人見知り乙女と仕事斡旋
第1話
「やあやあ、
「うう……こ、こんにちは」
帝都の西の外れにある古民家に、この日は珍しく来客があった。戸を開けるやいなや飛び込んでくるうさんくさい笑みを前にして、やはり居留守を使えばよかった、と環は猛烈に後悔をした。
「そろそろ口入れ屋をお求めである頃合いかと思いまして。ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。わたくし、とても気がききますでしょう?」
「え、ええ……そう、ですね」
皺ひとつない燕尾服。光沢のあるシルクハット。細く釣り上がった目。萎縮するほどに明るい声色。
特徴的な
このどことなくうさんくさい男は、口入れ屋として帝都市民を相手に仕事のあっせんをしている。
縁あって環もこれまでに何度も仕事をもらっているのだが、本音をいえば、仕事などせずに家にずっと引きこもっていたいところだった。
(生活に困ってはいるけれど、できればはやく帰ってほしい……)
環は極度の人見知りだ。会話はおろか目を合わせることすら抵抗がある。
生きてゆくうえで人との関わりは避けては倒れないと理解しつつも、苦手意識が拭えない。
叶うのなら、人と関わらず、家の中に閉じこもってただただひたすらに学術書を読みふけっていたいものだ。
(今回も内職であるとありがたいのだけど……)
そんな願いとは裏腹に、口入れ屋は意気揚々としているではないか。
どうやら手ぶらでは帰るつもりはないらしい。
「実はですねぇ、今回はほんっとうにあなたにぴったりな案件がありましてねぇ! それになにより、お給金もかなり弾みますよ」
環は、はあ、とため息をつくと、しぶしぶ口入れ屋を家の中へ通した。
茶のひとつでも出さなくては、いよいよ仕事のあっせんをしてくれなくなってしまうかもしれない。
仕事をしなくてよくなるのだから願ったり叶ったりなような気がしたが、それはそれで死活問題でもあった。お金がなくては生活もままならないとは、世知辛い。
環は台所に立って、いそいそと湯を沸かした。
「ど、どうぞ……」
「これはこれはかたじけない」
口入れ屋を居間に案内し、ちゃぶ台の上に湯呑を置く。環は視線のやり場に困った。人と目を合わせて会話をすることが苦手なため、しきりにそわそわしてしまう。口入れ屋は茶を一口含むと、さっそく本題だとばかりに切り出した。
「環さんは上野に門をかまえる九條家をご存じですかな」
「……く、九條家ですか?」
ちゃぶ台の上に両肘をつき、手を組み合わせて環を見つめる。いくら社交にうとい環でもその名は聞いたことがあった。九條家とはたしか、江戸初期から続く由緒ある名家だ。地主として代々栄華を築いていたが、今は当主一人のみが屋敷に身を置いているのだったか。
(どうしてそんな家の名前が出てくるんだろう)
環は猛烈に嫌な予感がした。口入れ屋の含みのある笑みを前にして、さああと血の気が引いていく。この男がこの表情を浮かべる時、いつも環は散々な目にあっている。
環が内気な性格であることをよいことに、やっかいな仕事ばかり押し付けられている気配があった。
「その九條家が当主、
「お……お断り、させてください」
ほらみろ、いろいろと破綻している案件ではないか。
環は詳細を聞くことなく即座に頭を下げたが、口入れ屋はころころと笑うだけで引いてくれる様子はない。
(それって仕事っていうの……? そもそも愚鈍な私に婚約者なんて大役……つとまらないと思う……)
「たっ、たっ、ただでさえ、その、人と、まっ……まともに会話ができない私が、できるわけ、ない、です」
「いいえいいえ、そのようなことはございません。きっと環さんが適任でしょう。なんせ、九條周氏はとりわけ聡い女性をお求めであるようなのですから。ええ、わたくし、環さんほど賢い方にこれまでお目にかかったことがありませんので!」
「で、でも、む、むりです……。それにきっと、すぐに、契約破棄されるんじゃ……」
内気で人見知りな環は、幼い頃から引きこもりがちだった。
外界との交流を絶っている間は、夢中になって学術書を読みふけっていたため、他人よりも博識である自負はある。読めば読むほどに謎が広がり、それを解き明かしていく過程に病みつきになったのだった。
環は女学校に通ったことはなかったが、数えで十九となった今、帝国大学の学生をも優に超えた知識を身につけている。
口入れ屋は環の賢さを見込んで、これまでに多くの仕事をあっせんした。おかげで高価な学術書を購入できているのだが、環にもできることとできないことくらいある。
「そうでしょうか、わたくし、目ききだけはよいのです。環さんは引っ込み思案でいるようで、案外肝が据わっておられる」
「ひいっ……」
「――なんでも、九條家のお屋敷では不吉な物音が聞こえるようでして、逃げ出してしまう婚約者があとを立たないようなのでございます」
口入れ屋はにっこりと笑みを作ったまま、態度を崩さない。
(‟不吉な物音″?)
