第10話
「あ、あのお怪我をされているのですか…?」
畏怖の念を抱かないわけではなかったが、エレノアは無意識に声を発してしまっていた。
姿はほとんど人と変わらなかったが、エレノアにはない大きな翼や角が魔族であることを物語る。震えあがるほどに恐ろしい存在。この時、エレノアはあらためて己がサンベルク帝国の領土外に足を踏み入れてしまったことを理解した。
今に食われてしまうかもしれない。喉を掻き切られて殺されてしまうかもしれない。だが、エレノアは自ら声をかけずにはいられなかったのだ。
金色の羽織に真っ赤な血がにじんでいた。クスノキの下一帯に血だまりが広がっていることに気づき、エレノアは使命感に駆られて男のもとへ歩み寄ろうとした。
「近寄るな、人間」
天地が震える声だった。すべてを拒絶するような酷烈な低音。男は目を吊り上げて息巻いた。エレノアはそれでも、傷のことが気がかりで見過ごすことなどできなかった。
放っておいたら、死んでしまうだろう。種族が違えど、傷ついた者を見過ごしてはきっと女神オーディアに顔向けができない。
愛馬に声をかけてから、エレノアはさらに男へと近づいた。色白い肌に漆黒がよく映える。あまりに神秘的で恐れおののくとはこのようなことをいうのかとエレノアは息をのんだ。
(本当に綺麗…)
魔族は昔、人々を襲ったとされている危険な生物だ。穢れた存在。女神オーディアを汚した存在。けれど、エレノアはそれ以上に、魔族の男の美しさに驚いていた。
「食い殺されたいのか」
深紅の瞳がぎらりと光った。
「去れ。忌々しい」
エレノアは足元をがくがくと震わせるが、男から目を逸らさなかった。喉をうならせて威嚇をしようとも、男は深傷を負っていたためとうに立ち上がる力などなかった。
エレノアは男の前に膝をつき、出立時にこしらえてきた薬草を取り出した。
「触れるな」
「大丈夫。――誓って、私はあなたを害すことはいたしません」
もともとはエレノアが落馬をした際に使おうとしていた薬草だ。この薬草には女神オーディアの特別な加護が込められており、万能薬としてサンベルク帝国内で重宝されている。だが、それにしてもひどい傷であった。
人間であれば絶命するだろう深傷であるのに、これが魔族の生命力だというのか。エレノアは息をのみ、気を取り直して薬研の中の薬草を磨りつぶした。
「イェリの森に…人間が、何用だ」
「…口を開いては、躰に障ります」
「何が…望みだ」
「望みなど、ございません」
「嘘をつく…な。強欲で…汚らわしい、人間め」
美麗な魔族の男はエレノアに厭悪の目を向ける。
「お願いですから、もう口を開くのはおやめください」
「失せ……ろ」
「失せません」
「失せろと……言っている。人間など……今に…皆殺し、にしてやる」
男が呼吸をするたびに雷鳴のように喉が鳴り、およそ人間のものとは異なる殺気を解き放つ。まるで極寒の湖にはりつく氷のようだ。男はエレノアを拒絶していた。いや、人間そのものに憤怒していた。
向けられる敵意にエレノアの背筋が粟立つが、顰蹙する己を奮い立たせ、必死に薬草を練り上げた。
「――オーディア様、尊きそのお力をどうか、この者に」
王都から遠く離れたこの場所でも祈りが届くかは分からなかった。気休め程度に両手を合わせると、磨り潰した薬草にやわらかい光が宿る。
魔族の男は朝のひだまりのような光を茫と見つめた。
(きっとこれで少しはよくなる。けれど、完治させるには薬草の量が足りないわ)
エレノアは男の胸元の傷に薬草を塗り込んだ。人間のやわらかい肌とは違い、硬い鱗のような肌であった。
人間と同じように言葉を使う。我を忘れて暴れ狂う獣などではなく、とても理知的。魔族というのだから、世の理をくつがえすような絶大な力を持っているのだろう。
女神オーディアの加護を受け、科学や文化を手にした人間とは対極にある生物。
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