闇夜と夜明け

まなじん

闇夜と夜明け【♂1:♀1】

所要時間 90分前後


前半は女側のセリフとモノローグしかありません。

■の部分は無音でお願いします。音響等を付けるのであれば砂嵐やノイズ音を入れてください。

終盤で化け物の名前が判明しますがネタバレ防止のため、キャスト表記は化け物のままにしてください。


登場人物

女:廃墟に魅了されて廃病院までやってきた女性。途中で化け物と出会う。年齢は24〜25歳設定

化け物:廃病院にいた謎の存在。男。実年齢は不詳。

女(M):

廃墟というのは何より魅力の塊である。あの退廃的な感覚、かつて人が往来していた場所がそのまま切り取られ、時が止まったような空間、苔むしった椅子や机の部屋の窓際からは麗らかな陽の光が照らされている。それらが一斉にフィルムの中に収まる快感。たまらない。ネットサーフィンをしていたらたまたま見つけたのが廃墟の写真だった。廃墟といえば「怖い」というのが認識だったがその一枚からはそれとは真逆の暖かさを感じた。カメラの性能や撮る人間の技術にも左右されるだろうが私は惹かれてしまった。最初はツイッターに転がっている写真を漁っていただけだった。だが、次第に自分の力でも撮ってみたいと思い始め、気づいたら三脚カメラを購入し廃墟を巡っていた。ヒトの行動力は恐ろしいものだとつくづく思う。


女:

「……よしっと。着いたー!うん、誰もいない。にしても総合病院とは…なんで何も評価がなかったんだろう…まぁいいや。レアそうでラッキーだったし!さてと、カメラカメラ〜」


女(M):

車のトランクを開け、縮めた三脚と大事にケースに入れられたカメラを取り出す。過ごしやすい季節になってきたが私の方は薄着ではなく、きちんと廃墟探索に必要な格好だ。探索は危険と隣り合わせだ。一歩間違えたら死にすら直結する。有毒な虫や植物、有刺鉄線がそこたら中にある。廃墟内部に入れば朽ちた床を踏み抜いたり散らばったガラスや錆びた釘・刃物なんかもいっぱいだ。なので分厚く丈夫な姿でないと大怪我しかねない。不法侵入を果たしているということも忘れてはいけない。心に留めておくべきだ。半端な覚悟で廃墟巡りはしない方がいい。準備をし終えた私は懐中電灯を持って中に入っていく。病院の正面玄関の扉はやはりガラスが粉々になっていて風が吹き抜けていく。


女:

「……っ!きゃっ!」


女(M):

壊れた受付の隣の壁に掲げられている院内案内図をしっかり眺める。とりあえずは外来を中心に探索しようとしたら、浮かれていて足元をよく見ていなかったのか段差があるのに気付かず転んだ。それだけならまだマシだが位置が悪かったらしく、大きなガラス片で太ももを切ってしまった。


女:

「いったぁ…!」


女(M):

丈夫なズボンが一部裂かれて、その隙間から血が流れている。生憎救急セットは車の中だ。感染症を防ぐためにも急いで踵を返そうとするが痛みで立ち上がれない。焦っていると、獣の唸り声が聞こえた。狼?しかも…1匹じゃない。


女:

「おっとこれはもしかしなくても大ピンチな感じですかね〜…アハハ…」


女(M):

恐怖を和らげるためにふざけた口調で言ってみるが笑ってる場合じゃない。とにかく避難しなければと、逃げようとしたら背中が壁に当たって、あっという間に狼に囲まれた。四方八方から唸り声が聞こえる。廃墟巡りをしていたツケがここで回ってきてしまった。せめて痛みもなく即死したい。そしてお前達の栄養になってくれよ…と死の覚悟を決め、私はため息を吐いた。それを合図に狼達は一斉に私に襲いかかってきた。


女:

「…っ!」


女(M):

やってくる激痛に歯を食いしばって耐えようとした。が…いつまで経ってもなんの痛みも感じない。静かだ。ギュッと瞑っていた目を恐る恐る開ける。そこには信じられない光景が広がっていた。


女(M):

壁に追い詰められた私の目の前に、大柄な男がいた。男は私に覆い被さるようにして身体を丸め狼から守っていた。ここから見える太ももや腕にはしっかり狼が噛み付いていて血を流している。きっと背中も傷だらけになっているだろう。そして男は自分に食らいついている狼の一匹の頭を掴むと軽々と身体から引っペがしてそのまま握り潰した。辺りに鉄臭さが充満する。声を上げる暇もなく絶命した狼の頭蓋が「バキィッ!」と砕ける音と噴出する血液というグロい場面に遭遇して思わず小さな悲鳴が出た私に構わず、男は残らず丁寧に殺していき遂に一匹もいなくなった。獣がいなくなり男は今度は私に目を向けた。だが攻撃はしてこなかった。


