人見知り乙女と嘆きの祭壇

第6話

環は物心がついた時より、人ならざるものを見ることができた。それらは環にいたずらをすることもあったし、寂しい時の話し相手になってくれることもあった。


 環は、幼少時代を座敷牢で過ごした。土蔵が厳重に仕切られ、施錠され、今が昼なのか夜なのかすら分からないような場所で、いったいどのくらいの時間を過ごしていたのだろう。暗くて、怖くて、寂しかった。


 冬は凍えるほどに寒く、夏は蒸し風呂のように暑い。そんな場所でただじっと耐え忍んでいると、ついに、座敷牢の施錠が解かれる時がくる。

 大人たちは環を外に連れ出すと、人目を避けるように薄暗い道を進んでゆく。木々の背後に隠れている妖怪たちが環をじっと見ていた。環が声をかけると妖怪たちは消えてしまったが、大人たちを見れば、まるで恐れおののくように震えあがっていた。


 うねるように生い茂る林道の先、ぼんやりと灯されている提灯が見えた。座敷牢の中は狭くて暗かったが、外の世界をはじめて知れて、環は嬉しかった。


 環が「どこに行くのか」と尋ねると、大人たちは優しそうな笑みを浮かべて「うまいものがたらふく食べられるところだよ」と答えた。環はなおのこと嬉しく思った。親切な大人たちが環を外に出してくれたのだ。


 どのくらい歩いたことか。やがて、環は見知らぬ男たちのもとへ引き渡された。じろじろとした目で環を選別すると、環を四方から取り囲む。

 闇夜に浮かぶ目玉が恐ろしかった。伸びてくる腕が生き物のようにうねって見える。逃げ出そうとする環を、大人たちは走って捕獲した。優し気な笑みを浮かべながら「じっとしていなさい、いい子だから」と告げる。


 環には、誰が人間で、誰が妖ものなのかが判別できなかった。いやだ、離して、と訴える環に、大人たちは優しく笑いかけるのだ。不気味だった。恐ろしかった。大人たちは環を座敷牢から連れ出してくれたのではなかったのか。


 伸びてくる手にぶるぶると震える。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ。


 ――誰か、‟みんな″!


 刹那、視界が真っ赤になる。ぶちぶちと何かが引き裂かれる音、大人たちの悲鳴が聞こえる。気づけば、あたりに火の手があがっていて、環がたった一人だけその場に立っていた。



  *



 雅を送り届け、九條邸に到着してからもやはり、周はどことなく不機嫌な様子だった。環はそわそわと落ち着かず、広間で茶を飲んでいるぬらりひょんに相談を持ち掛けた。


「周殿はおぬしを大事に思っているからこそ、怒っておられるのだろう」


 だが、ぬらりひょんは面白い話を聞いたとばかりに笑っているではないか。環にとっては深刻な相談をしたつもりだったというのに、真面目に答えてほしいものだ。


「だ、大事、だと……な、なんで、お、怒るのでしょうか……」

「それは、おぬしに自分自身をもっと大切にしてほしいからだろうな」

「よ、よく分かりません……」

「ふむ、おぼこいの、おぼこいの、そうかそうか周殿もようやく……」


 ぬらりひょんは屋敷に上がり込んでは茶を飲んでいるだけで、的確な助言はしてくれなかった。そもそも、この一連の令嬢失踪事件の解決は何よりも先決ではないものか。妖ものを可視できる環が囮になることで、令嬢たちも効率的に救出できる。それの何が良くなかったのだろう。


「そ、それに、マダラも乗り気じゃないみたいで。いつもはもっと調子がいいのに」

「その蜘蛛とやらはおそらく、土蜘蛛で間違いないだろう。あやつは、腹の中に何をため込んでいるのか、予測もできんからな……おぬし一人で向かわせるのは危険じゃろて」

「で、でも」

「しかし、不思議だのう。おぬしは少し前まで、外界との接触を頑なに拒んでいるように見受けられたのだが」


 ぬらりひょんが茶を喉に流し込むと、環はぐっと押し黙った。


「そ、それは、もちろん、できることなら……引きこもって、いたい、です」

「ふむ」

「で、でも……自分でも、わ、分からないの……ですが、わ、私にも、できることがある、ならって、思ってしまう時がある、というか」


 不思議な感覚だった。そうすることで、己自身が何を求めているのか。妖は好きだ。人間は嫌いだ。でも、人間に雅のような裏表のない者もいれば、妖にも土蜘蛛のように悪さをしてしまう者もいる。周ほどの大義名分は背負えないものの、環はこの目で、世界の在り方を確認したいと思ってしまっているのかもしれない。


