人見知り乙女と失踪事件

第5話

「白薔薇会のみなさんと、オペラを……」


 日比谷公園野外音楽堂から発展した西洋の音楽は、やがて帝国劇場を設立するまでに至った。

 華族階級だけでなく、一般庶民でも身近に楽しめる音楽も広まっていたのだが、環には悉く縁がないものだ。


 それにしても、白薔薇会の令嬢たちとオペラを見た帰りに失踪をするとは。


「そっ、その日は、瑠璃子様つきの運転手は、おられなかったのですか」

「いらしたそうよ。でも、ちょうどお開きになった時に、運転手は気をうしなって路肩に倒れていたそうなの」

「な、何者かに、ね、眠らされてしまった……ということでしょうか」

「そうね。きっと、運転手になりすました犯人が、彼女を誘拐した」


 環はぐっと黙り込み、現場の状況を想像する。


「もし、それが事実だとすると、かなり、計画的な、は、犯行になると思い、ます」

「そう……それも、オペラが何時に鑑賞し終わるのかも分かったうえでのことよ。正直、白薔薇会の中に、おかしなことが起こっているのは間違いないと思うの」


 環はこくりと頷く。

 しかし、白薔薇会の令嬢たちに妖やモノノケが紛れていると仮定しても、それらの気配は少しも感じないのだ。この場にいる者たちはすべて人間だ。マダラと小鬼を除いて。


「あ、ああああ、あの」


 雅は怖い。令嬢たちの目も恐ろしい。できることならこの場から逃げ出して、自宅に引きこもってしまいたいくらいであるのに。


 人間なんて、信用できない。人間ほど身勝手な生き物はいない。


 化け物のように映った彼らは、いまだに環の意識の中に居座っている。だが、環はいったい何に突き動かされているのだろう。

 いきなり大声を出すものだから、雅はぎょっとした。環は基本的に人との距離感に疎いのだ。


「も、もしよろしければ……わ、私も、事件解決のお手伝いを、させていただけ、ないでしょうか」


 環の助太刀などあってもなくてもたいして変わらないかもしれない。むしろ足手まといとなるのが関の山だ。

 おそるおそる顔を上げると、雅は凛々しい表情を浮かべている。


「そういえば、名前を聞いていなかったわ」

「あ……ご、ごごごご、ごめんなさい。九重、環と申します」

「九重?」


 聞いたことがない、といった反応だ。


「しゅ、出身はこのあたりではないものでして……」

「あら、そうなのね。わたくしは綾小路雅。あなたのような子がいてくれてよかったわ。令嬢たちが相次いで失踪しているというのに、自分たちだけ呑気にお茶をしているだなんて。とても正気だとは思えないもの」


 環は環で華族界隈の華やかな雰囲気についていけないと思っていたが、公爵家の令嬢である雅がここまで言うとは予想外だった。雅は重たくため息をつき、身を翻す。


「ついてきて。あなた、新入りなのでしょう? これまでの失踪事件について、私なりに調べているの」

「は……はい」


 そう言って、雅は螺旋階段を下りていく。


『それより、こいつはどうするよ』

「あー……もう離してあげてもいい、かも」

『つってもよ、おまえもなんであんな質の悪いいたずらなんてしやがったんだ?』


 マダラによって首根っこを咥えられている小鬼は分かりやすくぶすくれている。楽しみを取り上げられた子どものようだ。


『よくわかんねえ妖から、たのまれたんだよ』

「え?」

『あの小娘に、悪さをしろって。そしたらたらふくうまいもん食わせてくれるって』

「そ、それって、ど、どんな風貌の、妖だった……?」

『お……覚えてねえよ、夜中だったし、そいつ、マントを被ってたからよ』


 環はマダラと目を合わせる。この騒動はしくまれたものだった。しかも、妖に命じられた? それならば、なぜ雅が狙われたのか。環は瞬時に脳裏で考えを巡らせた。


「きっと、犯人にとって雅様は都合が悪い存在なんだ……」

『けっ、姑息な手段を使いやがって。そのうまいもん、ってのもおそらくは――人間のことだろうよ』


 マダラは小鬼の拘束をとくと、不快な心情を露にする。

 小鬼はよく状況を把握していないようだが、このままいくと手中に加えられてしまう恐れがあるだろう。


「あなたは里山にお帰り。きっとその妖には、近づかない方がいい」

『んあ……? なんでだよ』

「いいから。もういたずらのしすぎは、だめだからね」


 環はその場にしゃがみこみ、小鬼の頭を撫でてやる。


『ちぇ! わ、分かったよ、里山に帰ってやるよ』

「ありがとう。天狗殿によろしくね」


 ほっと胸を撫でおろし立ち上がると、小鬼は小走りで屋敷の外へと飛び出していった。


『オレは天狗の野郎は偉ぶってて嫌いだけどな』

「だって、たしかに偉い妖だし……」

『環はいいよなあ、昔から可愛がられててよ』


 環は幼い頃から今までを里山で過ごした。帝都の西の外れに越してきたのはつい最近であり、社会勉強の一環だとして天狗に追い出されたのだ。働き口は化け狐の口入れ屋からもらうことでかろうじて生活が成り立っていた。

