第68話



 ――原始。それは、毒の霧がかかり、大陸全土が怒りと悲しみ、絶望により赤く染まった頃よりも前のこと。

 太陽が輝く青々とした空の下に、白銀の髪を靡かせている女がいた。


「もう! またそのような場所で昼寝などしてっ、時間に遅れてしまうわよ!」


 透き通った声を張り上げる。女の視線の先には、立派な木の下で寝転がっている男がいる。


「そう急くな。オーディア」

「急くわよ…! だって明日は私たちにとってすごく大事な日になるのよ? ――デーモス」


 一対の大きな翼に、凛々しい角。畏怖すら抱くほどの美貌を宿した男は、魔族であった。そして、デーモスの正面に座り込んだ女は、碧眼をもつ人間であった。

 のちに神と崇められることになるオーディアとデーモスは、深い愛情でつながっていた。


「ああ、分かっている」

「ぜんっぜん、分かっていないわよ! この前だって、私との逢瀬を忘れて、魔族の兵の稽古につきっきりだったようだし!」

「あれは、仕方がなかった」

「…まったくもう、あなたって人は」


 デーモスは躰を起こすと、眩しい太陽を見上げ目を細めた。オーディアはデーモスに手を差し出し、にっこりと笑う。


「行きましょう。お父様もお母様も首を長くして待っていらっしゃるわ」


 みずみずしい草木の緑を踏みしめ、オーディアとデーモスは並んで歩く。道すがら彼らに声をかけてくる者たちがあった。


「おーい、オーディア、それにデーモスも!」

「今日も仲睦まじいねえ!」


 人間と魔族が畑道具を持って、ともに土を耕していた。農作業を中断して声をかけると、オーディアは小さく手を振りかえす。デーモスは何もいわずに視線だけを寄こした。


「やあお二人さん、お元気そうで何よりだ!」

「いよいよ明日は、“結びの誓い”を立てるんだって?」

「これでさらに、世が明るくなるなあ!」


 畦道の反対側から歩いてくる者も、人間とそして魔族たちであった。人間が運べぬ重い荷物を魔族が背負い、人間は壊れてはいけない貴重品を運んでいる。

 人間が得意な作業、そうでない作業、魔族が得意な作業、そうではない作業がすべてにおいて存在し、民はそれらを分け合って生活していた。


「どうか祝福してくれるとうれしいわ」


 オーディアは頬を染めて微笑む。

 オーディアとデーモスはあくる日に“結びの誓い”をたてる予定となっている。


 これは代々、人間の姫と魔族の王が築き上げるものだとされており、種族問わずに民衆はこの日を心待ちにしている。

 誓いをたてた当日は、大陸中が鮮やかな花々で覆いつくされ、人間の姫と魔族の王の成就を祝福をするのだ。


 オーディアとデーモスは、しきたりとは関係なく強く惹かれ合った。ヒカゲ草の咲き誇る中で逢瀬をし、ともに空を飛び回り冒険の旅をしたこともある。


「ともにあろう。オーディア」


 デーモスは穏やかな表情を浮かべ、オーディアを見つめた。オーディアもまた深く頷き、二人の愛を確かめ合った。




「ならぬ」


 ――だが、民衆が祝福する片隅に、暗澹とする者がいた。


 その者は人でも魔族でもなかった。誰も名を知らぬ、形がない存在。幸せに胸を躍らせているオーディア、そしてそれをやさしく見守るデーモスの背中を見つめ、嫉妬の感情を募らせる。


 己は誰にも認識をされない。形がなく、美しくない。種族の垣根を越えて互いに手を取り合う民衆は美しく、眩しかった。それらの架け橋となる人間の姫と魔族の王は、神々しく、恨めしかった。負の感情が募るごとに、嫉妬がぶくぶくと大きくなった。


 形がない存在は、その夜、酔いつぶれた人間の魂をのっとり、オーディアに接触した。オーディアに問うた。


「魔族の王を、愛しているか」


 すると、“愛している”と返ってくる。形がない存在は、猛烈に嫉妬をした。己には迷わず応えるほどに愛する存在がいないからだ。


 あくる日の早朝、形がない存在は、寝室で眠っていたオーディアの父の魂をのっとり、デーモスに接触した。そして、デーモスへも同じ問いをぶつける。


「娘を、誠に愛しているか」


 するとやはり“愛している”と返ってくる。形がない存在は、さらなる嫉妬に支配された。この者たちは愛し、愛されている。己は誰にも認知されず、愛されることがない。そして、愛す気持ちも知らない。祝福してくれる民もどこにも存在しない。

 何故だ。何故…己だけ。


 ――羨ましい。


 羨ましい。羨ましい。

 羨ましい!羨ましい!


