に、屈しないと!」

「……馬鹿め」


 エレノアの頬に触れ、オズはひとつ嘆息を落とす。

 

「頼むから、あまり危険な真似をしてくれるな」


 ──だが。


 そう静かに付け加えると、漆黒を纏いし王はエレノアの涙をぬぐい、告げるのだ。


「もう一度、おまえに触れたかった」


 エレノアは何度も頷き、オズの胸に抱き着いた。もう二度と触れられぬ――その絶望を塗り替えるように、オズとエレノアは温もりを分かち合った。


 




 エレノアはオズの胸に抱かれながら、光り輝く空間を見つめた。

 いったいここがどこであるのかも検討がつかない。燃える城下町はどうなってしまったのか。


 ──そして、何故、一度なれ果てたはずのオズが正気を取り戻したのか。


 エレノアは、必ずやオズがもとの姿に戻ると信じていた。諦めてはならない。絶対に屈するものか、と。

 その強い祈りが届いたというならばこの上ないが、果たして、このような奇跡のごとき事象が起こりえるものなのか。



(オーディア様のお力をもってしても、魔神デーモスを救うことはできなかったはずだわ)

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