 少しくらい援助を期待したのだが、天狗はそう甘くない。


 里山での暮らしは今思うと世俗を忘れた、至極穏やかなものだった。日中は好きなだけ引きこもって書物を読み漁っていた。

 そんな環のもとに妖たちが遊びにきては、貴重な紙類をびりびりに破かれた。


『なあ、今回の事件の黒幕……相当知恵が働いてやがる。人間を食いすぎだ。きっと、もう正気には戻れない』

「うん……そうなったら、常世に返すよ」

『オレがいるから心配はねえけどよ、環、あまり無茶はするなよ。オレは、約束してるんだ。かならず、おまえを守るって』


 マダラが環のそばにいるようになったのはいつからだったか。

 思い出せるようで、思い出せない。

 環が里山で暮らすようになる、ずっと前――。

 あの、暗く寂しい日々よりも、先であったか、あとであったか。



  *



「こっ、これは、山本重三郎氏の算術・幾何大全集全十六巻……ああああ、これは不定積分、美しい数字の羅列……難しそう、解いてみたい。これは、そうだ、この円を回転させて生じる立体の体積は、円上の点を媒介変数として、その変数で積分すると……」


 綾小路邸の書庫は環にとって夢のような世界だった。九條邸の図書室に匹敵するほどに数多くの書物が保管されている。


 雅に連れられてやってきたのだが、環は我慢ならずに学術書に手を出してしまった。


「あなた……書物のこととなると別人のように饒舌になるのね」

「だっ、だって、見てください。こっ、この偏微分の等式証明の問題を……! 私、微分が大好きなんです!」

「び……びぶん? わたくしにはよく分からないのだけれど」


 環は興奮気味に書物を閉じた。まだ読んでいたいところだったが、ここに来たのは環の欲望を満たすためではない。ここは我慢をしなくては。


「ご、ごめんなさい……つい、舞い上がって、し、しまいました」

「見かけによらず随分と頭がいいのね」

「ううう……そう、でしょうか。算術などが、主に得意……です。へ、変……ですよね」


 華族令嬢の役目は嫁ぎ先で健やかな子を産むこととされている。そこには、頭のよさなど求められていない。ただ、慎ましく、気高い女性であることを求められる。よくよく考えれば、環の令嬢らしからぬ行動は怪しまれてしまっても仕方がないのだろう。


「いえ? 好きなものを突き詰めてゆくのは、どこも変ではないわ」


 書庫の奥から冊子を運んでくる雅は、さも当然とばかりに告げる。


「え……あ、あの、で、でも、時子さんは、殿方の性分と……」

「大抵の華族令嬢はそう思っているでしょうね。でも、私はもうこの考えは古臭いと思っているのよ」

「古い……?」

「お嫁にいくことがすべてではないはずよ。華族だから? 女だから? もっと、自由な選択がとれたっていいはず」


 環は呆気にとられて言葉を失った。


「この白薔薇会だってそう。優雅にお茶をして世論を語ってはいるけれど、私たちは、社会の渦に片足すら浸かれていないのよ」


 華族ではない環には、令嬢の心情を察すれない。

 職業婦人として活躍する女性が増えている一方で、女性への参政権も得られていないのが実情だ。社会にかかわりたくない環にとってはどちらでも構わないのだが。


「話が逸れてしまったけど、これは、私が集めている令嬢失踪事件に関する切り抜き」


 木製の机の上に冊子が置かれる。中には新聞の切り抜きが数か月分に渡り貼り付けられていた。


「うわあ……すごい」

「父には、新聞記者の真似事だと非難されたものよ」


 雅は差し向かいに腰を下ろすと、自虐的に笑った。近づきにくい人物だとばかり思っていたが、実はそうでもないらしい。環は少しだけ安堵をした。


「すでにご存じでしょうけれど、被害者は皆、白薔薇会に所属する令嬢たち。はじめて事件が公になったのは、四か月前。これまでに十五人も失踪しているの」

「十五……」

「今月に至っては、まだ月も半ばだというのに七人も失踪している。そのうちの一人が瑠璃子」


 新聞には‟マタシテモ令嬢失踪″と大きく印字されている。どの記事をみても、有力な手掛かりはないということだった。さらに直近のものに至っては‟奇々怪々ノ仕業デハナイカ″と報じられている。環は、ぐっと唇を結んだ。