 己も慕われたい。己も褒めたたえられたい。認められたい。なのに、闇の力を宿す魔族の男が何故、白銀の乙女に想われている? 可笑しい。何故、己は愛されていないのか。何故、この者だけ享受できるのか。


 ……ああ、そうだ。

 であれば、己が奪ってしまえばいい。


「それは残念だ。私がたった今、殺してしまった」


 形のない存在は、デーモスに残酷すぎる嘘をついた。オーディアの白銀の髪に似せたものを作り、はらはらとデーモスの眼前に振り落とす。しまいには、碧色の玉石を目玉に見立て、丁寧に渡してやる。


「なぜだ」

「ただ殺したかったからだ」

「なぜ、殺した!」

「本当は、娘が邪魔だったからだ」


 デーモスは怒りと悲しみに狂った。形のない存在は、魔族の王の慟哭を目にして、はじめて嫉妬以外の感情を抱いた。形のない存在は、悦んだ。

 負の感情に支配されたデーモスは、魔族を率いて人間の地を攻め入った。しだいに理性をなくし、ただの獣と化していく魔族に人間たちは成すすべもない。青々としていたはずの空に暗雲が立ち込め、毒の霧がかかり、大陸全土は、怒り、悲しみ、絶望で埋め尽くされる。


 オーディアは嘆いた。己の声がもうデーモスには届かなくなってしまったからだ。なれ果てたデーモスの躰を抱き締め、何度も名を呼ぶ。

 だが、猛獣のような唸り声を向けられるばかりであり、時にはオーディアにさえも牙を向いてきた。


「さあ、これからは我々の世界を築こう。オーディア」


 形のない存在は、オーディアの父の魂をのっとったまま平然と声をかける。オーディアはうなるデーモスを抱き締めたまま、わが父を模した者を睨みつけた。


「…あなたは誰。お父様ではないわ」


 本来であれば、“結びの誓い”を立てるはずであった。花々が咲き誇り、異種族間の契りが祝福されるはずであった。だが――、その日は悪夢に変わった。


「ああ、なるほどようやく気付いたか」

「お父様に、デーモスに……、愛する者たちに、何をしたの!」


 オーディアは涙を流しながら声を張り上げた。その間にも、理性を失った魔族は人間を食らい続ける。オーディアはこのように残酷な世を望んではいなかった。


「オーディアを殺したと伝えた。すると、どうだ、怒りに飲み込まれた」

「…!」

「何故、闇の力を宿す魔族の王ばかりが愛される? 妬ましい。だから、嘘をついて狂わせてやった」


 形のない存在は、オーディアの父の姿をしたまま淡々と口を開いた。つい出来心で手を出してしまった、とばかりの言い方に今度はオーディアが怒る番であった。


「決して――…おまえだけは、許さぬ!」


 オーディアは持てるすべての力をつかって、愛するものたちの尊厳をせめて守ろうとした。力を使い果たせば、オーディアの肉体は消えてしまうと理解していても、やめることはできなかった。


「いつか…、宿願の子がこの無念を晴らす! かならずや、この惨劇を祝福へと導く光となり、おまえの身を焼くであろう!」


 オーディアは愛する大地に緑を、愛する人間に命を、愛する魔族に安らかな眠りを授けた。そして、己の血を雨に変え大地にしみ込ませ、自らを神格化したのである。


 オーディアは最後まで、デーモスに寄り添うようにして消え去った。形のない存在は、それにさえも嫉妬をした。


(何故だ……何故、魔族の王などのために! ともに私と世を滑るはずのオーディアが奪われた!)


 己には身を呈してまで庇い立てる者はいないのに、と唇を結ぶ。


(まあ……よい。じきに、オーディアと等しき力を継ぐ子が現れる)


 真っ赤に燃え上がっていた空にはやがて青天が降り注ぐ。木々の緑は息を吹き返し、新しい時代が訪れる。


 厄災の事実は、形のない存在――オーディアの父を模した者により捻じ曲げられ、やがてオーディアの力を引き継ぐ子が誕生すると、大地の女神オーディアを崇め奉るサンベルク帝国が建国されるのである。



 オーディアとデーモスは、ついに最後まで結ばれることはなかった。

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