「ご、ごめんなさい……す、少し、夜風に当たって、きます」


 結局考えはまとまらず、環はその場をあとにした。



 二階のバルコニーに出ると、周の姿があった。環ははっとして引き返そうとしたのだが、何もない場所にけつまずいてその場に尻もちをつく。


 しまった、と冷や汗をかいたのも束の間、振り返った周と目があってしまった。


(きっとまだ怒ってる……)


 気まずい気持ちになり、とっさに俯くと、周がこちらに歩み寄ってくる気配がする。


「ひいい、ごごごご、ごめん、なさい!」

「……ただ手を差し伸べているだけだろう」


 怒られるのだと身構えていたが、頭上からため息が落とされる。恐る恐る見上げると尻もちをついた環に手を差し出している。

 おずおずと手をとって立ち上がると、さらに居たたまれなくなった。


「あ……ありがとう、ございます」

「……」


 再び訪れる沈黙。夜空に浮かんでいる月は、周の美しい横顔を幻想的に照らしている。


「わ、私、その」


 環が口を開きかけると、周の視線がそろりと向けられた。綺麗な指先が伸びてくると、環の長い髪を一束掬い上げる。

 あまりに唐突な行動に、環は呼吸を忘れてしまった。周はそのまま指先を口元に寄せると、環の髪に口づけをした。


「あ、あのっ!」


 はくはくと唇を開け閉めし、動揺が隠せない。だが、周はいたって冷静沈着だった。


「どうして――こうまで腹が立つのか」

「え……?」

「この髪の一本でさえも、何者にも奪われたくはないなどと」


 いったい何を言っているのか。環は頭の中が真っ白になる。


「他の者に食われる前に、いっそ私が、一思いに食ってしまえばいいものか」


 やはり――怒っているのだ。鋭く伸びてゆく爪が、環の首筋につきつけられる。犬歯は鋭く尖り、額からは一対の角が現れた。鬼の姿に変貌を遂げた周は、環を冷たく見据えた。


「奪われなければ、よいの、ですか」

「……」

「きっと、うまく……やります。そうしたら、褒めては、くれないの、ですか」


 周ならば上出来だと言ってくれるものだと思っていた。環を認めてくれると思っていた。あれほど他者を拒絶していたはずであったのに、ここ最近はなぜか、自身を承認されるようで嬉しかったのだ。


 だから、このように冷たい目を向けられると胸が痛んだ。悲しい。なぜ? 分からない。


「私は、足手まとい……ですか」

「……」

「もう、用済み、ですか」


 婚約者のふりをして令嬢界隈に潜り込むなど御免だと思っていた。厄介な仕事を引き受けてしまったものだと後悔をしていたはずだ。早々に手がかりを見つけて、暇をもらおうと考えていたのに、環の気持ちは揺らいでいる。


 周はしばらく沈黙を貫くと、そっと環を抱き寄せる。


「違う。そうではないから、腹が立っているんだ」

「え……?」

「私には、あなたが必要だ」


 必要――。その言葉が環の胸にしみ込んだ。


 マダラをはじめとした妖に囲まれて暮らしていた頃には得られなかった感情だ。周も鬼であり、妖であるというのに、この違いは何であるのか。


 環と周の間を夜風が抜けていくと、呆れかえったようなため息が聞こえてきた。


『まったく……かゆすぎるったらありゃしねえな』


 マダラだ。

 はっと我にかえると、屋根の上でかったるそうに毛づくろいをしているではないか。


『ようは、オレがついてりゃいいんだろ』

「マダラ……?」

『何も環が出張る必要はねえという気持ちは変わらない。だけど、それだとお前、煮え切らないんだろ』


 マダラは環の心中を察しているのだろうか。本音では気が進まないといった具合ではあったが、あくまでも環の考えを尊重してくれている。


『周、お前もそう癇癪を起すなよ。周りの妖怪たちがびびっていやがる』

「……」

『オレも環と一緒に蜘蛛の巣に潜り込んでやる。それで、攫われた人間の娘も助けるし、土蜘蛛も倒す――万事解決だ』


 えっへんと胸を張っているマダラを見て、環はほっと胸を撫でおろした。


(よかった……一緒にきてくれるんだ)


 だが、それも束の間。周の表情は依然として氷のように冷たいままだった。


『おまえさ……いったい何が不満なんだよ。オレがいるかぎり、こいつに危険はねえってんだから、それでいいだろ』

「ま、マダラ」

『そんで、ちゃちゃっと事件を解決して、環はもとの暮らしに戻る。もう鬼族の婚約者……なんて大層なもんを背負わなくて済むってもんだ』


 すると、ぱりぱりぱり……と凍てつく氷が砕けるような音がする。

 マダラが楽天的に口にする傍らで、周から静かな妖気が立ち上る。


(周さん……?)