環はごくりと生唾をのむ。肝が据わっているなどととんでもない大ほら吹きだ。これのどこに度胸があるというのか。
『不吉な物音……ねえ。そいつ、結構訳ありなんじゃねえのかぁ?』
押し黙っていると、いつのまにか口入れ屋の隣にずんぐりむっくりな猫が座っていた。
人の言葉を話す猫がいるものか、といったところだが、環は驚きもせずその生物を視界に入れる。しっぽが二つに分かれているそれは、人でも動物でもない存在。
――妖だ。
それは環だけでなく、口入れ屋にも見えている。いつものことだと言わんばかりに、にっこりと目を細めたまま、両手を顎の下で合わせていた。
「おやおやこんにちは、マダラさんも息災でなによりです」
『けっ……、いつもこいつに仕事くれるのはいいけどよ、マタタビのひとつくらい持ってこいってもんだよ』
「わたくしとしたことが気が回らず申し訳ございません。ですが、いくら猫又といえど、あまり食べすぎはよくないですよ」
『おまえにだけは言われたくないね、化け狐』
マダラはぴょんと飛び跳ねると、口入れ屋が被っていたシルクハットを奪い取ってしまう。
帽子で隠れていた頭部からは、ふっさりとした獣耳が現れた。
口入れ屋はとくに慌てる素振りもなく、優雅に茶を飲んでいる。また、差し向かいに座っている環も驚く様子はなかった。
口入れ屋が“人ではないもの”だということを環はあらかじめ認識している。もちろん、妖であると知っていながら仕事をあっせんしてもらっていた。
──この大正の世には、人間と妖が存在する。
魑魅魍魎である妖は基本、人間と住む場所を隔てているが、中には口入れ屋のように人間社会に紛れて暮らすものもいる。
認知できない人々は、これらを酷く恐れ、忌み嫌っていた。
環は生まれつき人ではないものが見える。
どういうわけか妖を引き寄せる傾向にあるらしく、物心がついた頃からそばには妖がいた。
今となっては仕事のあっせんをもしてくれるようになるほど。人見知りな環にとっては、妖の方が身近な存在だった。
「しょうがないでしょう。腹が減ったらつい魔がさしてしまうこともあるのですよ」
「……うっ」
魔がさす――。いったい口入れ屋がなにを食べているのかは考えないことにする。
『おまえ、そうやっていい顔しておいて、いつか環を食うつもりじゃねえだろうな?』
「まさかまさかっ! 環さんはたしかにおいしそうな匂いがしますが、大切なお得意様です。それに、猫又のマダラさんがはりついているのに、手なんで出せるわけがないでしょう」
「お……おいしそう……」
(私、匂うのかな……)
冗談だとは分かっていながらも、心臓が変な音を立てた。この口入れ屋――もとい化け狐や、猫又のマダラは善良な妖だ。だが、すべての妖が理性を持っているわけではないことを環は知っている。だからといって、妖よりも人の方が恐ろしいと思うことに変わりはないのだが。
「ああ、わたくしとしたことが失敬。話が脱線してしまいました。先ほどの案件についてですが……」
「だ、だから、私にはむり……です」
「お給金がかなり弾むとしても……?」
身を乗り出した口入れ屋は、環の耳元に顔を寄せると小さな声で報酬金額を告げる。
「……な、なっ‼」
聞いたこともないような破格の報酬に環はふるふると震える。その金でいったい何冊の学術書が買えるのだろうか。断固として断る意気込みでいたが、その決心はいとも簡単に揺らいでしまう。
『まあ、賢さでいえばこいつの右に出るもんはいねえと思うし、陰気だけど‟不吉な物音″とやらにも耐性があるのは間違いねえしな……。なあ環! オレはもうひもじい生活はこりごりだぜ。たんまり稼いで、マタタビを山ほど食わせてくれよ!』
「ま、マダラまで……。だから、む、むりだってば……」
マダラはぴょんぴょんと居間を走り回り、最終的に環の頭の上に着地をした。
「け、契約とはいえ、こ、婚約者になるんだよ? わ、私むりだよ、まともに人と会話もできないのに」