女:

「あ……助けて、くれたんですか?」


女(M):

男は特に頷くことはなく、かと言って首を横にも振らず、ただじっと私を見つめていた。無機質で、何を考えているのか分からない冷たい表情。


女(M):

男の身長は2メートルほどもある。月明かりに照らされた顔は整っており。特徴のある目をしていた。瞳孔が爬虫類のように縦にすぼまっていて金色だ。佇まいと相まってこの男が少なくとも普通の人間ではないことが、分かる。


化け物:

「…………」


女(M):

男は私に向かって腕を伸ばしてきた。もしかしたら首を絞められるかも、と考え静かに口の中で歯を食いしばった。だが、その心配は杞憂に終わり、男は私を横抱きにした。訳が分からず内心パニックになっている私を抱えたまま、男は病院の中を歩き始める。その足取りに迷いはない。


女:

「あの……どこに、行くんですか?」


化け物:

「……」


女(M):

やはり返答はない。やがて処置室とプレートが掲げられたその部屋に入り、男はベッドに私を下ろし座らせると、またどこかへ去ってしまった。しばらく待っていると彼が戻ってきた。その手には色褪せた救急箱と水が入ったバケツ。どうやら手当してくれるようだった。恥ずかしいけど、彼が手当しやすいようにズボンを脱いで足を差し出す。


女(M):

まずは流水で優しく洗い流し余計な砂やガラスの欠片などを落とす。それからは地獄の消毒タイムだ。救急箱を開けた時に思ったがきちんと蓋を閉じて保管されていたのかほとんど埃が被っておらず綺麗なままだった。ピンセットで綿をひとつまみ取り出し消毒液を適量付ける。そして傷口に沿ってポンポンと当てながら消毒していくのだがいくつになってもこれは嫌いだ。


女:

「い゛っ……〜〜っ!」


(消毒の痛みに悶絶する。数秒後、息も絶え絶えになる)


女:

「(最初は小声で)ぁ、ズボン回収されちゃった…ナースパンツかな、これ……手当してくださり、ありがとうございます!…っ!そういえば!噛まれた傷、大丈夫ですか!?」


女(M)

彼もあちらこちらを狼に噛み付かれていたのを思い出し、心配の声を上げる。相変わらず無言を貫いていた男は振り返り、しかし「平気だ」と言っているかのような眼差しをしていた。諦めて黙って彼を見つめる。


女(M)

にしても、妙に手際が良かった。普通は素人ならば何をすればいいのか迷うだろう。なのに彼の手の動きに無駄が一切なく、慣れている手つきだった。かといって雑ではない。むしろ丁寧で、それこそベテランのように。いや、それを知ったところでどうする。代わりに彼が何なのかを頭の片隅で考える。明らかに普通の人間とは違う。この身長、あの瞳、表情、そして怪力……


女:

「(妖怪…?にしては要素があまりはっきりしていないし少ない…かといって怪異?亡霊?うーん…)」


女(M):

ああでもないこうでもないと脳内会議をした挙句、出た答えが「化け物」だった。だって、そうとしか形容しがたいんだもの。他の呼び方が思いつかなかった。彼に対しては失礼だけど、私は勝手に自分の中で彼のことを「化け物」と呼ぶことにした。


女(M):

草木も眠る丑三つ時。自分以外の存在と出会えて、その上怪我の手当もしてもらって、私は思いのほか安心していた。そのうちうつらうつらと船を漕ぎ始め、ついにベッドに横たわって眠ってしまった。

(数秒の間。場面は転換している)


女(M):

次に私が目を覚ましたのは…分からない。あの廃墟と化していた病院にそっくりである。というか、同じだ。違うのは、そこがひとつも廃れていないという点だった。病院の壁は白く、窓ガラスが割れておらず、人が行き交い、活気溢れている。廃墟になる前の全盛期の姿だろうか。あたりを見回せば、看護師と楽しそうに会話をしている患者がいたり、院内を散歩している人もいれば、芝生に座って軽食をとっている医師もいる。


女(M):

夢にしてはあまりにもリアル過ぎる感覚の中で、ベンチに寝そべっていた私は、とりあえず情報収集しようと院内を回って散策をしてみることにした。立ち上がり出入り口に向かおうと身体を捻ったら誰かが歩いてきていたらしくぶつかってしまった。