「わたくしは、一刻もはやく犯人を見つけ出し、瑠璃子を救いたいの」

「そう……ですね。なにか、手がかりがあれば……」

「あなたは――環さんは、人ならざるものの気配がお分かりなのでしょう? であれば、富永の屋敷を調べてみるのはどうかしら」


 なるほど、その手があったか。なにかしら気配が残っていれば、あとを辿られるかもしれない。


「わ、分かりました」

「そうと決まれば、日を変えて出向きましょう。後日お手紙をお送りするわ。お住まいは――」


 まさか人見知りで陰気な環が、こうも気が強そうな令嬢と協力関係になるとは。恐ろしいような、どきどきと胸が高鳴るような、不思議な心地がした。


「あ、あの……今は、九條邸で暮らして、いるのです」

「九條!?」


 なにかよくないことを言ってしまったのだろうか。雅は驚いて椅子からずり落ちてしまった。


「ま、まさかとは思うけれど……環さんって」

「そ、その、九條周さんの、こ、婚約者を……させて、いただいて、います」


 内容に間違いはない。一時的ではあるが、環は周と婚約関係にある。


「ごっほん、ごめんなさい。まさか九條殿のご婚約者だったなんて、予想もしていなかったものだから。あの方ったら、冷たい雰囲気をお持ちなのに、よく婚約者が変わるのよね……? そのあたりはご心配ではなくて?」


「そ……それは、大丈夫、です」


 環はまた誤魔化して笑うしかない。周には周の目的があって婚約者を求めていただけで、なにも遊び人だというわけではないのだ。ただ、屋敷は妖の巣窟だ。蝶や花よと大切に育てられた華族令嬢たちの肌にはあわない。


「そう、ならよいのだけど。あの方も随分とご苦労されているわよね。あの年で家督を継いでいらっしゃるなんて」

「……そう、ですね」

「もしかして、九條家にも妖が出るのかしら? 九條殿の元婚約者たちは、不穏な物音がするといって次々に立ち去ったと聞くもの。環さんが怯えないのは、そういう理由があるのではないかしら」


 なかなかどうして、雅は鋭い。自身で調べものをするくらいには洞察力に優れているようだ。白を切る手も考えたが、雅は妖ものに対して寛容なように見えた。


 環は肩をすぼめてごにょごにょと口を開く。


「で、できれば、内密にしていただけると……ありがたいの、ですが」

「ええ、それはもちろんだけれど。ほら、中には九條家の例の事件を悪いように噂する人たちもいるから。……本当に苦労されていると思うわ。きちんとお支えしてさしあげて」

「は、はい」


 立ち上がった雅に続き、環も席を立った。

 この瞬間も‟式″を通して視ているのだろうか。


 周との関係は、この事件が解決するまでの仮初のもの。黒幕をつきとめ、悪事を暴いたそのあとは赤の他人に戻るのだ。



  *



 白薔薇会の令嬢たちによるガーデンティーパーティーが終わりを告げたのち、環は帝都の書店街を練り歩いていた。


 普段は街中に出向くなど考えたくもないのだが、書店めぐりだけは別問題だ。年季の入った建物。筆書きされている店看板が立ち並ぶ。せっかくだから何か見ていこうと浮き足立っていた時、背後からとんとんと肩を叩かれた。


「こんにちは、いつかのお嬢さん」


 びくっと体を震わせて振り返る。


 そこには、周とドレス選びに出かけた際に遭遇した、ひと際華やかな軍人が立っていた。

 たしか、気をつけろと念押されていた人物だ。軍人らしからぬ亜麻色の長髪。今日も花飾りをつけて後ろで一つに編み込まれている。今は公務中ではないのだろうか、軍服をそのように着崩していて問題はないものか。


(お名前はたしか……藤峰静香さんといったような)


 ふわりと鼻につくのは香水だろうか。品のある、しかしどこか柔らかくて優しい花の香りがする。

 男の、しかも軍人がつけるとは驚いたが、上官に叱られたりはしないのだろうか。


 藤峰はにっこりと目を細め、環の顔を覗き込んでくる。

 余計なことを口走らないうちにさっさと退却すべきだ。


「あ、あああ、あの」

「お嬢さん、白薔薇会ではうまくやっていけているかな?」

「えっ? あ、はい?」

「見たところ、お茶会帰りかな。送り迎えの方はいないのかい? こんなご時世だというのに、ご令嬢を一人で帰らせるだなんて冷たい当主がいるものだ」


 やれやれ、と両手を広げて項垂れる藤峰。違う。誤解だ。周からは、帰りの車も出してやると提案を受けたのだが、どうせなら書店巡りがしたいと思ったがために環が断ったのだ。


「ちっ、違います! 周さんはつっ、冷たい人じゃ……な、ないです!」


 なぜ、咄嗟に弁解してしまったのだろう。周はどうみても冷淡で、合理的な人間だ。環だってそう思っているはずなのに、よく知りもしない他人から一言で片付けられるのは気に食わなかった。


「こ、これは、私が無理をいって、勝手に……」

「おや、必死だ。かわいらしい小鳥のようだね。でも、そうだなあ、年頃の令嬢を一人きりにしておくのはやはり、よくない。たとえば、僕がお近づきになってもかまわないということだからね」