『そんなもん妖どもだと思えばなんとかなるんじゃねえか? こんやくしゃってのがいったいなにするもんなのかは知らないけどね』
呑気に毛づくろいをしているマダラを心底羨ましく思う。自分もいっそ妖であったらどんなによかったか。
とはいえ、食い口を繋がなくてはならないのはたしかだ。
新しい学術書もほしいと思っていたところだったし、破格の給金にもうまみがある。もし万が一役不足であると判断されれば、むしろ先方から暇を出してくれるだろう。
そうなってしまったら、それはそれでよいかもしれない。
「ああそうそう。言い忘れておりましたが、婚約者を引き受けていただけた暁には、九條家での衣食住の保証、そして、屋敷内の図書室を好きなだけ使用していただいてかまわないということです」
「いっ……衣食住……それに、とっ、図書室……ですか⁉」
ここまでうまい話だとむしろ恐ろしさを抱くところだが、環の目は不覚にも輝いてしまった。
好きなだけ本が読める。歴史のある九條家の図書室となれば、きっと年代物の古書も保管されているかもしれない。
「どうです? お引き受けされますか?」
結局のところ、環は誘惑負けしてしまった。こくりと頷くと、口入れ屋は満足げに目を細めたのだった。
一週間後、環は大きな風呂敷を抱えて、上野の洋風邸宅の前に立っていた。さすがは華族だと言わんばかりの立派な門構え。硝子のはめ込まれた大きな窓をはじめとした、煉瓦造りの異国風な建造物にため息がこぼれる。
覚悟を決めて家を出てきたが、今すぐ来た道を引き返したい。
「ううっ……やっぱりむりだよ、帰りたい」
最悪なことに、昨夜は緊張のためろくに眠ることができなかった。給金のためとはいえ、婚約者などとは荷が重すぎる。それに――。
環は自分の頬や髪を触り、ため息をついた。華やかな目鼻があるわけでもなく、表情もどちらかといえば暗い方である自覚がある。色気のひとつもなければ、洒落けもなく、身に着けているのは時代遅れの袷の縞木綿。長い髪はおさげをしてまとめるほか考えが浮かばなかった。
そればかりでなく、華族の令嬢でもなんでもない娘が名家当主の婚約者を名乗るなどど罰当たりではないのか。
もんもんとしながら立ち尽くすことしばらく、環は意を決して呼び鈴を鳴らした。
「はいはーい、どちらさまで……なんとまあ! 可愛らしいお嬢さんだこと!」
「こ、こんにちは。は、はじめまして、
「九重……ああ! 九重環さんですねぇ! お待ちしておりました。さあさ、中にどうぞ」
艶のある立派な扉が開き、中から女中らしき人物が顔を出した。
環は初対面の人物が極めて苦手だ。目が合っただけで体が強張り、言いたいことも言えなくなってしまう。
何よりも視線が怖い。できることなら環を視界に映してほしくはないと願うばかりだ。
ぶるぶると震えながらも、思い切って顔を上げ、ふと違和感に気づく。
まろ眉の穏和そうな女だ。そして、なぜか思っていたほどの畏怖が訪れることはなく、むしろ妙な親近感が沸いてくるような気がする。
(あれ……この人)
環は疑問を呑み込み、九條家の門をくぐった。
*
九條邸の内部は、一般庶民には想像もできないほどに豪奢なつくりをしていた。中央に伸びる螺旋階段と、天井に輝くシャンデリア。敷かれている朱色の絨毯は、土足で踏んでしまうことが躊躇われた。
環は終始呼吸をも忘れてしまうほどに緊張する。手持ち無沙汰に周囲を見回していると、ふと疑問を抱いた。
(なんだかこのお屋敷、昼間だというのに、どことなく暗いような……)
硝子が入った大きな窓からは、十分なほどに日差しが入っているはずだ。それなのに、取り巻く空間は形容し難い薄暗さがある。
庭園に背の高い木々が生えているわけでもなく、特別日当たりが悪いようでもなかった。環は表面上はおどおどと震えながらも、頭の中は思っていたよりも冷静に機能している。
聞くところによれば、この屋敷には当主一人が身を置いているというが。
(けれど、あれは……)