女:

「うぁっ!」


化け物:

「うぉっ!」


女:

「ごっ、ごめんなさい!」


(バサバサと紙が落ちる音。相手の顔を見る暇もなく散らばった書類を拾い集めようとしゃがみ込む)


化け物:

「ふぅ…助かりました。ありがとう!」


「……え?」


化け物:

「ん?どうしたの?」


女:

「ば、化け物さん…?」


女(M):

目の前にいる男が信じられなかった。その人は先ほどまで私に手当をしてくれた化け物に瓜二つだったからだ。ただ彼もまたこの病院と同じように違う。2メートルほどあった長身は今は190センチ程度に収まっている。目の色も同様で金色に光っていた瞳は焦げ茶色に変わっている。


化け物:

「こら。人を化け物呼ばわりするとは酷いなぁ。まぁ確かにこの身長だから時々周りにびっくりされるけど…」


女:

「あ、ごめんなさい!怪我はありませんでしたか!?」


化け物:

「平気だよ。君の方は?」


女:

「大丈夫です!」


化け物:

「なら良かった」


女:

「(この人も、表情豊かだ…)」


化け物:

「実はこれ、資料室に戻してこようと思ってたんだ。院内からも行けるんだけどこっちの方が近いと思って横着して近道したら君とぶつかっちゃった」


女:

「すみません。私が周りを見てなかったせいで…」


化け物:

「いや、俺も余所見してたからお互いさまだよ。そうだ。ここで少し話していかない?」


女:

「え?いいんですか?」


化け物:

「いいよ。今昼休みだし。それに、ちょっと聞きたいこともあるしね」


(2人、ベンチに座る)


女:

「…で、えっと、聞きたいことって…」


化け物:

「うん。さっきの呼び方。「化け物」って言ってたろう?あれは、どういうことなのかなって思って」


女:

「初対面なのに失礼でしたよね…本当にごめんなさい」


化け物:

「全然怒ってないよ。むしろ興味が湧いた。こうやってすぐ謝ってくれたし様子を見てると、冷やかしやイタズラじゃなさそうだったから」


女(M):

なんだろうこの人。めっちゃ優しいぞ。普通はもう少し怒ったり不機嫌になったりするものじゃないだろうか。不思議だ。とりあえず彼の機嫌を損ねないうちに素直に打ち明けた。


女:

「実は…信じられないかもしれませんが、私、この病院が廃墟になったのを知っているんです」


化け物:

「なるほど」


女:

「それが病院の未来の姿なのか、私の妄想なのか、分からないですけど」


化け物:

「あるいはパラレルワールド、とか?」


女:

「え゛」


化け物:

「いやぁ、俺そういうの好きなんだよね。都市伝説とか七不思議とか」


女:

「信じてくださるんですか?」


化け物:

「話の続きが気になるだけだよ」


女:

「(咳払い)…続けます。廃墟巡りが趣味だったんですよ、私。色んな廃墟に行って色んな美しい写真を撮る…それでその廃病院を見つけたんです。例の如く中に入って写真を撮ろうとしたんですけど、転んで怪我しちゃって…それで狼に襲われそうになっている状況になり…でも私は襲われなかった。ある異質な存在と出会って、彼に助けられたから」


化け物:

「うん」


女:

「…貴方でした。もしかしたら貴方の空似だった誰かかもしれませんが、私には貴方のように見えました」


化け物:

「……」


女:

「そっくりとは言っても所々違います」


女(M):

そう言って私は先ほど感じた2人の違う点を伝えた。


化け物:

「そうか…」


女:

「…あれ?」


女(M):

ポケットのあたりからカサ…と音が聞こえた。取り出してみると、それは写真だった。……なんだ、これ。それは私と彼もとい化け物が並んで写っているものだった。こんなの、撮影した記憶がない。一体、誰が撮ったというんだ。気味が悪い。これも夢という状況が影響しているのだろうか?震え上がりながらも手の中の写真を彼に見せる。彼は私と一緒にしげしげと見つめながら言う。


女:

「…あの、言葉ではよく分からないと思うので見てもらった方が早いと思います」


化け物:

「…うん。どこからどう見ても俺だなこれ…君が言ってくれた特徴とも一致している。君も写ってるしこれは動かぬ証拠とも言える。でも…なんかコイツ不気味だな。顔死んでないか?」


女:

「最初からずっと無表情でした。喋りもしないし…だから、その不気味な様子のままに私は彼を「化け物」と自分の中で呼んでいたんです」


化け物:

「なるほどな……だから俺のことを化け物って言ったのか」


女:

「自分で言っててなんですけど失礼な話ですよね。でも他の呼び方も思い浮かばなくて」


化け物:

「いや、的を得てるんじゃないかな。俺もコイツに遭遇したら多分そう名付けると思う。ところで、君はコイツとどういう関係なんだ?」


女:

「…まだ分かりません。この写真だって私が撮った覚えがありませんし。でも、私を助けてくれた。その事実からも危害を加えてこない、という可能性は十分に考えられます」


化け物:

「ふぅん……まあ、害はないみたいだし大丈夫そうだな。ならいいよ」


女:

「ありがとうございます……」


化け物:

「どうかした?」


女:

「いえ、こんな簡単に信じてくれるなんて思わなくて」


化け物:

「信じるよ。だって君は嘘をついてない。妙な説得力を感じるんだ……そろそろ昼休み終わっちゃうから俺は行くね。また会えるといいな」


女:

「っ待ってください!最後に貴方の名前を聞きたいんです」


女(M):

すると彼は笑って答えた。俺の名前は⎯⎯⎯⎯

(場面転換。現実へ戻ってきた)


女:

「(目が、覚めた…やっぱり、夢だったのか…)」


女(M):

変な夢を見たものだ。それにしてもリアルだったなぁ。夢は目覚めた数秒後にはもう忘れていると言うが鮮明に覚えている。こちらの彼は相変わらず表情がないままだ。安心すると同時に一抹の寂しさを覚えた。夢の中の彼は笑顔を見せてよく喋ったものだから。手を伸ばして頬を撫でるとすり…と擦り寄ってきた。その仕草が猫みたいで、思わずときめいてしまった。


女:

「……あのね、貴方に会った夢を見ました。夢での貴方はとっても表情豊かで、とってもお喋りで、とっても優しかったです」


化け物:

「……?」


女:

「なんて、返事もないか…私の願望だったのかな」


女(M):

そういえば、あの人の名前、結局分からなかったなぁ。直前で意識が途切れたから。気になるな。…いいや。夢は夢、だ。それ以上でもそれ以下でもない。


女(M):

それから私達は夜の散歩へと出かけた。病院の周りをぶらぶらと歩く。私達以外に生物は居らず、ただ風の音だけが響く中を私と彼は歩いていた。雲一つない空に無数のお星様が見える。プラネタリウムの中にいるみたいだ。その隣には満月。確か今夜はスーパームーンとか言って月が一番大きく見える日だとか。

女(M):

夢を、見る。またあの夢だった。しかし場所が変わっている。今度は外来の廊下の真ん中に立っていた。ガヤガヤと様々な人たちが行き交う様子をまた私はぼーっと突っ立って眺める。気まぐれに少し歩くと、色んな科が並んでいる。小児科、整形外科、脳外科、内科、泌尿器科…奥の方にはMRIとCT室に繋がる道がある。そして、また背後に気配がした。ばっと振り返ると化け物さんが同僚であろう看護師と話しながら歩いていた。病棟が忙しいだの師長が怖いだのと、よくある愚痴を言い合いながらも仲良さげな二人を見て、何だか心が温まるような心地を覚えた。だが、そんな私の心境は次の一言で一変することになる。


女(M):

「はいはい。ほんと働き者だよな、◼️◼️って」と、同僚が言った。…え?今一瞬、ノイズのようなものが聞こえたような気がした。気のせいだろうか…


女(M):

彼らはそのまま曲がり角に消えていった。なぜか、追わなければいけない気がする。そんな謎の使命感に突き動かされ、彼の後をこっそりと追いかけようと走り出したが、もう見失っていた。私は、道行く人達に彼を見なかったか聞いていくことにした。まずは目の前を通った白衣の男性に、彼の特徴を混じえて説明する。「190センチくらいの、男性の看護師を見ませんでしたか?」と。そしてこういう答えが返ってきた。「ああ!もしかして◼️◼️さんのことですか?」


女(M):

再度、自分の耳を疑った。だがもう一度聞いたところで変な奴だと思われるのが関の山だ。それ以上の有力な情報は得られず、お礼をしてまた道行く人に声をかけた。


女:

「あの、すみません。190センチほどの背の高い男性看護師さんを見ませんでした?」


女(M):

今度は大量のファイルを抱えて歩いていた女性看護師は驚いたように目を丸くしてこちらを見た。「見ていませんが…◼️◼️さんがどうかなさったんですか?」と返ってきた。


女(M):

