第5話

────彼の名前は、壱成いっせい

「難しい方の数字の〝壱〟に成功の〝成〟」と言っていたから、漢字は間違いないと思う。

彼が──……、壱成さんがそう言ってきたから私も答えた。


「佳乃と言います、人偏に、圭という字を書き。乃はすなわちという字を書きます」


「ありがとう」


「あの、本当にお礼なんて…」


「飯とか」


「え?」


「あんたが暇な日に、飯とか食いに行かないか?」


その返答に、私は困ってしまった。

お金が無いからとかそういうのではなくて、私はそもそも外食ができない。家以外、というよりも、お母さんが作った料理しか口にできない。


「…ごめんなさい…食事は…」


申し訳なくて、顔を下に向けた。


「…男とかいるのか?」


静かに壱成さんが呟いた。

男とか?どういう意味だろうか?

彼氏がいるか、いないかということだろうか?


「彼氏がいるからという意味ですか?そういうのではなくて…」


「門限があるなら、昼間でも」


「…ごめんなさい…」


門限とか、そういうのじゃない。

ただ〝私の身体〟に問題があるだけ。

でもそれをわざわざ言えば、壱成さんが申し訳なく思ってしまってはいけないから。


「本当にお礼はいいです。傘、ありがとうございました。失礼します」


深く頭を下げた後、私はその場を離れた。とくに引き止められたりとか、呼び止められたりとか、そういうのは無かった。

もしかすると、同じ電車に乗るから、また会えるかもしれない。そんなことが頭の中によぎった。



家に帰り、自室で学校で習った復習をしていると、お母さんが部屋の中へ来た。

そんなお母さんは「お礼、渡せた?」と聞いてきた。そう言われて思い出すのは、ピンク色が似合わない壱成さんの微笑んでいる姿だった。もう会うことがないかもしれない…。


「うん、渡せた」


「良かったわね」


「…うん」


「どんな人だったの?」


「少し見た目が怖いけど、今度は彼がお礼をしたいって言ってきてくれるぐらい優しい人…」


「彼?男の人だったの?」


その瞬間、お母さんの声のトーンが変わるのが分かった。その声は驚いている声じゃなくて、低く、あんまりよく思っていない声のトーンだった。

思わず、握っていたシャーペンの動きが止まる。


「うん、でも、もう会わないと思う…」


慌ててそう言ったけど、もう遅かったのかもしれない。勉強が疎かになるからと、お母さんはよく『彼氏を作ってはいけない』と言っていたから。


「…佳乃、分かっているとは思うけど。彼氏なんか作って困るのは佳乃だからね」


「お礼を渡しただけだよ…」


「ならいいわ。…どこかの学生?」


そう聞かれて、「お父さんぐらいの歳の人」

と私は嘘をついた。

その日の夜、お母さんが勉強している私へ自室にコーヒーを届けてくれた。

そのコーヒーを泣きそうになりながら、私は喉の奥に通した。


翌朝、新聞を読んでいるお父さんが、朝食時、コーヒーを飲んでいる私に向かって口を開いた。

「門限は今日から4時10分だからな」と。

きっとお母さんが、昨日のことを言ったらしい。

門限が、4時半から4時10分に変わった。

4時10分なんて、寄り道なんてできるはずがない。


「…うん」


「また〝アイツ〟は遊びに行ってるのか」


お父さんが、お母さんの方に顔を向ける。


「そうみたいね」


「本当に〝アイツ〟は…」


「佳乃、お弁当置いとくわよ」


「うん、ありがとうお母さん」



その日、朝も夕方も、壱成さんの姿を見ることは無かった。

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