案内されるままに螺旋階段をのぼっているとき、ちら、と大広間が見えてしまった。豪奢な長テーブルに四人分の皿が並んでいる。客人でも招待しているところなのかもしれないが、仮にも婚約者が来訪する日だ。どれだけ派手好きな人間でも初日くらいは控えるのではないか。
……といっても、環にとっては客人を自宅にもてなすなど考えもつかないことだが。
「周様、九重環さんがお見えになりましたよ」
環は女中に連れられ、二階東側の最奥の部屋の前までやってきた。
ここまで来たが、いよいよ当主と対面すると思うと引き返したい衝動に駆られる。
婚約者とは、いったいなにをするものなのか。給金を出してまで求めているということは、よほどな事情があるのだろうと踏んでいるが、もし環に色気云々を求められても無理な話だ。
大方、なにか別の目的遂行のため、婚約者として立ち回れる賢い女を必要としている――といったところか。いや、むしろそれだけであってほしいと願う。
「ああ、通してくれてかまわない」
重厚感のある扉の向こう側から、淡泊な男の声が聞こえてくる。環はびくりと肩を揺らし、身構えた。
女中がドアノブに手をかけたとたんに悲鳴を上げてしまいそうになる。途端に不安感が押し寄せ、泣きべそをかきたくなった。
残念ながら妖の友のマダラはこの場についてきてはくれず、帝都の街中を散歩しにいってしまったのだ。
一人でうまく立ち回れるわけがないというのに、薄情にもほどがあるだろう。
びくびくと身を小さくして部屋の中に入ると、静かに扉が閉まった。
「わざわざ出向いてもらって申し訳なかった」
ひい、と声を上げてしまいそうになるのを我慢し、ゆっくりとうつむいていた顔を上げる。環はごくりと生唾をのんだ。
執務机の向こう側に、恐ろしいほどに端正な顔立ちの男がいた。
血の気も通っていない陶器のような肌に、艶のある黒い短髪。すらりと通った鼻筋と、薄い唇。
首元までしめられた洋風のシャツの上に、濡羽色の羽織りを重ねている。その出立ちは、艶やかで麗しく、でも、氷のように冷たい雰囲気をも兼ね備えているようだった。
だが、環が感じたのはそれだけではない。
(こ、この人……)
環ははっと息を呑み、唇を結ぶ。
まとう空気感。背筋を撫でる冷気のようなもの──と、そこまで考えて頭を振る。
環はおずおずとソファーに腰かけ、ちらちらと男を視界に入れた。
「茶を持ってこさせよう。紅茶と緑茶、どちらがいいだろうか」
「あっ……! え、えっと、で、では、紅茶で……」
男は腰を上げると、執務机から差し向かいの長ソファーまで移動をする。
生まれてからこの方、ちゃぶ台と座布団で生きてきた身としては、上質な革の感触に落ち着きが隠せない。
ほどなくして小綺麗な細工が施されているティーカップが運ばれてきた。なんの茶葉か分からないが、いい香りがする。
「舶来ものだが、口に合うだろうか」
「は、舶来もの……。お言葉に甘えて、いただきます」
紅茶で、なんてきざったらしい返しをしてしまったが、普段はもっぱらお茶派である。紅茶など、帝都の洒落たカフェーで飲むものだと思っていた。
環はティーカップを持ち、何も入れずに口に含んで、うっ、と眉を顰める。
……思っていたよりも苦かった。
「あらためて、九條周だ。この度は面倒をかけるが、よろしく頼む」
「こっ……こ、九重環……です。よ、よろしくおねがい、します」
ぺこりと頭を下げ、環は冷や汗をかいた。人見知りな環には、世間話をする技量はない。
そればかりか気のせいではなければ、品定めをされているような居心地の悪い視線を感じる。
「口入れ屋から聞いていると思うが、あなたにはこれからしばらく、私の婚約者として振る舞っていただきたいと思っている」
だが、追求する気配はないようだ。
淡々と話題を切り出す様子はいっそ清々しいくらいだった。
「しょ、承知、しております」
「もちろん、わざわざ依頼をしたからには、それなりの理由があるのだが、そんなに気負う必要はないから安心してほしい」
