第33話
「どうだね、エレノア。そろそろ王都へ戻っては? このような辺境の地では何かと不便をするだろう。特に、国境付近は少々危険であるから、父は殊更に心配なのだよ」
サンベルク皇帝は紅茶を飲みながら、エレノアへ王都への帰還を促す。だが、エレノアは逡巡した。
「それは…帝国の外には、魔族がいるから…なのですか?」
純粋な眼差しを向けるエレノアに対し、サンベルク皇帝とハインリヒはカップを持っていた手を止めた。
生まれてからこの方離宮の中から出たことのなかったエレノアから、“魔族”という単語を聞くとはまさか思いもよらなかったのだ。
「ああ…そうだよ。この大陸の創世記の神話は、エレノアも子供の頃から聞かされているだろう」
「はい。ですが、私にはまるでおとぎ話のようなものでした。二千年前には、果たして本当に、そのような厄災が生じていたのでしょうか?」
エレノアにはどうしても、オズをはじめとする魔族が邪悪なものだとは思えなかった。人間のように植物をいつくしみ、文化を愛している。サンベルク帝国で禁じられている音楽は、とても安らかで温かだったのだ。
「とても悲しいことだけれど、事実だよ」
「…ですが」
「――…かつて、古の時代、血肉を求めた魔神デーモスは魔族を引き連れ、女神オーディアが愛す人間の地を侵した。暗雲が立ち込め、毒の霧がかかり、大陸全土は、怒り、悲しみ、絶望により、赤く染まった」
神からの啓示を受けたかのごとく、従容とした佇まいのサンベルク皇帝。この国で最も権威のある人物からの回答だ。
だからこそエレノアは悲しかった。
「魔族は……恐ろしく、そして、あまりに理性的ではない」
「…っ」
「人間の血肉を好み、貪るごとに我を忘れてゆく。女神オーディアは、さぞ嘆かわしかったであろうな。できることなら、共存の道を進みたかった。だが、それを壊したのは、事実、彼らの方なのだよ」
サンベルク皇帝は慈悲深い。それは、幼い頃から憧れを抱いていたエレノアが誰よりもよく知っている。だからこそ、胸が痛むのだろう。
「怖がると思い、エレノアには伝えずにいた。おまえは愛おしい我が娘だからね」
「…父上」
陽だまりのごとき笑みがエレノアへ向けられる。本当にどうにもならないものなのか、と紅茶を飲む手が止まってしまった。
「それで、もうしばらくニールに残るつもりなのかい?」
「…もし、許されるのでしたら、今しばらく。月に一度の祈り日には、きちんと王都に参ります」
「ふむ、そうか…」
サンベルク皇帝が残念そうに眉を下げる。すると、ハインリヒがカップを置き、エレノアに忠誠の意をこめた眼差しを向けた。
「しばらくの間、私はこの付近に滞在しております故、有事の際には必ずやエレノア皇女殿下をお守りすると、お約束いたします」
ハインリヒは胸に手を当てて敬礼をする。
「ほほう、それは頼もしいかぎりだ。君であれば、安心してエレノアを任せることができるというものだよ」
「……もったいなきお言葉でございます」
エレノアは反応に困り、俯くしかなかった。
確かに、神話や書物の中の魔族というものは恐ろしい印象がある。いや、実際にはそうなのだろうが、エレノアの目には、忌まれるほどに邪悪な生物ではないと感じたのだ。
ハインリヒは非の打ちどころがない素晴らしい人間だ。本来ならば、早々に伴侶として迎え入れ、元気な子をなすべきなのだ。それに何より、この国を統べる父、サンベルク皇帝が仲立ちをしている。まるでオズと敵対をしているようであり、心苦しかった。
「エレノア皇女殿下、あなた様は女神オーディアに愛された“大地の姫君”。私は、誠心誠意、おそばでお支えいたします」
「…ハインリヒ様」
「ですからどうか、花のように可憐なその笑顔を、どうか、私に」
敬愛する父。そして、忠義深い軍人。
喜ぶべきはずの来訪であったが、お茶をしている間のエレノアの表情は曇りがちであり、重々しかった。
その日、サンベルク皇帝とハインリヒは日暮れ前に席を立った。エレノアが庭先まで見送りに出ると、帰りがけにハインリヒから贈り物を手渡される。
中身を確認すると、エレノアにはもったいないほどの意匠なドレスと、それに似合う靴が入っていた。
(先日もいただいたばかりだというのに)
驚くエレノアの前にすかさず跪いたハインリヒは、そっと手をとり、その甲に口づけを落とす。
純潔のエレノアにとって、異性に触れられることははじめてであった。突然のことに困惑していると、ハインリヒは揺るぎない瞳を向けてくる。
「本日は、エレノア皇女殿下のお目通りにかない、このハインリヒ、恐悦至極でございました」
「…あ、あの…」
エレノアの白銀の髪が風にのってさらさらと揺れた。
「エレノア皇女殿下」
「…は、はい」
「あなた様は、とても清らかで、尊ばれるべき女性。女神オーディアのごときあなた様が、神話にて伝え聞かされているように、万一にでも、魔族に侵されることのなきよう…私がお守りしてさしあげたいのです」
ハインリヒの言葉には誠実さがあった。だが、エレノアは痛切に唇を噛む。
(――オズ)
脳裏にはヒカゲ草を見やる黒の王の姿が浮かぶ。
かつて、理性を失った魔神デーモスは清き女神オーディアを手にかけた。ありとあらゆるものをいつくしんでいた女神の最期に、世界が悲しんだとされている。果たして、魔神デーモスの生まれ変わりだとされているオズが、いつかエレノアに牙をむく時が来るのか。
信じたくはなかった。食わないと言ってくれたのだ。里に連れて行ってくれたのだ。大切に育てている植物を、分けてくれたのだ。
「どうか、あなた様に生涯寄り添う伴侶として、私めをお考えください」
エレノアは、遠いイェリの森に思いを馳せる。馬車に乗るハインリヒを見送って自室に戻ると、窓辺で揺れているヒカゲ草を切なげに眺めた。
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