…やっぱりそうだ。雑音が混ざっている。それだけ聞き遂げるとありがとうございましたと頭を下げ、とっとと次へ行く。次は廊下を車椅子で移動している患者さんに話しかけた。やはり「その人なら私の担当だよ。さっきまで話しとった。けどどこ行ったんだろうね」と返ってきた。目についた人間に片っ端から質問していく。だが。

「◼️◼️さん?見てないねぇ」

ここも。

「◼️◼️なら私と同期です。ですが最近は顔を合わせていなくて」

ここも。

「君は誰なんだい?◼️◼️の知り合いか家族か?」

ここも。


女(M):

皆答えてくれるけど彼の名前の部分だけ、接続の悪いイヤホンのようにぶつ切りのノイズが走るのだ。彼に限らず誰の名前でもそうなのか、とついでに聞いて回ったが他の人間の名前は普通に聞こえた。彼の名前『だけ』がノイズに邪魔される。


女(M):

明らかにおかしい。その正体がなんなのか分からないまま、私は途方に暮れていた。とりあえず落ち着こうと思い、ロビーのソファーに腰掛けて休憩することにした。ふと窓の外を見れば、夕焼けが広がっている。空は青とオレンジの淡いグラデーションに染まり始め、雲には太陽の光がピンク色に反射している。


女(M):

綺麗だ…と思いながら顔の向きを窓から正面に戻した時、視界の端に見覚えのある長身と黒髪が映った。ここまで探して見つからなかったんだから人違いだろう、と思いつつ振り返ってみると、そこに彼の後ろ姿があった。今度こそ逃がしてなるものかと、私は走り出し、彼の腕を掴んで叫んだ。


「待ってください!」


女(M):

振り向いた彼は、先ほどの化け物さんであった。綺麗な二重瞼に縁取られた瞳がこちらを捉える。息を切らす私を見て、不思議そうな顔をしていた。


化け物:

「君、は…」


「えへ…覚えてませんよね…」


女(M)

覚えてるはずがない。何しろあれはこことは別の夢なのだから。だが、彼は首を振った。


化け物:

「いいや、覚えているとも。あの時中庭で俺とぶつかった女の子、だよね?」


女:

「ぇ……は、はい!そうです!」


化け物:

「その様子だと俺を探していたのかな?」


女:

「はい…実はまだ聞いていないことがありました。名前、です。あの時私が言ったのを覚えていますか?『最後に貴方の名前を聞きたいんです』と」


化け物:

「もちろん」


女:

「あの後急に意識が途切れて…結局聞きそびれちゃったんです」


化け物:

「なるほど……じゃあもう一度、自己紹介をしようか」


女(M):

そう言うと彼は改めまして、といった態度で背筋を伸ばし、姿勢を正す。そしてこちらを見据えるとにこりと笑って名乗った。


化け物:

「俺の名前は◼️◼️◼️◼️。この病院に勤めている看護師です」


女(M):

本人ですらも、駄目なのか。目の前が真っ暗になる感覚を覚えた。


化け物:

「……おーい、おーい。どうした?」


女:

「……っ、いえ」


化け物:

「何か悩みがあるなら、俺で良ければ聞くよ?」


女:

「………なかなか信じられないかと思います。それでもいいですか?」


化け物:

「うん」


女:

「…貴方の名前が、分からないんです…」


化け物:

「え?」


女:

「気分が良くないかもしれませんが、ここに来て貴方を探していた間、色んな人から貴方の目撃情報を聞き出しました。ですが、どの人も、貴方の名前を口にしようとしてもノイズがかかって聞こえなかったんです」


化け物:

「それはまた奇妙な…ノイズというのはどういう感じ?テレビの砂嵐みたいなやつ?」


女:

「そう!それです。ザザッ…ザッ…って感じです」


化け物:

「ちなみにだけど、それは他の人達も一緒?」


女:

「いいえ。試しに情報を提供してくれた人数人に聞いてみたんですが、彼らの分はきちんと耳に入りました。貴方の名前だけが遮られてしまうんです」


化け物:

「…………」


女:

「もう一度、ゆっくり自分の名前を言ってみてください。苗字でもフルネームでもいいです」


化け物:

「う、うん…◼️…」


女:

「ストップ。無理でした」


女(M):

頭文字を口にした瞬間から勝敗が確定した。どうやら、どういう言い方だろうが名前を伝えようとした時点で認識から弾き出されるらしい。彼は「確かに妙だね」と言いながら腕を組んで俯きながら思案している。どうしよう、と見つめていたら、スクラブのポケットにキラリと光った名札が目に入った。