「……は、はい」
「ありがたい。どうにもこれまでにこの手の縁がなく、困り果てていたところだった」
周はティーカップを持ち、流れるような所作で一口喉に流しこむ。
それなりの理由とはいったいなんであるのか。環には嫌な予感しかしなかった。華族の当主の婚約者ともなれば、社交場に付き添っていくのは必然。そうなると、苦手な人付き合いとやらを強いられることになる。
環はやはり断っておけばよかった、と猛烈に後悔した。
「く、九條さん……なら、引く手数多のような、気がするのですが……」
「まさか……そんなことはない。この家からはどうも不吉な物音がするといって、皆出ていってしまったからな」
全然そんなことはあると思う、と環はぽかんと口を開けてしまった。環は周ほど容姿端麗な男を見たことがない。とりわけ、そこまで比較対象となるほどの人と接してきてもいないのだが。
ともかく、不吉な物音の正体は環も気になるところだ。心霊現象? ただの空耳? それとも──と、考えを巡らせる。
「失礼、こういった話は苦手だったりするだろうか?」
「い、いえ、まったく」
「珍しいな。女性ならば大抵は怖がってしまうものだと思っていたが」
「それは、毎日見ているので慣れてい──っ! い、いいえ、と、とくにこ、怖いとか思わないので、全然お気になさらず、大丈夫です」
ゲホゲホゲホ、と飲んでいた紅茶がむせかえってくる。
いけない。危うく口が滑りそうになった。妖ものの話になると簡単にボロが出てしまいそうだ。こうなったら話題をすり替えるしかない。
「と、ところで……こ、このお屋敷では、ど、どのように過ごさせていただけば、よいので、しょうか」
環はテーブル上に置かれている角砂糖を三つほど拝借した。すべて紅茶の中に入れ、マドラーというものでぐるぐるとかき混ぜる。
「好きに過ごしていてかまわない。食事も朝昼晩出そう。使っていただく部屋はのちほど案内させる」
「と、とてもありがたいのですが、そ、その……仮にも本物の婚約者さんでは、な、ないのにそこまでしていただくのは、し、忍びないというか……」
後半部分はごにょごにょとなにを言っているのか分からないくらいに小声になった。
「そ、掃除や、洗濯……とか、なにかお手伝いできることがあれば」
「気遣いは感謝するが、その点はとくに必要はない。家事全般はなんとかなっている」
「そ、それは、さ、先ほどの女中さんお一人で……でしょうか? こ、こんなに広い、お屋敷なのに……」
思えば、ここまで来るまでに使用人は女中以外に一人も見かけなかった。
たった一人で掃除、洗濯、給仕をこなすには手に余る規模の邸宅だろう。
「住んでいるのは私一人だからな。だから、あなたは気にせず、客人として過ごしていただければ幸いだ」
「……は、はあ」
「ひとまず、今日のところはゆっくり休んでくれ。また夕餉の頃合いをみて声をかけさせる」
紅茶を飲み終えた頃、下がっていた女中が執務室を訪れた。
環は促されるままにこの場をあとにする。
(うまくやっていける気がしない……)
朱色の絨毯を踏み締め、環は盛大にため息を落とした。
それにしても──……と環は先ほど訪れた執務室の扉を振り返って見つめる。
環が先ほどから感じている違和感の正体。これは──。
*
夕餉の時間までは、屋敷内にある図書室で読書を堪能した。
やはり、薄暗い書庫に引きこもっている方が己の性分にあっている。慣れない人付き合いをするものではないのだ。
燭台片手にペラペラと歴史書を巡っていると、胸の高鳴りが止まらない。ああ、ここから永遠に出たくない。煌びやかな空間よりも、暗くてじめっとしている空間が好ましいと思う。
『娘がおるのう』
『娘がおるよ』
『見たことがない娘だ』
『ひとりでにやにやしてるよ』
ふと、歴史書を読み耽っているとどこからか声が聞こえてくる。
振り返って周囲を見渡すと、アハハハッと楽天的な笑い声をあげながら複数の影が天井に向かって消えていった。
