第9話
エレノアは一刻ばかり愛馬を走らせた。
涼し気な音を立てている小川や、群生している花々に出会う楽しさについ夢中になってしまったのだ。
草木の匂いやさんさんと降り注ぐ太陽。女神オーディアの恩恵を受けられていない辺境の地ではありながらも、王都とは違った美しさを誇っているように思えた。
(己の力でたくましく育ったのだわ)
離宮に引きこもっていたままでは感じることができなかったもの。世界はこれほどに広く、エレノアが知りえない事象であふれている――。
(楽しい。だけど……そろそろ帰路につかなくてはターニャが心配をしてしまうわ)
帰り道が分からなくなってしまう前に、頃合いを見てもといた場所まで戻らなくてはならなかったのだが、
「あっ…あれは何かしら!」
図鑑でも見たことがない不思議なウサギがエレノアの目の前に現れたのだ。だが、ウサギはそのまま森の中へと入っていってしまった。
「ねえレックス、あの子をもう少し近くで見たいのだけれど、ターニャに叱られてしまうかしら」
とてもかわいらしいウサギだった。エレノアはあの小さな生物に触れてみたくなり、愛馬に了承を得ようと話しかける。
「少しだけ、少しだけよ」
森の深いところまでは入らなければ良い。少し探して見つからなかったら引き返せば良い。
エレノアは手綱を握り、愛馬とともに森の中へと足を踏み入れたのだった。
「ウサギさん…いないわね…」
一歩森の中に踏み入れると、深い霧が立ち込める。晴れ晴れとしていた草原とはがらりと印象が異なり、昼間であるにもかかわらず夜道を歩いている感覚すらあった。
今日は温暖な気候であったはずなのに、森の中はひんやりとして肌寒い。これほど霧が立ち込めていてはウサギを探すことはできないだろうと早急に断念したのだが、ふと、己が今どこにいるのかが分からなくなってしまった。
霧が立ち込めていることと、鬱蒼と茂っている木々に方向感覚を妨げられてしまったのだ。
「きっと、こちらから入ってきたのよね」
来た道を引き返しているつもりなのに、霧が視界を遮るばかりで一向に出口が見えなかった。そればかりか、おぞましい呻き声のように木々がざわざわと薙ぐ。閑寂たる風はエレノアの背筋を粟立たせた。
森は、訪れた者を飲み込む迷宮のようであった。
剥き出しになった木の根を、愛馬が怯えるように踏み超えていく。エレノアはどうどうと声をかけ、軽く手綱をさばいて宥め聞かせた。自身の緊張が伝わらないようにとできるだけ気丈にふるまった。
深い森の中には目印になるものなどなく、木々がうねるように生えているだけだ。
(乗馬が楽しいからといって、遠出をするものではなかったのかもしれない)
広大な大地を駆け回ることがつい楽しくてこのような森の中にまで入ってしまったが、明らかに浅慮だった。
(本当にどうしましょう…)
進めども戻れども、出口は見つからない。ただ生き物のような森がエレノアを覆いこむだけであった。
心のよりどころになる人間がいない。幾度声を上げても返事はこない。エレノアを包み込むのは不気味な静けさだけ。このまま永遠にひとりぽっちになってしまうのではないか。陽光すら差さない閉鎖的な森は、かつてエレノアが過ごしていた離宮の自室のように思えた。
孤独で、寂しくて。父や母が恋しくても、甘えることすらできなかった。皇女らしくたくましい心を持て。外の世界に現を抜かすことなく、勤勉であれ。乳母にはそのように育てられた。
己がこの国にとってどれほど重要な存在であるのかは理解していたつもりだったが、閉鎖的な部屋でひとり本を読むだけの日々は、この森の中のように鬱々としていた。
(あの頃と今は違うのよ。私はもう十六になったのだから)
エレノアはヒカゲ草が群生している小川のほとりで愛馬の足をとめる。愛馬から降り、川の水を両手で掬って喉の渇きを癒した。
(ずいぶんと東へと駆けてきてしまったけれど、私は今どのあたりにいるのかしら)
辺境の地ニールはサンベルク帝国の東の果てにある。そこからさらに東の草原を駆け回っていたところで森の中に迷い込んでしまった。せめてこの霧が晴れてくれればよいのだが。
まるで手立てがなく気を落としていると、ふわり、風が吹いてくる。水面をただよう川霧が流れ、エレノアの銀髪が舞い上がった。
誰か――いる。
何者かの気配を感じ、背筋がぞくぞくと震えた。流れた霧の隙間。大きなクスノキの下に、光を通さんばかりの美しい漆黒があった。
(人…? いや、違う)
――綺麗。
まがまがしい深紅の瞳。優美で凛々しい角。私と同じように、鼻も耳も、口もある。だが、人間にはない鈍く輝く一対の黒翼に目を奪われた。満月を思わせる冷酷な目がエレノアをとらえると、空気が冷たく凍り付いた。
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