『そんな物騒なもんを出すなよ……オレだって、環を守らなきゃならないんだ』

「あ、周さん」

『そういうことだから、いくぞ、環』


 マダラはそう告げると、すたすたと屋敷の中へ戻ってしまう。環は慌てて追いかけようと試みたが、後ろ髪を引かれて後方を振り返った。

 環は結局、己自身の気持ちすら理解できていない。自分が何をしたいのか、どうありたいのか、ぐちゃぐちゃに混ざってしまって、心と体が分離してしまう。


 解が明確である算術とは違うのだ。やはり、意思のある他者と関わりあうことは、環には向いていない。自分以外の他者の心中を寸分の狂いもなく理解できたのなら、苦労はしないのだ。分からないことは気持ち悪い。すっきりしない。だから、環は孤独を好んだ。だが――どうして、説明のできぬ物体が胸の中に居座り続けるのだろう。



  *



 周と顔を合わせる機会がないまま、数日が経過した。起床して広間に降りるといつもは朝刊を呼んでいる周と挨拶を交わしていたはずなのに、その場にいるのはぬらりひょんのみだ。

 腹を空かせて朝食に飛びつくマダラを横目に、環は少しだけ寂しさを抱く。


「ひょっひょっひょっ、若いとは羨ましいことだのう」

「え?」

「生きていれば、思い通りにならないことの方がほとんど。常に悩ましいと感じながら進むしかないのだろう」


 ぬらりひょんは飄々と笑っている。環には何を言っているのかが理解できなかった。


「それに、わしにしてみれば、周殿もまだまだ尻が青い。まるで赤子のようなものよ」

「えっと……」

「あと五百歳若ければのう、わしも助太刀のひとつやふたつ、できただろうに。この老いぼれでは、土蜘蛛の相手はつとまらないのじゃ。すまないのう」


 そう言って、ぬらりひょんは再び茶を喉に流し込んだ。


(ぬらりひょんさんって、いったいいくつなんだろう……)


 今のところ、屋敷に上がり込んでは茶を飲んでいる姿しか見ていない。百鬼夜行の総大将とも名高いぬらりひょんだが、実際に目の前にいる妖は、少しばかり頼りないようにも見えた。


「マダラは、ほ、本当についてきて、くれるの?」

『んあ? だから、ついていくって言ってんだろ』

「つ……土蜘蛛って、かなり、強い、みたいだし。その……う、うまくやれるかなって、急に、し、心配になって」

『ったく、オレを誰だと思ってるんだよ! 土蜘蛛なんて、けちょんけちょんにしてやるさ』


 食事にがっついていたマダラは、不満そうに眉をひそめた。


『白薔薇会のサロンってもんが、明日開催されるんだろ? 栗花落玲子って人間の娘に近づいて、どさくさに紛れて屋敷に潜り込む絶好の機会じゃねえか』

「う……うん、そう、なんだけど」

『こうなったら、はやいところ解決しちまおうぜ。ここの食いもんにありつけなくなるのは惜しいけどよ』


 環はこくりと頷き、黙り込んだ。

 はじめばかりは給金目当てであった。図書室を好きに使用できるという旨味につられてしまっただけだった。しかし、後出しで明かされた華族当主の婚約者という役目は、環には荷が重く、一刻もはやく開放されたい気持ちでいた。

 それなのに、環の心は晴れやかではない。むしろ、周と顔を合わせず仕舞いである事実にやきもきしている自分がいる。


「そうか、この一件が解決すれば、おぬしはここを去ってしまうのか」

「……」

「ここに住まう妖ものたちも、ここ最近は楽しげだったのだが。ふむ、寂しくなるのう……」


 環は静かに席ち、図書室に引きこもった。小難しい学術書を開いては、いくつもの設問を解き明かす。

 いつもは満ち足りる気分になるのに、この日ばかりは靄が晴れることはなかった。


  *


「そ……それで、本当に、雅様も?」

「ええ、もちろんよ」


 翌日。帝都某所にて、白薔薇会のサロンが開催された。華族令嬢たちが話に花を咲かせている片隅で、環と雅は神妙な面持ちで向き合う。


 この日もとうとう周と顔を合わせる機会はなく、環の独断で作戦が決行されるに至ってしまった。


 環の影の中にはマダラが隠れている。いざとなれば、マダラが飛び出してくれるという心強さこそはあれど、結局、了承を得られていないままだ。うじうじと悩んでいると、環のもとへ勇ましいかぎりの綾小路雅が現れたのだった。