(あれは……もしかして)
環はしばらくジッと壁を見つめていたが、再び何者かが出てくる気配はない。ただそこには暗闇が広がっているだけだ。
環の空耳ではなく、たしかに何かがいた。
姿形までを捉えられなかったが、どうにも……既視感があった。
(まあ、放っておいてもかまわないよね)
普通の女であれば恐怖で震え上がるところだろうが、環にとっては造作もない。とくに大事と考えず、何事もなかったかのように書物漁りを再開した。
それにしても九條家の図書室はまるで夢のような場所だ。江戸時代から続く由緒ある家ということもあり、年代物の書物の宝庫である。
(ん……なんだこれは)
環は燭台を持って、うっとりとした顔つきで本棚を巡った。
その最奥に気になる背表紙を見つける。
(常世と現世──……その均衡……)
なぜ注意を引かれたのかは分からない。ほぼ無意識に手が伸びてゆくが、「環さん、夕餉の支度が整いました」と女中に声をかけられたため引っ込める。
「い、今、行きます……」
あとで読もう。
束の間の一人の時間は終わりを告げてしまった。いったいなにを話しながら周と食卓を囲めばいいものか。
前途は多難だ。
「こちらは、上海チキンのバジルソース和えでございます」
「……は、はあ」
食卓は想定していたよりも豪勢だった。広間の長テーブルの端と端に周と環が座っている。
気まずい。ただでさえ気まずいのに、この距離感はさらなる沈黙を生む。屋敷の中で響くのは、シルバー類が皿に擦れる音のみだ。
おまけに環はナイフとフォークなどろくに使った試しもないため、苦戦を強いられていた。
「あ、あのう……」
環はおずおずと手を止め、向かいに座っている周に声をかける。
ただ食事をしているだけだというのに、ため息が出るほどに美々しい。
ナイフとフォークを静かに置くと、周の氷のような瞳が環に向けられた。
声をかければ目が合うのは当たり前だ。びくっと肩を震わせ、環は気になっていたことを口にする。
「ほ、ほかの席に置いてあるお皿は……いったいなんなのでしょう、か」
そわそわと視線を彷徨わせる環に無言の視線が向けられる。
周と環の席以外に、二組のお皿が置かれている。
丁寧にもナイフとフォークまで並んでいるが、この屋敷で食事をする者は二人以外にはいないはずだ。
なにか意味があるものなのか、と環は聞いてみたかった。
「ああ、それは……とくに気にせず、そのままにしていてくれると助かる」
「え?」
あまりにさらりと受け流されるのだから、環はぽかんと口を開けてしまった。
気にならないわけがないだろう。
「あ、あの……く、九條さん」
「周でいい」
「え」
つい深く追求したくなり、環は勇気を振り絞った。だが、思わぬ変化球がある。
どういうことだ?とパチパチと瞬きをせざるを得ない。
「仮にも婚約者になるというのに、名字呼びのままでは不自然だろう」
「……あ、え………あ、ああっ、な、名前、そうか、名前」
「私はとくに気にしない。あなたのことも、環と呼んでも?」
「どどどど、どうぞ、よろしくお願い、します」
照れくさいのか、恐れ多いのか、申し訳ないのか、自分でもなにがなんだか分からずに何度も頷いた。
自分を名前で呼ぶ者は、猫又のマダラと化け狐の口入れ屋だけだ。外界を遮断していた環にとって、これ以上にこそばゆいものはなかった。
「それで、すまない。なにか言いかけていたな」
「あっ、そうでした」
グラスを持ち、環は水をごくごくと飲み干す。
「聞いてしまっていいのか、分からない、のですが……」
「……」
「この家……妖やモノノケが、出ます……よね?」
いきなりこんなことを口にされても反応に困るかもしれない。
環は空気を読むのが苦手なため、そうは思っても無意識に言葉が出てきてしまうのだ。
(違わない……はず、なんだけれど)
感情が映らない無機質な瞳に環の瞳が映り込む。
「どうしてそう思った?」
周は否定も肯定もせずに、低い声色で告げる。
