第7話

「よい。そのままで」

「し、しかし」

「よいと言っている。さきほどの唄は貴殿が?」


 蓮華は俯いたまま静かに肯定する。叱責される覚悟をしていたが、いつまで棒立ちしていても殴られることもなければ、蹴り飛ばされることもない。男は「そうか」と口にすると、夜風に揺れる枝垂れ桜を見上げた。


「心地のよい、きれいな歌声だった」

「……え?」

「あの中で聞くのは、発言の端々に傲りが感じられる……そんな汚れた人間の笑い声ばかりだ」


 男は小さくため息を落とす。


「さきほどは中断させてすまなかった」

「いいえ、私は……」


 抑揚のない淡々とした声色。威張らず、謙虚で、それでいて高潔な様。言葉を誇張することもない。一見すると冷たいようだが、千代や喜代のそれとは似ても似つかない。これまで接してきたどの華族とも相容れぬ雰囲気がその男にはあった。


「よければ、続きを聴かせてほしい」

「わ、私などが敬虔な軍人殿になど……不躾でございましょう」


 もしくは芸の一種だとして遊ばれているやもしれない、と蓮華は考えた。それでも男は、小馬鹿にするあの表情を蓮華に見せなかった。蓮華は戸惑った。


(なぜ、お笑いにならないの)


「聞き入れてはくれぬか?」

「いいえ、ただ、本当に粗末なものなので」

「……そうか」


 この場は己がいるべき場所ではない。この場に相応しい衣類の準備もできない。母親が仕立てた着物は、社交場ではまるで浮いていた。己のような低俗な人間が、立派に勤めを果たす軍人のそばにいてはならない。


 枝垂れ桜に惹かれて居座ってしまったが、罰当たりな行為だった。身を翻すと、再び声をかけられた。


「私は小鳥遊千桜たかなしちはると申す――……」


 蓮華はふと足を止めた。


「貴殿の名を教えてくれないか」


 ひらりひらり、桜の花びらが舞い降りる。水面に静かに落ちると、わずかに波紋が広がった。


「私の……でしょうか」

「そうだ、貴殿の名だ」


 蓮華は困惑した。なぜ、己が殿方に――しかも軍人に名前を聞かれているのか。それ以上に‟巴″の性を口にすることは躊躇われた。当主である藤三郎と、巴家の使用人の間で産み落とされた非嫡出子。


 それは、巴家の機密情報であり、一族の評判を落とさぬために隠し通さねばならないこと。


 蓮華がこの社交場に身をおいているのも、己が巴家の令嬢として招待されたためではないのだ。


 再び振り返ると、やはり氷のように冷たい瞳があった。凛として、姿勢一つに無駄のない様子。品格。蓮華を陥れるためとも思えない態度を前にして、言葉がつまった。


「私……は」


 言ってはいけない。


 己は巴一族の恥さらしなのだ。


 母親が死んで詫びるほどに、罪深い存在だ。


 なにも望めないし、望まない。打たれても、蹴られても、冷や水を頭からかけられても、なにも望むべきではないのだ。明日を生きるために、蓮華は心を捨てたのだ。


「なりません……申し訳、ございません」

「待ってくれ」


 蓮華は踵を返し、今度こそ立ち去った。


 千桜はその背中を視線で追った。すると、地面にきらりと光るものがある。蓮華が立ち去った拍子に落ちたのであろう小ぶりな簪だった。


 千桜には、己がなぜ蓮華の歌声をもう一度聞きたいと願ったのかが分からなかった。ただ、己の凍てついた心を溶かしてくれる感覚があったのだ。

 千桜は簪を手に取ると、懐に差し入れた。


たちばな

「はっ」

「さきほどの令嬢について、ひとつ調べを入れてほしい」

「……かしこまりました。千桜お坊ちゃま」


 そばに控えていた家令に淡泊に命じる。


 まるで、この朧月夜のようだと思った。‟カナリア‟という悪趣味な名前がついたこのダンスホールには馴染まない。


 本音をひた隠しにして、富みや名声のために媚びへつらってくる女たちとはまとう雰囲気が違う。


 枝垂れ桜の下でなびく糸のような髪が、千桜の脳裏から離れなかった。

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