「瑠璃子が囚われているのよ? それなのに、何もせずにただ指を咥えて待っていろというの?」

「で、でも……さすがに、き、危険なので」

「そんなことは百も承知よ。でもね、こればかりは譲れない。大事な友達が危険に瀕しているというのに、わたくしだけが安全な場所にいるだなんて。美学に反する」

「美学とか……こだわっている、場合じゃ、ないと思います……」


 環はぶるぶると震えながら、雅と対峙をする。だが、いくら諭しても聞き入れてはくれないようだ。


「いいから、わたくしもついていく。そもそもあなた、玲子さんと接点はないじゃない。わたくしがいなくては、お屋敷に招いてもくれないわ」

「うっ……! た、たしかに」

「爵位などくだらないと思っていたけれど、この時ばかりはこの公爵家という肩書きも役に立つものね」


 ふん、と息を吐き、雅はやるせない様子で両手を広げる。環には分からない世界だが、煌びやかに思える華族にもいろいろと込み入った事情があるのだろう。


「それにしても、栗花落邸に蜘蛛が住み憑いているだなんて……未だに信じられないわ」

「そう……ですね。あの場にいらっしゃる玲子様は、ちゃ、ちゃんと、に、人間のようですので。妖の気配は、少しも感じられない……」

「いずれにせよ、この目で確かめるに越したことはないわ。たとえ、危険を冒してでも。……瑠璃子やほかの令嬢たちのためだもの」


 上品なレコードの音色が響き渡る。可憐な薔薇が咲き誇る場所で、いったい何が潜んでいるのか。

 雅はそう言うと、公爵家令嬢たちが囲んでいる二階席へと上っていった。


「さあ、みなさま、今宵は有意義な時間を過ごしましょう」


 その中心で笑みを浮かべる玲子は、不自然なほどに美しかった。


 令嬢たちはサロンにて政治的な意見の交換を心から楽しんだようだ。解散の合図があり、ちらほらと席を立つ令嬢たちに紛れて、環はそわそわと立ち尽くした。


『あいつ、どこからどう見ても、ただの人間なんだよなあ』


 雅からの指示があり、この場で待つようにとのことだったが、公爵家令嬢を相手にいったいどのように立ち振る舞えばよいものか。


『蜘蛛の糸で操られている……なら、何かしらの痕跡があるはずだろうし。まさか、屋敷に巣を作られてるってのに、気づかないわけはねえもんな』


(う、うん……)


『にしても不気味だな。ふつうだったら、あんなに穏やかに笑っていられねえぞ』


 土蜘蛛の中には時に、人間を蜘蛛の糸で使役するものもいる。だが、それに至るまでには、よほどの人間を腹に蓄えねばならない。ただの土蜘蛛が、これほど知略的に動けるはずがないのだ。


 普通に暮らしていればここまで暴走することもないはずだが、いったいどのようにしてここまでなれ果ててしまったのか。


「環さん、今少しよいかしら」


 しばらくその場に立っていると、背後から声がかけられる。びくっと肩を震わせつつ振り返れば、思っていたとおりの姿があった。


「……こ、こんばんは、雅様、それから……れ、玲子様、まで」


 雅の隣には玲子が微笑んでいる。打合せのとおり、雅が間をとりもってくれたのだ。


「九重環さん、あなたとはいずれ、ゆっくり話してみたいと思っていたところだったのよ」

「いきなりで申し訳ないのだけど、よければ、これから時間を作れないかしら。三人で語り明かしたいと、玲子さんと話していたところなの」


 雅は違和感ひとつない口ぶりで環を誘いかける。ほかの令嬢からすれば、公爵家の玲子や雅から誘いを受けるなど、有頂天になる事案だろう。だが、演技の経験などない環はわざとらしく喜ぶこともできない。


「え……わ、私などと……でしょうか」

「ええ、先日の雅さんの救出劇もお見事でした。よければ、栗花落の屋敷に招待をさせて。友人の窮地を救ってくださったお礼もかねて」


 完璧なまでの笑みを前にして、環はぶるりと背すじを震わせた。はじめて目にした時にも気づいたことだが、玲子の目の下には、やはり大きな隈がある。悠々自適な暮らしをしている華族令嬢と、疲労や寝不足が起因する隈はどうにも結びつかないと思っていたが、土蜘蛛絡みであることは、まず間違いはないようだ。


「あの……えっと」


 視線を巡らせ、うつむいていた顔を上げる。環と目が合うと、玲子は目尻を下げてゆるりと微笑んだ。


「ご、ご招待……謹んでお受け、いたします」



  *


 環と雅は、栗花落家の自動車に乗車し、日比谷にある邸宅までたどり着く。玲子の様子は終始穏やかであり、車内では舶来ものの哲学書の話題で持ちきりだったほどだ。


「環様は博識のようにお見受けいたしますけれど、かのキルケゴールはご存じかしら」


 環は念には念を入れて周囲を警戒していたのだが、一向に妖ものの気配は感じられない。運転手にいたっても、人ならざるものの特徴である妖気は感じられない。ただの人間であるのだ。