 胡散臭い笑みがずい、と近づく。環はひいっと声を漏らし、二、三歩後ずさった。

 巡回の途中ではないのだろうか。こんな場所で暇を潰していてはいけないはずなのに。


「私に近寄っても、なっ、なにもよいことは、ない、です」

「そうかなあ? たとえば、白薔薇会の令嬢失踪事件について──何か聞けるかもしれないとは思っているのだけれど」

「……え?」


 深淵をのぞくかのように、すう、と目が細められる。環はごくりと生唾をのみ、押し固まった。

 やはり、帝都妖撲滅特殊部隊も、一連の失踪事件の犯人は妖なのではないかと疑っているのだ。


「手がかりについて、お嬢さんは何かご存知ではないのかな」

「そ、そんなもの……し、知りません」

「帝都警察があれほど調査をしているのにもかかわらず、何も証拠が出てこないなんて……有りえると思う? ここまで尻尾を出さないのならば、いっそのこと、神隠しの類なのではないかと考えてしまうよね」


 物腰が柔らかくて飄々としているが、言葉の節々はまるで鋭利な刃物のようだ。

 環はびくびくと肩を震わせ、ひたすらに俯いて黙った。マダラが影の中から出てこないのは、見識の才のある藤峰に悟られてしまうためだ。

 おそらくは、藤峰の出方を伺っているのかもしれない。


「だから、ね。僕とこれから喫茶店でもどうかな。ああ、ミルクパーラーでもいいよ?」


 気さくに誘いかけているが、その先には優しさの欠片もない尋問が待っているような気さえする。

 藤峰が環の手を取った時、辺りに高潔な革靴の音が鳴り響いた。


「──私の婚約者に何をしている」


 この氷のように冷ややかな声の主は振り返らずとも分かる。背後から腕を引かれ、環はすっぽりと何かに収まった。

 それが胸もとであると理解した途端に、慌てて顔を上げる。そこには、洋風のシャツに、濡羽色の羽織りを重ねた周が立っていた。

 血の気の通っていない陶器のような肌は、今にも日光により透けてしまいそうだ。


(ど……どうして、いつの間にいらしていたの)


 環は疑問に思ったが、‟式‟をつけられているのだから、周には環がどこで何をしているのかが筒抜けだった。


「おや、これはこれは、九條殿ではないか」

「私の婚約者に、あまりかまわないでいただきたいのだが」

「君が女性にそこまで執着するなんて、はじめてなような気がするよ。そのお嬢さんは、これまでのご令嬢とは違って――何か特別なのかな」


 藤峰が含みをこめて笑う。


(ど……どうしよう、ただの婚約関係ではないって、見透かされてしまった?)


 周は環の肩を抱いたまま、無言の視線を向けている。


「君の婚約者は三日と持たずに変わっていたけれど、その誰に関しても興味関心は薄いようだったし。僕が彼女たちに軽薄に声をかけても、眉一つ動かさなかった君が、ねえ」


 やはり、疑われているのだ、と環はびくびく震えた。できるだけ怪しまれないように振舞わねばならないというのに、これではまるで信憑性に欠ける。


「おっと、そんな怖い顔をしないでおくれよ。ちょっとからかっただけじゃないか。それにしても、令嬢が頻繁に失踪しているというのに、一人で街を歩かせるなんて危機感が足りていないのではないかな」


 軍人らしくない華やかな男は、微笑んでいるようでも瞳の奥は笑っていないのだ。じっと環を見つめると、ああ、と何かに気づいたように声をあげる。


「……それとも、何か、一連の事件の犯人に、襲われないといえるような確証でもあるのか」

「そっ、そんなことは……ない、です。私が、勝手に」


 環は耐え切れずに反論をしたが、周によって静かに制された。


「もともと、私が迎えにゆくつもりだった。それよりも、あなたの勝手な妄想を押し付けないでくれないか」

「妄想とは、随分と手厳しいね」

「手厳しい? あなたこそ、他人の婚約者をいったいどこに連れてゆく気だったのか。些か行儀が悪いのではないだろうか」

「おやおや、君がそこまで怒るとは……面白いものを見た気がするよ」


 ぴり、と張り詰めた空気が漂う。これは鬼特有の妖力ではなかったが、周のものだ。冷ややかな殺気が向けられると、藤峰は降参とばかりに肩を落とした。


「それじゃあ、僕はおとなしく巡回に戻るとするかな。君に殺されたくはないし」


 亜麻色の長い髪がふわりと揺れる。あの端麗な容姿に世の女たちは骨抜きにされるのだろう、と環は思った。


「それにしても、君はそちらのお嬢さんを大層気に入っているみたいだね。今までにない反応だ」

「……くどいぞ」

「お嬢さんも、一人歩きには用心しなよ。そろそろ逢魔時だ。――人ならざるものに、連れ去られないように、ね」


 藤峰は踵を返して路地裏に入っていった。ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、環は自身が置かれている状況を理解して我に返る。

