第72話

チムは顔を青白くさせて慟哭している。ターニャには乱血薬なるものが何であるのかが分からなかったが、禁薬であることは確かであった。

 獰猛な目をした魔族たちは、次々と城下町へと降り立ってゆく。そして、息のある人間に襲い掛かった。


 人間と同等の知性をもつチムとそれらは明らかに様子が異なっていた。我を忘れてひたすらに暴れ狂う怪物――。間違いなく人間の仇なのだろう。だが、ターニャには何故か、魔族たちが憎悪と悲しみを嘆いているように映ったのだ。


「…こんな、あんまりだ…! みんな、目を覚まして! おれの声、聞こえないの!?」


 チムは血相をかえて魔族のそばへと駆け寄った。だが、理性を欠落させている魔族はチムの声を聞くどころか、大きな瞳をぎょろりと向けるのみであった。


「たしかに人間は憎いけど…、き、聞いてよ! エレノアやお師匠、キャロルみたいに、“いい”人間も、いるんだよ…!」

「…アア、グ、ハア…」

「あっ…、ああ」


 開いたままの口から唾液が垂れ流しになっている。息絶えた人間を放り投げ、今度は鋭い爪をチムへと振り下ろした。


「同胞の顔の分別もつかぬとは……愚か者め!」


 ターニャがすかさずレイピアを引き抜き、襲撃を阻止する。腰をぬかしているチムを顧みて、冷静に激を飛ばす。


「チム! おまえは何故、力を求めた! この惨劇を前にして、まさか怖気づいたとは言わせぬぞ!」

「…お、師匠」

「己が信じたものを守り抜くことが騎士の定め! 置いてゆかれたと嘆くのか? 声も届かぬ同胞とともに、滅びゆきたいか? このようなところで絶望などしてみろ、この動乱が収まったのち、おまえだけが魔族の尊厳を守護できる存在なのではないのか!」


 ターニャはレイピアを構え、魔族の拳をいなす。紅蓮の炎が巻き上がった。


 エレノアの身の安全が気がかりであったが、ターニャは忠義心溢れる騎士である。一見すると淑やかでか弱い少女であるように見受けられるが、エレノアはただ守られるだけの姫ではないのだ。

 肝を冷やす場面が多々あるものの、主の行動には常に理由があるのだろう。もし、この争いをとめるべく動いているのであれば、己はその補助をせねばならない。


「…そ、うだ。悲しいけど、残されたおれが、しっかり、しなくちゃ」

「ああ、おまえが皆を守るのだ!」


 ターニャは魔族を振り切り、チムを連れて息のある民を探してまわったのだった。







 キキミックは辺境の地の河原で意識を混濁させていた。含んだ乱血薬が躰にあわず、王都に向かう途中で倒れこんでしまったのだ。

 なれ果てたキキミックを支配するのは深い悲しみと絶望であった。脳裏によぎるのは、白銀の髪の人間の少女であった。もはや誰であるのかも思い出せないが、キキミックの中に強く居座る存在がある。


 茶色い毛玉のような躰は膨れ上がり、大きな塊となっていた。身動きがとれずにいると、そばに駆け寄ってくる者があった。


「苦しいの? 大丈夫?」


 キキミックの目の前には、人間の少年が立っている。視界に映ったのは、サスペンダーをつけた、顔中墨まみれの貧しげな姿。キキミックは猛烈に腹が減っていた。食おうにも躰が動かず、ただ野太いうなり声だけが漏れ落ちる。


「僕はナット。君は…魔族、だよね?」

「ウウウウッ…!」

「大丈夫。エレノア皇女殿下から、魔族のお話を何度か聞いたんだ。僕は、君に悪いことはしないって約束するよ」


(――えれ、のあ?)


 キキミックの真っ黒な世界に、優しい面影がよぎる。憎しみと悲しみだけが存在する途方もない場所に、あたたかな光が存在する。

 キキミックは目玉をぎょろりとさせ、ナットを見つめた。


「軍人に見つかったら、君は殺されてしまう。だから、僕が隠してあげる」

「ア…」

「平気さ。僕はかくれんぼが得意なんだ!」


(えれのあ、えれ…のあ)


 ――会いたい。

 キキミックが敬愛する誰かと、その者の行く末を見届けたいと願っていたような気がする。血液が沸騰し、己の身を焼く激痛のさなかでキキミックはすこしだけ、忘れていたものを思い出したのだった。







 フィーネは王都上空を飛行していた。

 出立時に首から下げていた乱血薬を含み、故郷に別れをつげる。猛烈な怒りと悲しみが押し寄せ、城下町に降り立つと同時に手当たり次第に人間に襲い掛かった。

 全身が焼けるように熱く、筋肉の繊維が弾ける音がする。それでもなお、フィーネは息をしている生物に牙を向く。


「目を覚ませ! なれ果てた魔族よ!」


 カキン!


 人間を食らう寸前でレイピアが割り入ってきた。紅蓮のごとき長い髪をひとつに結わえている女騎士が映り込む。

 フィーネは低い声を出して威嚇をするが、女騎士は一歩たりとも譲らない。


「アア…ウ、アア!」

「人間がそれほどに憎いのか!」

「ウウ…!」

「ならばおまえは何故、涙しながら、人間を襲っているのだ!」


 フィーネはふと動きをとめた。脳裏に駆け巡る負の感情の中に、ひときわ優しいものがあったような気がするのだ。

 白銀の長い髪。そして、ともに踊った時の――…柔らかな笑み。フィーネはただひたすらに痛哭した。



(…い、たい、かな、しい)



 フィーネはぐるぐるとうなり、女騎士のレイピアをはじき飛ばす。すぐさま闇が押し寄せ、もがき苦しむがごとく牙を向いた。


 意識がぷっつりと途切れる寸前によぎったのは、出立前夜の光景であった。

 黒い翼をもつ王が月を眺めていた。王は、片翼を無残にも失ってしまった。憎しみばかりを募らせていた王がようやく優しくなれた存在が、奪われた。


 言葉や態度にこそは示さぬが、それがあまりに痛切であったのだ。

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