「は……はい。‟死に至る病″のキルケゴール、ですよね。読んだことは、あります」

「まあ! 令嬢方は小難しいからといって、今までに読んでいらっしゃる方に巡り合ったことはございませんでしたの。ふふふ……なんていう素晴らしい日でしょう。嬉しいわ」


 キルケゴールとは欧州の哲学者、思想家のことだ。代表著書である‟死に至る病″は読破できない難解な本として有名だ。


 華族令嬢たちはもっぱら、ロマンス小説や女性作家の文学冊子を好むものだと思っていた。もちろん、可憐な風貌の玲子もどちらかというと、その手の書物を好んでいるのかと考えていたが、まさか玲子の口からキルケゴールの名を聞くことになるとは。


「わたくし、キルケゴールの考え方に深い感銘を受けておりますの」

「ぜ、‟絶望の諸段階″のこと、でしょうか……」

「ええ、あなたはこれについてどう考える? 人は、絶望をしてこそ自己を認識できる。そして、その自己を認識したのち、人間はいったいどのようにして救済を求めようともがくのかしら」

「は、はあ……」


 玲子は秀麗な笑みを浮かべている。余るほどの富や名誉を持つ公爵家の令嬢にとって、苦しみなど無縁ではないのか。美しい容姿からは想像もできないような重たい命題である。環はちらちらと雅を見やりながら、どう答えるべきか逡巡した。


「絶望は、人間だけがかかる病気。それは、人間が動物以上の存在である証拠……だけれども、悲しみや苦しみを知らない子が多すぎる……まったくもって、可哀想よ」


 玲子は小さくため息を落とし、嘆いた。

 やはり、可笑しい。目の前に存在しているのは、いびつな美しさだ。花園で紅茶を楽しんでいるような令嬢が、まさかこれほど危険な考えをもつに至っているとは。雅も静かに生唾をのんだ。


「人間が本当に高次元の生き物であるのだとしたら、絶望をしたその先で、真の輝きを見出せるはずなのよ」

「ち……違い、ます。キルケゴールの、‟死に至る病″は、に、人間は、自己意識をもつからこそ、絶望をして、自己を見つめることができる。たくさん挫折をして、主体的に生きることが重要だと、解いている……だから、絶望をするから輝けるのでは、ない……です」


 環は自身の考えを述べながら、ふと、過去の残像が脳裏によみがえる。

 燃え行く森の中でただ一人立ち尽くす幼い環。ひたひたと流れている――人間の血。絶望から目を背けているのは、環自身ではないのか。


 もう誰のことも――信じられないと思い、嘆き、自己に蓋をして生きていた。


「そう……環さんは、そのようにお考えなのですね」

「……」

「残念だわ。きっとあなたとなら、分かり合えると思っていたのだけれど」


 自動車がようやく停止し、栗花落邸に到着する。敷地の中に入った途端、辺りの異様な気を察知し、ぶるりと背すじを震わせた。


(やっぱり、ここに土蜘蛛の巣がある……)


『間違いねえな、いったい何人腹に蓄えてやがるんだ……』


 いつ何が起きてもおかしくはない状況だ。環の影の中にいるマダラの警戒心が強くなった。

 雅に注意を払いながら、環は玲子のあとをついてゆく。


「今日は、あなたたちをとっておきの場所に招待しようと思っているのよ。家の者には秘密にしている……わたくしだけの、ユートピア」

「そう、それはいったいどのような場所なのかしら。楽しみだわ」


 くすりと微笑む玲子をよそに、雅は挑発的な態度で返した。


(せめて、雅様のことは、守らないと……)


 とっておきの場所とは、土蜘蛛の巣であることは間違いない。玲子は正真正銘の人間であり、蜘蛛の糸で操られている痕跡もない。そうなると、妖ものである土蜘蛛に魅せられて、自発的に協力をしていると考えるのが妥当だ。

 無垢な令嬢を屋敷に招き、土蜘蛛の餌として提供している。その過程で得られる人間の‟絶望‟――命の輝きとやらに陶酔しているのだ。


 玲子は凄艶に微笑み、環と雅を地下室へと案内する。その道すがらは、ひどく重く、冷たい瘴気がたちこめていた。呼吸をしているだけで肺が腐ってしまうような、気持ちの悪い空間だった。


『おい、環平気か……これは、ちとやべえな……』


(だ、大丈夫。それよりも、雅様が)