 環の肩を周が抱き寄せ、破廉恥にも胸もとにしなだれかかっているような状態。しかも、このような街中で……だ。通行人の視線が、先ほどから痛いほどに突き刺さっている。


「ああああ、あの!」


 はくはくと唇を開け閉めする環へと、冷ややかな視線が落ちてくる。依然、腕を離してはくれずに。


「ああっ、えっと、その、あの」

「私は、気をつけろと言ったはずだが」

「え?」

「藤峰のことだ。あまり隙を見せるな」


 怒っている――と、環は直感で悟った。役立たず、足手まとい、愚図……などと思われているに違いない。


「ご、ごめんなさい……」


 周の腕の中で環はごみょごみょと謝罪をした。すると、環の影の中からマダラの気配が現れ出てくる。


『それにしても、あいつ……オレは苦手だな』

「マダラ……」

『妙に勘が鋭いっていうか、気が抜けねえっていうか』


 ぴょんぴょんと環の肩の上に乗ると、げしげしと周の手元を踏みつけている。


『おい、いつまでいちゃついてんだよ! あんまり環を困らせんなよな!』

「いちゃ……⁉」


 そんなつもりは微塵もなかったのだが。慌てて周囲を見回すと、貴婦人たちが口元を手で押さえてくすくす笑っているではないか。妖力を抑えているため、もちろん、彼女たちにはマダラの姿は見えてはいない。


「婚約者なのだから、何も問題はないはずだ」

『くうう、きざったらしいぜ! むかつくな!』


 悪びれもなく返答をする周と対し、マダラは悔しそうにむくれている。たしかに問題はないのだが、いや、そういうわけではなくて。


「環、あまりあなたの行動を制限するつもりはないのだが、あまり不用心にいられては困る」

「は……はい」

「分かったのなら、いい。それよりも、茶会ではご苦労だった」


 周は環の肩を抱いたまま、石畳の道を進んでゆく。停車していたタクシーを呼びつけると、環を先に乗車させる。

 運転手を見て驚く。人間になりきっているようだったが、男は河童だった。


『九條の旦那、今日はどちらまで?』

「自宅まで頼む」

『あいよ! 任せときな!』


 周は馴染みの客なのだろう。このタクシーは人間相手でも乗せているのだろうか、と環は気になったが、今は茶会での出来事についてが先決だ。

 帝都の街並みが移り変わり、車窓の景色は閑静な住宅街が映り込む。


「綾小路雅さんと、一緒に事件を追うことに、なっ、なりました」

「ああ、視ていた」

「で、ですよね。説明は、いっ、いらないと思いますが、つい先日失踪した富永瑠璃子さんは、し、白薔薇会の令嬢……たちと、おっ、オペラを見た帰りに攫われたそう、で、今度、お屋敷を調べることに、なりました」


 自動車の走行音を右から左へと聞き流す。周の月のような瞳が向けられ、環はどぎまぎした。


「大手柄だ。よくやった」

「え、えへへ……」


 褒められ慣れていないせいか、少しばかり気恥ずかしくなる。周の言葉は一見すると淡泊のようだが、嘘偽りがない。環がもじもじしていると、肩に乗っているマダラが面白くなさそうにむくれている。