女:

「あ、名札!」


化け物:

「名札?…ああ、なるほど!確かに名札であれば音にはならないからそのノイズっていうのも防げるな」


女:

「貸してください!……ぇ」


化け物:

「どうしたの?」


女:

「……駄目…」


化け物:

「なんだって?」


女:

「(震え声で)名前の部分が丸ごと黒塗りされています…」


男:

「ちょっと、見せてごらん……俺の目にはきちんと俺の名前が書かれているように映っているんだが」


女:

「嘘…!もう一度見せてください」


女(M):

再び彼から名札を受け取る。裏返したり逆向きにしてみたり陽に翳して透かしてみたりするが、何度見てもそこにあるのはマジックで塗り潰したような闇だけだった。


女:

「私にだけ、見えない…?」


女(M):

もうここまで来たら意図的としか思えない。でも、だとしたら誰が何のために…?


「すみません。変なことを聞いてしまって……さっきの話はなかったことにしていただいて結構です」


化け物:

「待ってくれ」


女(M):

全ては私の妄想かもしれない。諦めて立ち去ろうとする私の背に声がかけられる。振り返ると、真剣な眼差しをした彼と目が合った。


化け物:

「君はなんでそこまで俺にこだわる?」


女(M):

それはそうだ。いきなり現れた他人にも等しい人間が自分のことを気にかけているなんて言われても気持ち悪いだけだ。だが、私だって理由が欲しい。彼のことを知りたいのは本心なのだ。


女:

「はは、そうですよね。なんでこんなに貴方に固執しているのか自分でも分からないんですよね。ただ…」


化け物:

「ただ?」


女:

「…きちんと呼びたい。偶然出会っただけだった化け物の名前を。二人称とか仮ではなく、貴方という人間の本当の名前を呼んであげたいんです。これってワガママですかね?」


化け物:

「(呆れたように微笑みながら)そんな小さな理由で?物好きにも程があるだろ。…いいよ。分かった。君が納得するまで付き合うよ」


女:

「ありがとうございます!あ、じゃあ早速なんですけど。はい、どうぞ、握手しましょう」


化け物:

「えっ」


女:

「名前を呼べるようになるまで頑張りましょー!おー!」


化け物:

「……お、おー!」


(2人とも笑い合う)


女(M):

ぎこちないながらも握り返してくれた大きな手に嬉しくなって、思わず頬が緩む。その様子を見て、彼はおかしそうに笑い出した。私もつられて笑う。夕陽に照らされ、オレンジに染まったロビーに私達2人の影が伸びていた。

(場面が転換する。現実に戻る)


女(M):

私はゆっくりと瞼を開いた。今回は随分と長い夢だった。窓の外を見ればまだ薄暗い。朝の5時ぐらいかな、とぼんやり思う。化け物はいなくなっており代わりに毛布が掛けられていた。体温が残っているそれを畳みソファの背に掛けると、気まぐれに院内散歩に出ることにした。この病院はかなり広い。病棟の長い廊下を歩きながら一つ一つ病室に目をやるが、特に面白そうなものはない。


女:

「廃病院だからポルターガイストや心霊現象も起こるかと思ったけどそんなことはないな……っと、ナースステーションか。……っ!そうだ。彼がこの病院の看護師なら!」


女(M):

私は受付内部に立ち入り、見ていくことにした。まずは奥にある鉄製のキャビネットだ。ガラスは割れていないものの錆が酷く開けるのに苦労した。棚の中には大量のファイル達が並んでおり、分厚いそれを数冊手に取って近場にあったデスクに広げた。だがそこには入院していた患者の情報しかなく、ハズレ。元の場所に戻し、また別の場所から書類を取り出した。それは単なる病院全体のお知らせだった。医療費が上がるだの、この病院の軌跡だの。


女(M):

いや、まだ諦めるには早い。この階が駄目なら他がある。ナースステーションはここだけではない。そうして全ての階に足を運び片っ端から探索していったが、結果的に収穫なし。何かしらのヒントはあるだろうと思っていたのに、結局はただの骨折り損となってしまった。深い溜息を吐いて、仕方なく退散しようとしたその時。視界の隅に何かが映った。


女:

「アルバム…?なんでこんなところに…」


女(M):