『ったく、なんの耐性もない小娘が、こんな場所に来るべきじゃねえってのによ』


 雅を見やれば、顔を真っ青にしてふらついている。意識もおぼろげな様子であったが、どうにか気力で持ちこたえているようだった。


「環さん、あなたをはじめて目にした時から、わたくしは、大きな悦びを感じていたのよ」

「……悦び?」

「ええ、あなたの目には深い‟絶望″が見えた。華族令嬢には不釣り合いな――深淵に迫る漆黒。悲しみ。嘆き。憤怒。ああ……なんて輝かしいのかしら、と期待に満ち溢れていたのだけれど」


 地下通路は狭く、さらに奥深い場所へと繋がっている。かつての防空壕の名残であったのか、はじめこそは煉瓦造りの壁で囲われていたが、やがて洞窟のように周囲の岩肌が剥き出しになってゆく。


「あなたも、退屈な喜劇を語るのね。よき理解者になってくださると思ったのに……嘆かわしいこと」


 いっそう重い冷気が立ち込める。隣を歩く雅に意識を向けているが、気を抜けば環も意識を持っていかれそうになる。やがて、階段を降りきった先、最深部に現れたのは、古い祭壇のようなものだった。


『うあああ……ああっ……』

『い……たい、くる……しい、たすけ……て』

『うああああ、いたい、いた……い、いた……い』


 そして、脳天を震えさせる――数多の‟声″。


「さあ、お探しの‟みなさん″がお待ちよ」


 環はその場で愕然とし、むせ返るような吐き気を催した。

 祭壇が設置されている天井には、幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣があった。その中央で腹を丸々と膨れ上がらせている化け物。


 土蜘蛛の腹の中には、人間がいた。一人や二人どころではない――おそらくは、これまでに攫ってきた令嬢が蓄積されているのだと理解をして、背筋が凍りつく。


「る……りこ、瑠璃子‼」


 環が天井を見上げて目を見開いていると、雅が取り乱した様子で祭壇へと駆けだしてしまう。

 土蜘蛛の腹の中で蠢いている人間は、かろうじて姿かたちを保っているものもいれば、取り込まれてから時間が経過し、原型をとどめていない者も存在している。


 雅が探し求めていた瑠璃子は失踪してまもなかったため、土蜘蛛の体液に溶解していないようであった。


「今すぐに……解放……しなさい。玲子さん……あなた、自分が何をしているか、分かって」

『なんだ……此度の餌は、随分と威勢がいいな』


 雅はきつく玲子を睨みつける。しかし、玲子がくすりと微笑むと同時に、岩肌が鈍い音を立てて震えた。


「なっ……‼」

『ああ、とにかく腹が減った。玲子よ、此度もご苦労であったぞ』


 天井を這っていた土蜘蛛の目玉が、ぎょろりと雅を見据える。獰猛な口から糸が吐き出されると、雅に向かって伸びていく。

 環はとっさに一歩踏み出すが――遅い。間に合わない。だが、なんとかしなくては。


(マダラ……‼ お願い‼)


 土蜘蛛が吐き出す糸が瞬きの間に雅の体に巻き付き、拘束する。ぐったりとした様子の雅は、土蜘蛛が吐き出す瘴気にあてられてしまったのだろう。


 環がとっさにマダラを呼びつけると、大きなため息が聞こえてくる。


『ったく、しょうがねえお転婆娘だなっ……』


 瞬きをしたその瞬間、環の足元に隠れていたマダラが飛び出した。ずんぐりむっくりとした猫又の姿――ではなく、鋭い牙、獰猛な瞳、威厳のある爪、普段とは異なり、環よりも何倍も大きな体が、目の前を風のように駆けていく。