「マダラも、ひと役かっていたようだ」

『なんだい、おまけみたいによ!』


 マダラがぴょんと環の膝の上に飛び乗った。肉付きが言い分、そのまま抱き締めると、抱き枕のようで気持ちがいい。


「富永邸には、先日、帝都妖撲滅特殊部隊も立ち入り調査をしているようだ。だが、これといって妖ものの痕跡は見つけられなかったという」

「そ、そうだったんですね」

「あやつらの目は完全ではない。いくら霊力に優れていようとも、見えるものと見えないものはある。しかし環の目であれば、わずかな痕跡をも見出せるだろう」


 周は淡々と述べると、移り行く景色を眺めた。


「私が直接出向くことも考えたのだが、特段富永家との縁もない。動機付けが足りないと思っていたところだった」

「そ……そうです、よね。何か、見つかるといいの、ですが」

「藤峰がいい例で、軍部もあちこちを嗅ぎまわっているようだ。実際に、疑わしいからという理由で妖どもが消されている」

「そ、そんな!」


 環が声を上げると、運転手の河童も重たげにため息をついた。


『もともと、軍部はもっと寛容だったんですけどねえ。ここ最近は、生きづらいってなんの』


 聞けば、河童は出稼ぎをしに帝都まで下りてきているらしい。化け狐の口入れ屋のようにうまく人間社会に溶け込んでいる類の妖であるようだ。


『軍部だけじゃなくて、危なげな妖もうろついているみてえで。そいつについていった妖どもは、どこかおかしくなって帰ってくるようだから、旦那たちも気ぃつけな!』


 住宅街の角を曲がり、見慣れた風景が現れる。この道を進めば九條邸だ――とほっと胸を撫でおろしたのも束の間だった。


「そっ、それ、小鬼も同じことを言って、いました」

『んあ? 小鬼? あいつらはいつも腹を空かせてやがるからな、うますぎる誘いにひょいひょい乗っちまう』


 マントを被って容姿を隠していたというが、ここまで手の込んだ犯行を企てるとは、それなりに上位の妖であるのだろう。環が眉を顰めていると、隣から視線が向けられた。


「おそらくは、この令嬢の失踪事件はあくまでも手段の一つにすぎないのかもしれない」

「手段?」

「江戸時代より二百年あまり、我が一族を筆頭に築いてきた人間と妖の均衡。それを崩そうと企てている輩と、ゆくゆくは対峙せねばならないということだ」


 九條家の正面に自動車が寄せられ、環はいそいそと降車する。屋敷の中に入っていく環を目で追う周は、猫又のマダラから視線を感じてその場で立ち止まる。


『今回の事件、無事解決できたら、あいつ、もうあんたにかかわらなくてもよくなるんだよな?』


 周は無言の視線を向けた。


『人間だとか、妖だとか、そういうの。あいつが首をつっこむ必要はない。あんたたちで勝手にどんぱちやってくれよな』


 周は考えていた。マダラは環にとってどんな存在なのか。なぜ、この不思議な気をもつ猫又の妖が環のそばについているのか。そこには明確な理由があるのだろうが、あえて聞かずにいた。


「ひとつ、聞きたいのだが。彼女が……環が、水戸の華族――九重家の隠し子であることを、あなたはあらかじめ知っていたのだろう」


 だが、この際、裏で調べ上げていた事実を確認するのもやぶさかではないだろう。素性の知れない娘を屋敷で野放しにするほど、周は愚鈍ではない。本人は何故か自覚がないようだが、戸籍を調べ上げたところ、紛れもなく九重家の血を引いている事実が露呈した。


 なぜ、人間をああまで避け、種族の異なる妖に気を許しているのか。これまではどのような暮らしをしていたのか。

 それとなく水戸九重家に手紙を出してみたが、知らないの一点張りであり、環の存在はなかったものとされていた。なぜか。

 おそらくは、長年付き従っているマダラが知っている、と周は確信している。


『おまえには関係のねえ話だ』

「関係ならあるだろう。契約上とはいえ、私は彼女の婚約者だ」

『けっ、やっぱきざったらしいな、お前』

「とぼけるな。なにか知っているのだろう」


 空が橙色に染まり、夜が訪れようとしている。昼と夜の間――常世と現世の気が不安定になる時間帯。逢魔時だ。


『どうでもいいだろう、そんなもの。お前にとって、環ってなんだ? 都合のいい手駒のように考えているんだったら、なおさら教えてやる義理もないね』

「……」

『ただでさえ、あんたは鬼族の生き残りなんだ。あんたみたいな奴が傍にいられたら、環の平穏は守られちゃくれない』


 マダラはそれだけ言い捨てて、屋敷の中へと入ってしまう。

 周は己の心境の変化に気づいていた。これまでのどの令嬢にも執着をしなかった周だが、環のこととなると考えずとも体が動く時がある。おそらくは、それなりに気に入っているのだろうとは思っていたが、それだけではない。


 痛みのない黒髪に触れたくなり、手放すのが口惜しいとすら感じている。気が小さいようで、突拍子のない行動をとる。常に何かに怯えたような目をしているかと思えば、好ましいものには転じて硝子のような輝かしい目を向ける。奇想天外な娘を、己の預かり知れぬ場所に置いておきたくはない。


 鬼族――か。


 周は自身の手のひらを見つめ、鋭く目を細めた。同胞が斬殺され、一度はこの世を恨んだ。鬼族に与えられた使命に辟易し、すべてを敵のように思った。

 そんな幼き周を救った恩人との約束を、かならずや果たさねばならない。


 人間と妖──。

 異なる種族がなす渦の中に、環を巻き込んでしまいたいと思う己自身を、愚かだと思った。



  *


「それで……あの、どうして九條様も?」


 数日経ち、環のもとに雅から手紙が届いた。約束の日曜日となり、集合場所として指定されていた富永家に到着するとすでに雅の姿があったのだった。

 自動車から降りた環を確認したのち、続いて現れた人物を前にしてぎょっとしている。


「いきなり押しかけてしまってすまない」

「い、いえ……わたくしはその、かまわないのですが」


 環はびくびくと肩をすくめた。雅の視線がちらと環に向けられるたび、気まずい気持ちになる。それにしても、周がついてきてしまって本当に問題はなかったのだろうか。


「かねてより私も、ご令嬢の失踪事件を調べていた。それでちょうど今日、綾小路殿と約束をしているというものだから、今回は無理をいって同行させていただいた次第なのだが、邪魔だっただろうか」