「そ、それは……じ、実は黙っていたの、ですが……いや、黙っていたというか、わざわざ言わなくてもいいのかなと思っていたというか……」
「……」
「こっ、こここ……このお屋敷の気配は……とても妙、です」
「妙?」
「人がつくる空間とは、違うん、です。うまく、言えないのですが、違う。それから、不吉な物音の正体は……おそらく、座敷童子だと思うのです、が」
図書室で聞こえた声と、バタバタ走り去っていく影。彼らはよく環の家に遊びにくることもあったので、さほど驚きもしなかった。
放っておけば悪さはしない。だが、妖やモノノケに理解のない者からすれば不気味だろう。
「ほう……」
「それから、あの女中さんも雰囲気が……人じゃない。このお皿も、私がこのお屋敷を尋ねた際にも、置かれて……い、いました。たぶん、このお皿自体がモノノケの類で、こっ、ここに置かれていることに、意味を見出しているのでは、ないかな……と」
だから周は気にせずそのままにしておいてほしい、と告げたのだ。
もしかすると、お皿のモノノケは自分を使って欲しいのかもしれない。そう思うと可愛らしく思えてきた。
「なるほど、これは想定外だった」
「え……あの」
「たとえば、ここに妖やモノノケが本当にいるとして、あなたは、環は──どう思う」
骨ばった細い指を顎の下で組み合わせ、周は問いかける。
環の答えは決まっていた。
「どうも、思いません。妖も、モノノケも、人も、そこにいて、当たり前では……ないでしょうか」
生まれた時から環の視界には人ならざるものが映っていた。
寂しい時に環と遊んでくれたのも彼らだった。
「怖くはないのか」
「怖い……? 何故? 彼らの行動原理を理解すれば……怖くない。それでいえば、妖よりも、人の方がよほど恐ろしい」
環が目を閉じると、脳裏にぎょろりとした四つの瞳が浮かんだ。環を排斥しようとする凶暴な瞳だ。
ゆらゆらと黒い手が伸びてくる。それはやがて環の体にまとわりつき、自由を奪っていった。
ニタニタとした笑い声。いくら声をあげても、彼らの耳には届かない。環に覆い被さるそれらを──本物の化け物だと思った。
「……あい分かった」
はっと我にかえり、環は呆然と周を見つめる。
周の月のように静かな瞳を前にすると、不思議なことに少しだけ心が落ち着く気がした。
「夜にまた、私の部屋に来なさい。問いに答えよう」
「……は、はい」
この家に住まうものが妖であろうと、環には大差ないこと。
今日も静かに──ゆっくりと、夜は更けてゆく。
*
湯浴みを終え、用意されていた夜着を身に纏った環は、周の執務室の扉の前に立ち尽くしていた。
西洋の夜着などはじめて着用したため、どうにも足元が落ち着かない。
もじもじと髪を触ると、甘く、心地の良い香りが鼻腔を掠めた。
環はよいと言ったのだが、なにやら香りの良い油をつけた櫛で女中が念入りに髪を梳いてくれたのだ。
あれはもしかすると、人の世話をやくことを生き甲斐にしている妖なのかもしれない、と環は思った。
(き、緊張する……)
コンコン、と控えめにノックをすると「入っていい」と淡白な返事がくる。
扉を開けば、執務机で書物をしている周がいた。
窓から差し込む月光が、美麗な男をより妖艶に縁取っている。
「お、お風呂……お先にいただき、ました」
ゆっくりと視線があうと、環は大きく肩を震わせて俯いた。
なにか羽織ってくるべきだったのかもしれない。
「……」
「……」
何度目かも分からない沈黙が流れる。環は俯いているが、周の冷め切った瞳は己を映しているのだろう。
そう思うと、体が強張った。
「夕餉の問いのことだが、環……あなたの見立ての通りであっている」
「……あ」
「あの女中も、妖だ。不自然な物音の正体は、座敷童子たち。あの皿どもは、あの場から離れることを好かない。この屋敷には妖ものが数多住みつき、私はそれを容認している」
ギシ、と木製の床が軋む音がする。
周が椅子から立ち上がり、環のもとへ歩み寄る。