疑問に思い、山積みになっていたカルテや書類の中から引っ張り出した。埃と砂にまみれたそれを払いぺらりと捲る。入院患者はみんな笑顔で楽しげに写っていた。それを微笑みながら見守り、一緒に笑い合うドクターや看護師達。レクリエーションか何かだろうか、みんなでスポーツをしている写真や、食堂でご飯を食べこちらに向かって笑顔でピースをしている写真もあった。私はペラリ、ペラリとゆっくり一枚ずつめくっていく。そして、あるページを開いた時にそこに挟まっていたのか一枚の写真があった。


女:

「あっ…え?」


女(M):

どこを見ても名前すら記されていなかったはずの人物が、いた。全員男性でナース服を着ている集合写真だった。これは恐らく、看護師国家試験に合格した際の記念の一枚…だろうか?大輪の花が咲いているその中の端っこに、緩やかな優しい笑みを浮かべ隣の男と肩を組んでピースサインをしている青年。やっぱり…


女(M):

目を凝らしていると、不意に上から手が伸びてきて取り上げられた。振り返ればどこに行っていたのか分からない化け物がいた。


女:

「あ、あの、それ」


女(M):

彼は私に目もくれず、じっとその写真を眺めていた。自分が写っている写真を。あれは明らかに夢で見た彼の笑顔にそっくりだった。ということは彼は夢の中だけの幻想ではなく実在していた、ということだ。


化け物:

「…………」


女(M):

何も言わない。表情が変わらないから何を考えているのか分からなかった。やがて彼は写真を返してくれた。破り捨てられるかと思ったから意外だった。それから無言のまま、その足はまたどこかへと行こうとする。聞かなければ。私は彼の腕を掴んで引き止めた。


女:

「あれは、あの一番端にいた看護師は、貴方なんですか?」


女(M):

ゆっくりとこちらを振り向く顔は、相変わらずの無表情だ。でも少し、ほんの一瞬だけ、瞳が揺れ動いた気がした。しかし彼は口を開こうとはせず、そのまま行ってしまう。追いかけようとしたが足は動かなかった。


女(M):

今更真実を知ったところで何になると言うのだ。彼が本当に看護師で、私がずっと会いたかった人だったとしてももう意味がないじゃないか。だって「彼」はもういないんだから。それにしても、どうしてあんな姿になったんだろうか……どちらにせよ、謎が謎を呼ぶ展開になってきた。

女(M):

それから日を重ねる度に、私はこの病院がまだ機能していた頃の夢に放り出され続けることになった。他の夢を見ることはなく、必ずどこかで接点がある。彼が出てきたり、会わずに終わったりすることもあった。不可解すぎるが、私にとってはそれが重要な任務になりかけているのは否めない。逃げ出すこともできた。化け物なんか置いて帰って、もとの日常に戻ることだってできたはず。それでも私は役割を放棄しなかった。そんな無責任なこと、したくなかったから。そしてある日のこと。私は自らの身体に変化が起きていることに気付いた。文字通り夢中になっていたから気付くのに時間を要した。


女(M):

─────何も食べなくても動けている。


女(M):

夜になったら眠くなるから睡眠は必要だと思うが、夢の中で化け物と出会ったあの日を境に、空腹を感じなくなっていた。かといって私が痩せ細っていっているわけじゃない。肌は相変わらず白を保っているし、風呂に入らなくても不潔にもなっていない。身体の時間が止まったかのように何も変わっていない。


女(M):

怖い。怖い。怖い。


女(M):

自分が人間という枠組みから外れていっている気がしてならない。いや、もうとっくに人間では、な…い?このまま非科学的な存在に成り果てるというのか。魔性のものに。やめて。やめてくれ。私はまだ人間でいたい。人でなしになんかなりたくない。原因が分からない。いや、一つだけ可能性はある。


女(M):

化け物に接触し続けているからではないか。


女(M):

でもそれは、彼を否定することになる。彼の過去と正体を証明したいはずなのに、それをしてしまったら、心までも人ではなくなる。それはもっと嫌だ。私はまだ完全に人間を捨て去ってしまいたいわけじゃない。でも、もう手遅れなの……?