「い、いいえ……! 九條殿のお力添えをいただけるだなんて、むしろ心強いかぎりですわ」


 とはいえ、富永家の者たちも周が訪れるとは予期もしていないのだろう。環はびくびくと震えながら押し黙った。

 富永家の邸宅は、和風の建築が施されていて、九條邸や綾小路邸とも異なる堅実な雰囲気が漂っていた。雅から聞くところによると、伝統的な書院造や数寄屋造を継承しつつも、内部には洋風の応接間を設けている和洋折衷を取り入れた近代和風建築であるそうだ。

 ほどなくして富永家の当主と奥方が姿を現すと、環はとっさに周の背後に身を隠した。


「これはこれは、九條殿までいらっしゃるとは!」

「お噂はかねがね聞き及んでおりますわ。この度は瑠璃子のために、本当に感謝いたします」


 やはり、周の来訪に驚いている様子であった。奥方に至っては涙ぐんでいる始末だ。


「事前にお話をさせていただいたとおり、このお屋敷を少し、調べさせていただきたいと思っているのですが、よろしいかしら?」


 びくびくしている環とは対照的に、雅は勇敢だ。自分よりも二回り以上目上の人間に対してでも、臆することなく堂々としている。環には真似はできないだろう。


「もちろんだとも。何か少しでも手がかりが見つかればと思っている」

「ああ、瑠璃子……お願いだから、はやく戻ってきてちょうだい」

「とにかく、屋敷の中は好きに見ていただいて結構だ。とはいえ、先日も軍部の方々が隅々まで調査されていたのだがね」


 当主はため息をつき、中に入るようにと促した。周の背に隠れつつも、環も富永家の敷居を跨ぐ。その刹那のことだ。環は微妙な気の変化を肌で実感した。並みの者には察知できぬ微弱な痕跡。

 それは周も同様のようだ。無言のまま足を止め、周囲を見回している。――やはり、何かがある。


「どうかされたのかしら? お二人とも」


 雅が問いかけると、環はおずおずと口を開いた。


「す、すごく僅かですが……妙な気配が、あっ、あります」

「それは、本当に?」


 何度か頷き、環は周と同様にしきりに屋敷中を見回す。ほんのわずかではあるが、絡みつくような気配だ。


「瑠璃子様の、お、お部屋は、ど、どちらでしょうか」


 この屋敷には妖もの、それ自体はおそらくはいない。すでにここは用済みとなったというところか。いわばこれは、妖ものが残していった痕跡なのだろう。


「こっちよ。ついてきて」


 雅が踵をかえすと、和と洋が混在する廊下を突き進む。左手に伝統的な枯山水の庭園を望みながら、天井には近代的な電燈が灯されている。


 やはり、ここにもわずかな妖ものの痕跡を感じる。身動きをとると勝手に体に纏わりつく――糸のような。


「ここが瑠璃子の部屋よ。どう? 何か不自然な点はあるかしら」


 雅により案内された部屋には、令嬢界隈で人気だという【乙女時代】がずらりと並んでいる。一見すると、何の変哲もない年ごろの娘の私室ではあるが。


「これは……」


 畳の片隅にきらりと光るものを見つける。一瞬、瑠璃子の髪の毛かと思ったが、よく見ればそうではない。細長い糸状のもの。手に持てば、光を反射をした。


「蜘蛛の、糸……」

「蜘蛛?」


 嫌な予感がして周を見つめると、鋭く目を細めて天井を見上げている。


「おそらくは、ここは蜘蛛の巣の一部だった」


 環はこくりと頷き、考えを巡らせた。瑠璃子の失踪には、やはり妖が関与している。ここにはもういないとなると、黒幕はどこに身を隠しているのか。おそらくは、人目につかない場所に拠点を設け、次の罠を張る策を巡らせているはずだ。


「それも、ただの……蜘蛛では、ない。蜘蛛は、ここまで知略的に巣を作れ、ない」

「蜘蛛というのは、やはり、妖ものやモノノケの仕業だった……ということで、あっていたのね?」

「おっ……おそらくは。で、でも、どうして、白薔薇会の令嬢ばかりが、狙われているんだろう」


 腹を空かせた妖ものにとって、人間の、しかも若い女はこの上ないご馳走だ。狙うのならば、帝都中の娘たちをかたっぱしから攫えばよい話なのだ。それなのに何故、このような巣まで作り上げ、かつ、入念に痕跡まで消し去る手段までとっているのか。


 まるで、あえて白薔薇会の令嬢に狙いを定めにいっているようではないか。なんのために? どうやって? 無作為に獲物を選んでいるのではないとすれば、蜘蛛はどのようにして、白薔薇会の令嬢だけを攫っているのだろうか。


 しかも、瑠璃子に至っては白薔薇会の令嬢たちとオペラを鑑賞した帰りに失踪している。普段からいくらでも狙える機会はあったはずなのに、なぜ、そこで攫ったのだろうか。


 環は目を細めて、部屋中をよく観察する。すると、意識しなくては分からないような細い糸が張り巡らされてあるではないか。糸は天井へと伸び、どこかへと繋がっているような気配がした。


「まだわずかに、糸が残ってる……ここが、巣の一部なのだと、したら……伸びている先に、きっと、根城がある」

「そ、そんなことが、できるのかしら」

「や、やってみないと、分からない……ですが」


 環がおどおどと口ごもると、周は無言で天井へと手をかざした。


 ──ブオッ!