『助けてやる義理なんてないが、環の願いだ。感謝しろよ』


 低く喉を鳴らし、土蜘蛛の糸を嚙みちぎる。グルル……と地を震わせるような威嚇をすると、雅を背中に乗せて距離をとった。


『猫又が隠れていたとは、驚いた』

『おまえ、いったい何人食ったんだ。土蜘蛛は本来、人間の言葉は話せやしないはずだが』

『さあ、いちいち数えてはいないさ。それにしても、腹が減って仕方がない。人間がうまくてうまくて……もっと、もっと、ほしいのに……ああ、邪魔を……するな』


 土蜘蛛は目玉を真っ赤に染める。ぼたぼたと零れ落ちる唾液は、じゅわりと岩盤を溶かしていった。


「環さんったら、最初からわたくしたちの邪魔をする気でいらしたのね」

「攫った令嬢たちを、解放……してください」

「ごめんなさい、それはできないの。だって、聞こえないの? 彼女たちの‟絶望″する声が。命の輝きが。ああ、なんて素晴らしいのかしら」


 取り囲む瘴気が環の意識を侵しにかかる。この期に及んでも優雅に微笑んでいる玲子がかすんで見えた。


「それに、解放をしたところでもう助かりはしないわ。土蜘蛛様の腹の中で、絶望をしながら溶けてゆくしかない……」


 どうしてなのだろう。環の中には安値な正義感など存在しない。むしろ、自分と関わりのない人間のために身を呈す必要はないと考える質だ。

 人間は恐ろしい。関わるべきではない。生きていようが死んでいようがかまいはしない。環は環だけの世界が守られていればそれでよかった。それなのに、どうしてこの場に出向いてしまったのか。


『いたいよ……くるしいよ……たすけてよ』

『ごめんなさい……ゆるして、お願いだから』

『ああ……あああ……』


 土蜘蛛の腹の中から聞こえてくる嘆きが、かつての自分と重なった。

 かなしくて、苦しくて、痛くて、目の前が真っ赤に染まった時、本当は何かにすがりたかったのだ。助けてほしいと願ったはずなのだ。


「生まれて落ちたその瞬間から、行き先が定められたレールが敷かれていたわ。凪のような日々は……とても、退屈だった」

「……」

「良家に嫁ぎ、健やかな子を産む……。誰もが憧れる薔薇のような暮らしを、定められるがままに謳歌する。わたくしは、そのような生活は‟死んでいる″も同然だと思っているの」

「だ……けど」

「嘆かわしい。わたくしたちは、生まれながらにしてこの罪深い鳥かごの中に囚われている。だから、わたくしが、外に出してさしあげるのよ。これは、救済なの。‟絶望″を得ることで、彼女たちはようやく真の人間になれる」


 玲子はうっとりと土蜘蛛を見上げる。


『そうだ……そうして、わらわはここで、こっそりと人間を食えている。ああ、嬉しい。嬉しい。ここまで力もついたことだ。これで、蜘蛛だからと上位の妖どもに馬鹿にされることもないだろう』


 土蜘蛛は息を荒げると、マダラに向けて鋭い糸を吐いた。土蜘蛛からの奇襲を軽々とよけるマダラであったが、雅を庇い立てながらでは、糸をよけるので精いっぱいのようだった。


『くっそ……瘴気が、重すぎる』

『ひえひえひえっ! わらわは猫又をも凌駕する‼ 人間を、人間を寄こせええ‼』


 人間を食らいすぎた土蜘蛛は、底知れない妖力でマダラに襲い掛かる。


(このままじゃ、マダラと雅様が……‼)


 環はとっさに祭壇の前に飛び出し、近くに転がっていた小石で自らの腕を切りつける。すると、土蜘蛛の獰猛な瞳がぎょろりと環へと向けられた。


(たしか妖たちは、私からはいい匂いがするって言ってた……)


