第34話




 その日もターニャの目をかいくぐり、エレノアはイェリの森にやってきた。愛馬を宥めながら濃霧の中を進むと、やはり何度訪れてもクスノキが生えている小川にたどり着く。愛馬から降りて周囲を見回すが、生き物のようにうねっている樹林が広がるのみ。群生しているヒカゲ草に近寄り、エレノアはその場に腰を下ろした。


 不思議なことに、ここで待っていればオズが現れるような気がするのだ。確証はないが、これまでもそうであった。


(はやく…会いたい)


 魔族が生息する危険な森だとは理解している。迷いこんだ当初こそは背筋が凍るような思いであったが、いつしかエレノアにとっての癒しの場所となっていた。


 キャロルやターニャに見られてしまったら、はしたないと叱られてしまうかもしれないと思いながら、エレノアは草の上に寝転がる。


 今日は、オズやキキミック以外の魔族と知り合えるだろうか。やはり、人間であるエレノアは疎まれてしまうのだろうか。


 サンベルク皇帝はエレノアの身を案じていたが、それでも、不敬であると分かっていながらもその場にとどまってはいられなかった。

 かつて女神オーディアは魔神デーモスに侵された。だが、エレノアが祈った時、女神オーディアは魔族の王であるオズを拒まなかったのだ。


(皇帝陛下…申し訳ございません。私は…それでも)


 二千年もの途方もない時間をひたすらに争いあい、憎しみあうなんて悲しすぎる。見て見ぬふりをして、自分だけがのうのうと生きてゆくことなどできない。


 川霧が流れる様子を眺めていると、ガサリ、草木が揺れる音がした。


 エレノアはオズであると思い、躰を起こして振り返る。――しかし、そこにいたのは威厳のある王ではなかった。


「──……オマ、エ、ダレダ?」


 ぎょろりとした深紅の一つ目。


 見上げるほどの巨体であったが、長い手足が際立つほどの痩躯をしている。鋭い骨のような爪。人間を丸呑みできる大きな口。鬼のような容姿。

 荒く、生生しい息遣いがエレノアに向けられた時、背筋に寒気が走った。


「アアアアッ………ウマ……ソウ」


 ──魔族だ。


 だがしかし、オズやキキミックとは様子が違う。里の広場にて民謡を楽しんでいた者たちとも異なる。

 剥き出しになった目玉の一切には、理性が存在しなかった。


「オマエ、ニンゲンカ」

「あっ…」

「ニオイ……ケシテル、ダガ、ニンゲン…ニンゲンニンゲン、ニンゲンクウノ、ヒサシブリ」


 鋭い牙をむき出しにし、うねり声をあげて草むらから出てくる。


 口の端から零れ落ちる唾液から、己が捕食の対象であることを自覚した。

 逃げねばならないのに、手足の一切が動かない。胴震えが収まらず、エレノアはその場で固まるしかなかった。


「ウマソウ、ウマソウ……」

「そんな、どうして」

「クイタイ、ニンゲン、クイタイ、クウ」


 裂けた口が大きく開く。瞬きをした瞬間、その鬼形の魔族はエレノアを見下ろすように立っていた。


(あ………う、そ)


 ひゅうと喉が鳴る。奈落の底に落ちていく感覚。怖い、これが……オズやキキミックと同じ魔族であるというのか。

 全身に鳥肌がたった。獰猛な目玉をぎらつかせ、今に己を食そうとするその生物は―――いったい。


「――随分と落ちぶれたものだ」


 刹那、激しい閃光に視界が侵された。


「ギャアアアアッ」

「欲に溺れ、なれ果てるとは」

「アアアッ、クルシイ、クルシイッ!!」


 恐る恐る目を開けると、痛烈な悲鳴を上げて燃えている鬼型の魔族がいる。しばらくのたうち回っていたそれはやがて力尽き、業火の中で灰になった。


(何が、起きたの?)


 エレノアを覆っていた巨体は、たったの一閃で吹き飛んでいた。いや、燃やされた、というべきか。


(それに、この声は──)


 木々がざわめき、深い霧が晴れてゆく。エレノアの背後に立っていたのは、気高い黒き王。


 赤黒い紋章が浮かぶ腕をかざし、冷酷なまでの眼差しを向けているオズであった。

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