答えは分かりきっていた。妖ものがこの屋敷に住みついていたとして、環にとっては造作もないことだ。
だが、もう一つだけ──。
「他になにか、私に聞きたいことがあるのではないか?」
環の頭上に影が落ちてくる。いつの間にか目の前に周が立っていた。
痛みのない黒い短髪がさらりと揺れる。月光に照らされた陶器のごとき素肌が、眼前に飛び込んでくる。
環はひとときの間、気恥ずかしさを忘れて男に見入ってしまった。
なんと儚く、妖艶で、美しい。
「あ、周……さん、は」
言ったら、どうなるのだろう。
「いいえ、周さん……も、人間ではない方、なのでしょう?」
さらりと環の長い髪が肩から滑り落ちる。周は何も答えず、ただジッと環を見つめていた。
「妖──。それも、かなり上位の」
正直、少しほっとしたのかもしれない。
やはり人は怖い。すべてが悪人ではないのだと理解をしていても、環は心のどこかで怯えずにはいられない。
だが、もし妖なら。
「あなたの気は、とても冷たくて、重くて、優しくて……寂しそう」
幼い頃からそばにいてくれた妖であるのなら。
瞬きをした、ほんの刹那。開いていた窓から強い風が吹き付ける。カーテンが大きく波打ち、環はとっさに目を瞑った。
「――なるほど」
再び視界が開けたとき、目の前に月のような瞳があった。さらりと視界の隅に降りてくる──長い、黒髪。
光をいっさい通さない黒色短髪は、瞬きの間に腰のあたりまで伸びていた。髪からは人外の証である角が生え、鋭くとがった犬歯が見え隠れする。
(鬼……)
これほどまでに容貌を自在に変化させられる妖は限られている。妖の中でも最上位にある鬼族となるとなおのこと合点がいった。
どおりで人間社会に溶け込めるわけだ。
『おもしろいね』
『おもしろいのう』
『周様が人前で鬼の姿になったぞ』
『われらの声も、聞こえるようだ』
環が固まっていると、周囲がざわざわと煩くなる。壁中を駆けずり回り、くすくすと笑っているのは座敷童子たちだ。
「あの口入れ屋は、一風かわった女を寄越したらしい」
「……あ、あ、あの」
「妖ものより、人が恐ろしいとは。妙なことを言う」
鬼の姿となった周はずい、と顔を寄せて見つめてくる。それも、環の顎に指を添えて。
環はなにがどうなっているのか理解できずに、ただはくはくと口を開いて硬直した。
「今だってこのような無防備な姿で。鬼の私に食われるかもしれんというのに」
「……っ」
ちらと覗く犬歯にどきりとする。周は夜着の胸元のリボンに爪をひっかけると、戯れるようにしゅるりと解いてみせた。
「わ、私を食べても、お、美味しくないと……思い、ます」
「さあ、どうだか。食ってみなければ分からんな」
「……あ、あっ、あのっ!」
慌てふためいていると、周はクスリと失笑した。
「色気はないようだが……たしかに聡い。おまけに、見識の才もある、か」
「えっ……と」
「人か、そうでないものかを見分けられるその目……かえって都合がいいかもしれないな」
するりと顎の輪郭を指の腹で撫でられる。目の前の男は冷たく、そして妖艶で、やはり人間ではない雰囲気が漂っていた。
「人も、妖も、モノノケも、そこにいて当たり前……か」
周がぽつりとひとりごちる。
「今までで一番……悪くない」
妖の中でも上位の鬼族がなぜ屋敷で一人暮らしているのか。
なぜ、そうまでして婚約者を必要としているのか。
疑問はつきなかったが、環にはもう問いただすつもりはなかった。
周は環の長い髪に指を滑らせ、そっと口付けをする。
「はっ……えっ! 今、ななな、なにを!」
「せっかくだ、少し味見をしておくのも悪くはないかもしれないと思ってな」
「そ、それだけは、ご、ごごご、ご勘弁いただきたく……!」
「……冗談だ」
かたかたと震える環を見て、とうとう周は軽く笑みを浮かべたのだった。
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