 周によって妖術が施されているようであったが、手首からしたたり落ちる環の血液からは極上な香りが漂っている。


『はあああっ……なんだ、このうまそうな匂いは……はあ、はあ』

『環‼ 馬鹿な事をするんじゃねえ‼ くそ、今そっちに』


 マダラはぐったりと倒れこんでいる雅を置いて、環のもとへと駆け寄ろうとしている。しかし、それでは、ただでさえ瘴気に当てられている雅を誰が守るのだ。

 おそらくは、環の命よりも、雅の命の方が重みがある。陰気な引きこもりである環などより、公明正大な公爵家令嬢である雅が優先されるべきだろう。

 それに、成獣と化したマダラであれば、土蜘蛛が環に気をとられている隙をみて、丸々と膨れた腹を切り裂いてくれるはずだ。


『ウマソウ……クイタイ……ああああ』

『環‼』


 土蜘蛛の獰猛な口が環へと迫った。環はそっと目を閉じる。

 ――この土蜘蛛も、底なしの飢えに苦しんでいる。

 これほど人間を食らってしまっていては、もう正気には戻れない。化け物になり果ててしまった土蜘蛛をいっそ哀れに思った。


 常世は虚無の世界だ。土蜘蛛のみでは、きっと寂しいだろう。

 土蜘蛛が吐き出す瘴気をほんの目の前で感じたその時だった。


「――住ね」


 すぱんっ……と何かが切り落とされる音が聞こえた。

 辺り一帯が凍り付くほどの冷気。地面をそこ震えさせるほどの低い声。


『うぎゃあああああああ‼』


 環の視界で艶やかな黒髪が流れている。月のような瞳に、陶器のごとき白い肌。鋭く伸びた爪と牙――そして、威厳を示す一対の角。

 のたうち回る土蜘蛛を冷ややかに見下ろす男は――紛れもなく鬼の姿をした周だった。

 ぼとり、と切断された土蜘蛛の手足が落ちる。


「つ……土蜘蛛様……‼ それに、あなた……は……」


 玲子は顔を青々とさせてその場に崩れ落ちた。変わり果てた姿ではあるが、人間の姿の面影が残る周を見て、愕然としている。


「あなたの絶望を、他人に押し付けるな」

「うっ……」

「退屈な人生は、あなたの手でいくらでも変えられる。喜びや痛み、命の輝きは決して他人からは得られない。これからは、そういう時代がやってくる」


 周は冷徹に見据えると、玲子に向けて冷たい炎を放った。


「眠れ。――悪い夢は、目覚めたら醒める」


 周の妖力による影響なのか、玲子はその場に倒れこみ、意識を手放した。


『おのれ……鬼族か……くそう……』


 周と比べても何倍もの体格を有している土蜘蛛であったが、放たれている冷気の威力は周がはるかに凌駕している。


「あ、周……さん」


 呼びつけると、周はちらと環を一瞥をする。したたり落ちる血液を視界に入れて、眉を顰めた。


「ふざけるな」

「えっ……あの、えっと」

「――髪の一本も、血の一滴でさえ、私のものだ」


 辺りが轟轟と鳴り響くのは、鬼が怒っている証拠か。周は右手を振り上げると、視界に映らぬ速さで土蜘蛛の腹を真っ二つに切り裂いた。


「現世と常世の均衡を揺るがすものよ。鬼族の名のもとに送り返す――」

『やめて……やめてくれ』

「炎の中で、眠るといい」

『うっ……うぎゃあああああっ……‼』


 どろりと流れ出す体液。中に蓄えられていた人間たちが地面に放り出される。土蜘蛛の巨体は、鬼火によって焼かれていた。

 青い炎は残酷なようで、ひどく美しい。あたりに立ち込めていた瘴気や、張り巡らされている糸ごと飲み込み、やがて静寂が訪れた。


『環‼ 無事か‼』


 しばらくその場で呆然としていると、雅を背負ったマダラが駆け寄ってくる。普段はずんぐりむっくりしているマダラであるが、成獣になった姿は毛並みすら勇ましいかぎりだ。


「う……うん」

『ったく‼ おまえふざけるなよ‼ 自分がなにをしようとしたか分かってるんだろうな‼ 自分から食われようとする馬鹿がどこにいるんだよ‼』

「ご、ごめん……」

『ごめんじゃねえんだよ‼ このドアホ‼』


 がるる……と低く喉を鳴らすマダラを前に、環はひいっと後ずさりをする。これで一件落着……とは至らないようだ。


『それにしても、まさか周が出張ってくるとはな。けっ……いいところばかり持っていきやがって。気に入らねえ』

「あ、周さんも……ご、ご迷惑を、おかけして……ご、ごめんなさい」


 おずおずと謝罪を述べるが、周の視線はいまだ冷たい。まだ怒っているのだ。


「あ……ああ、あの」


 なんといえばいいのだろう。周がそこまで憤怒する理由が分からずにあたふたしていると、周はちらと祭壇の前を見やった。


「あの人間たちには、まだ息がある」

「え?」

「数日もすれば目覚めるだろう。ぬらりひょんのツテに手回しは済んでいるから、綾小路と栗花落の令嬢もともに運ばせる」

「じゃ……じゃあ、る、瑠璃子様は無事で……? そ、それに、玲子様は、周さんの姿を見てしまっていますが……その、ごにょごにょ」

「栗花落の令嬢の記憶には少し干渉させてもらった。目覚めた時には、一連の事件の記憶を、すべて忘れているだろう」


 鬼の力は人知を超えている。 環は末恐ろしくなり、二度度怒らせないようにしようと心に決めたのだった。


「玲子様も、土蜘蛛も……苦しんでいた……みたいでした」

「……」

「私には、まだ……よく、分かり、ません。でも……これで、よかったんです、よね」


 本来抱くはずもない欲望に狂わされた土蜘蛛。華族社会に嘆いた玲子。彼らの絶望は、かつて環が感じた孤独や不安、恐怖を想起させたが、それでもなお、すべてを理解するには足りなかった。


『いいわけ……ねえだろ! オレはまだ、環を許す気になれねえ!』

「ひいっ……ごごご、ごめん!」

『ああ、くそ、今日はさっさと寝る! こんな薄気味悪い場所、さっさと退くぞ!』


 マダラの唸り声が辺りに響き渡る。

 帝都を揺るがした華族令嬢失踪事件は、こうして幕を下ろしたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る