第22話

エレノアは幼い頃の記憶を手繰り寄せた。

 サンベルク帝国の皇女は、女神オーディアとのつながりをより強固にするべく、口にするものが厳格に定められていた。そのため、乳母から提供される食事は毎日同じメニューであったのだ。


 エレノアにとってはそれが当たり前であり、日々女神オーディアに感謝をしながら口にしていた。だが、それらの食事がとびきり美味であったかと問われれば、首をひねるところだ。狭い部屋で十六年間、エレノアは毎日一人で食事をしていた。いただきます、もごちそうさま、もすべて一人きりで。


 女神オーディアに落胆されてしまうかもしれないが、エレノアにとってはおそらく、今、オズと食べているサンドイッチの方が美味であるように思えた。

 十六になり、伴侶探しの名目のもと離宮から出られるようになると、これまでに口にしたことのない食事にありつくことができた。サンドイッチも最近覚えたばかりであるが、まさか魔族のオズに差し入れることになるとは思いもしなかった。


「こんな風に、外で誰かとサンドイッチを食べるなんて…はじめてよ」


 ふわり、エレノアの銀色の髪が舞い上がる。オズは静かに視線を向けていた。


「ずっと…ずっと、一人だった。これが私に与えられた宿命であると分かっていても、心の中では寂しかったの」


 エレノアは、これを誰かに伝えてしまったらいけないと思っていた。己はサンベルク帝国の皇女である。だから人前で弱くなってはいけないのだと思っていた。だが、オズには本音を聞いてほしかったのだ。


「きっとこんなこと、怒られてしまうと思うけれど、このサンドイッチがたぶん、今まで食べたものの中で一番、美味しいわ」


 エレノアが笑いかけると、オズは月のような瞳をただ向けてきた。油断をすれば、闇に吸い込まれそうな気配があった。


「帝国の人間は愚かだ」


 川霧が生き物のように流れていく。幻想的な光を放つ蝶がエレノアの目の前を飛んで行った。


「国を豊かにし、繁栄させるために、不確かな神の力とやらに執着する。欲を抱くことを禁じ、夢や憧れを抱くことを惰性とし、定められた役割をただ全うすることを美徳とした」


 オズがゆっくりと立ち上がると、川岸に向かって歩みを進めた。そっと手を伸ばす指先に、光る蝶がとまる。まるでそれはさながら、森の主であるようだった。


「――くだらぬ。愚かしい。虫唾が走る。…だが」


 黒光りした一対の翼。大きく伸びる立派な角。鋭く高い鼻。ぎょろりと存在する月の瞳。金色の刺繍が施された羽織物がやけに神々しい。


「忌々しい帝国の"皇女"、エレノアよ」


 ざあああ、と冷たい風が吹いた。


(何故? 今、“皇女”と…)


エレノアは、己の口からサンベルク帝国の皇女である事実を明かしていない。だが、オズは聞かずとも言い当ててきたのだ。狼狽するエレノアに、オズはすべてを悟ったような冷ややかな視線をくべてくる。


(それに…今、はじめて名前を)


 エレノアは川辺に立つ美しい異種族の男にくぎ付けになった。


「それほど知りたいというのなら、飽くまで目に焼き付けるか…?」

「え…?」

「美しさも、醜さも、おまえの目で見たものが真実だ」

「真実…」


 敬愛してやまない祖国。そして、おぞましいとされている魔族が暮らす世界。それらを好きなだけ見ていくといいとオズは言っている。


「人間は好かぬ。だが…エレノア、おまえには世話になった」


 エレノアは生まれてはじめて、心臓が大きく脈打つ音を聞いた。受け入れてもらえたことがうれしかったのだが、しだいに顔が熱くなってゆくのだからエレノアは困った。孤独なオズに己が優しくしてやりたい。オズが傷ついた時には己が癒してあげたい。そんなことを四六時中考えているのだ。


(この気持ちは…何?)


 オズが紋章の浮かぶ腕を振ると、光る鱗粉をまとう蝶がエレノアをとり囲んだ。まるで、この森のすべての事物にオズが関与できるようであった。


「ねえ、私のこと、どうして? …あなたは、いったい」


 問いかけると、美しすぎる男はこう言った。


「我が名は、オズワーズ。魔族イェリの王である」

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