「……っ!」


 何をしているのかとしばらく見つめていると、指の先から冷たい炎を出しているではないか。

 雅がいる前で何をしているのかとぎょっとしたが、当の本人には見えていないらしい。


 人間の目には映らない――妖ものの力。

 鬼火だ。


 おどろおどろしい炎はたちまち、糸をつたってゆく。屋敷の天井裏に入ってゆき、そこからどこまで伸びているのかは周のみぞ知るところであったが。


「なるほど……灯台下暗しということか」


 すっと手のひらをおろした周は、低い声で告げた。


「この蜘蛛の糸は、栗花落の屋敷に向かって伸びているようだ」


 環は己の耳を疑った。栗花落――とは、白薔薇会に所属している栗花落玲子のことで間違いはないのだろう。

 雅も何を言っているのか理解ができないとばかりに動揺をしている。


「栗花落……? いったいどうして、手をかざしただけで、そのようなことがお分かりになるのでしょう」


 当然ではあるが、雅には鬼火が見えていない。そればかりか、周が実は鬼族であることも知り及んでいないのだ。

 なんと説明すべきかとおろおろする環をよそに、周は冷静沈着だ。


「怯えさせてしまってはいけないと思って黙っていたのだが、実はこの手の気を読むのが得意なんだ」

「そ、そうでいらしたのですか……九條殿も」

「驚かせてしまってすまない。できれば、このことは他言無用でいただけると大変助かる」


 雅は何度か瞬きをすると、やけに納得したようにうなずいた。


「もちろん、お約束いたしますわ」

「……恩にきる」

「それで、玲子さんのお屋敷に向かって蜘蛛の糸とやらが伸びているとは、誠なのでございましょうか」


 環も信じがたいと思ってしまうくらいには、玲子からは少しも妖ものの気を感じなかったのだ。玲子自身は紛れもなく人間であり、妖ものが化けているようにも感じなかった。

 玲子の知り及ばない場所に蜘蛛が巣くっているとでもいうのだろうか。


「天井から地下道へと伸びる糸を辿ったが、日比谷にある栗花落邸に通じていた。それも、栗花落の屋敷を中心に、帝都中の屋敷へと蜘蛛の糸が張り巡らされている」

「そんな……!」

「一連の令嬢失踪事件の黒幕の根城であることは、まず間違いないだろう」


 愕然とする雅は、へなへなと腰を抜かしてしまった。


「で、では……瑠璃子や、失踪をしているほかの令嬢たちは……」

「生きているのならば、栗花落邸にいるはずだ」

「そんな、であれば、玲子さんはどうしてあのように穏やかに笑って……」


 環が解せないのはその点だった。玲子は本当に何も知らないのか。それとも、なんらかの事情があって妖に与しているのか。

 いずれにせよ、玲子に近づいてみる以外に方法はないようだ。


「わ……わ、私が、囮になるのは、い……いかがでしょう、か」


 環にしては妙案だと思ったのだが、周は眉を顰めて難し気な表情を浮かべている。人質がいる以上は、正面突破は良作ではない。もし、囚われている令嬢たちが生きているのであれば、自らが餌として捕まれることで救出する機会を見出せるかもしれないと考えたのだが。


『何も、環がそこまでする必要、あるのかよ』


 そこでしばらく黙っていたマダラの声が脳内に響く。

(で、でも……見殺しにする、わけには……)

『だけど、環には関係のねえ奴らだ。生きていようが死んでいようが、正直なところ、知ったこっちゃねえな』

(ううう……でも、それって後味が悪いよ)

『これまでの探偵ごっことはわけがちげえんだ。そもそも、根城が分かったんだから、もう環が出張る必要はねえって』


 脳内で交わすやりとりは、雅には聞こえていない。ここにきてマダラが協力的ではないとは、環にとっては想定外だった。


 人間はたしかに怖い。嘘をつき、裏切り、搾取する生き物だ。だからできれば、関わり合いにはなりたくない。今もそう思っているはずなのだが、環はいったい何にそこまで突き動かされているのか。


「な、何をおっしゃっているの。そ、そんなの危険だわ」

「で、でも……ほかに良い手が、う、浮かばないというか」

「であれば、わたくしが参ります。蜘蛛とやらになど屈しないわ」

「い、いくらなんでも……雅様を囮にするわけには……」


 びくびくと肩をすくめていると、背後から冷たい視線を感じた。


「囮はいい。私の方で策を練ろう」

「……え」

「――帰るぞ。綾小路殿も、お屋敷までお送りしよう」


 氷のように張り詰めた鋭い視線だった。名案だと褒められるのではないかと思っていたのに、周は静かに怒っていたのだ。

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