(場面転換。夢の中。ベンチに彼と一緒に座っている)


化け物:

「俺がコレになった理由か…」


女:

「何か思い出しませんか…?」


化け物:

「…いや、思い当たることはないな。というか、それが分かっていたとしたらそもそも君がこんなに必死になる必要はないだろ」


女:

「は、はは…そうですよね…」


化け物:

「記憶がない、というよりもまだ何も起こってない可能性だってある」


女:

「何も起こってない?」


化け物:

「ああ。この写っている俺がこんなに表情を無くすのは、身の回りで狂う原因になった出来事があるかもしれない、というのが俺の見解だ」


女:

「やっぱり、貴方が経験してきた過去ではなく、この夢の先の未来が絡んでくるんでしょうか」


化け物:

「どうだかねえ…ん、もうすぐ昼休み終わるから、俺仕事に戻るね」


(パンを食べ終えた彼は口の端に付いたソースを親指で拭いながら、立ち上がる)


女:

「今回も一緒に考えてくれてありがとうございました」


化け物:

「ううん。君が真実に辿り着けるのを願ってる。俺も俺でできる範囲のことはする。お互いさまだよ」

(場面が転換する。現実)


女:

「さて、今日も証拠探しに回らなくちゃ。あの人の言葉を信じるのであれば、この病院には曰くや事件があるはず。デイルームってどこにあったっけ……ここか。えっと……あった。雑誌。これかな……(ほんの長めの間)え…」


女(M):

手近にあった週刊誌を手に取り、適当なページを開いてみれば、そこにはこう書いてあった。


『○○病院で大規模火災 原因は』


女(M):

目を見張った。白黒写真に写った建物の一部が、焼け爛れたように崩れている箇所があった。心臓がドクリと跳ねる。まだ詳細を読んでいないのに直感がそれは危険だと告げていた。これは決して無視してはいけないものだ、と。私は震える手で写真の下に並んでいる文章に目を通した。


女:

「……火災が起こった当院では、患者や医師など合わせて30名の死亡が確認された。建物の老朽化が絡んでおり、配線のショートによる出火だと思われ、今後の詳しい原因究明のため警察による捜査が進められている。なお、この火災では身元不明の焼死体も発見されており、調査が進められている……30名の死亡…しかもこれ、20年前の記事だ」


女(M):

私に物心がつき始めた頃の事件だ。この火事があった病院、ここにそっくりだ。病院名を指でなぞる。入り口にこの病院の名前が書かれていたが、丁度看板が朽ちており、肝心の部分を読むことができなかった。記事の方も丸で隠されている。でも、県名と市内名を合わせると、ここしかありえない。もしかしたら…当時、彼もここに…


女(M)

戦慄していたらまた上から手が伸びてきてひょいと取り上げられた。化け物だった。なんでまたいいタイミングでやってくるのだろう。やっぱり関係しているのだろうか。私の気持ちなどつゆ知らず、彼はパラパラと雑誌をめくると興味を失くしたのかまた私に返された。その途端、頭を鈍器で殴られたような感触がした。実際には何も起こっていないけど、そのような感覚だった。そして私はその場で気を失った。

(夢の中に場面転換。女は病院のベッドの上にいる)


化け物:

「ねぇ、聞いてくれるかい?俺に気になる子ができたんだ……というよりも、向こうから俺に想いを寄せてきた感じかな」


女:

「…?告白したわけじゃないんですか?」


化け物

「告白された。でも俺は返事を濁した。それは偽物の感情であるかもしれないと思ってね」


「どういう」


化け物:

「陽性転移(ようせいてんい)という言葉は知ってるかな?医療用語の一つで、患者が病気になった時に医師に対して抱きがちな感情のことだ。俺があの子に対して向けているのは看護師として当然持ち合わせているものでしかない。でも、信頼や好意を自分にだけ向けられた特別なものと解釈して、その好きをあの子は俺に向けてくる。恋愛感情としてね。医療従事者にとって患者からそのように思われるのは本当によくあることなんだ。でも、俺はそれを受け入れられない。まだ受け入れてはいけない」


女:

「なんで…」


化け物:

「あの子の人生を壊しかねないから。いずれ退院して去っていくあの子にとって、その想いを受け入れるということはあの子を縛り付けることになる。たとえ本物であれ、偽りであったとしても」


女:

「でも、それは……きっと……」


化け物:

「うん。ただの俺のエゴだ。その好意が陽性転移である可能性のことは本人にも説明した。でも、あの子は俺への想いを決して諦めないだろう」


女(M):

「頑固だからね」と、眉を下げて彼は言う。私も困ったように笑みを返した。夢と現実を行き来して彼に何があったのか、この病院の真相はなんなのか、探り続けている。まるでパズルのようだ。あちこちに散りばめられた断片達。


女:

「そういえばなんですけど、今日って何年の何月何日なんですか」


化け物:

「なんだい、藪から棒に」


女:

「現実での貴方が何者なのかを特定するのに必要なんです。私自身もこの病院の夢を見続けているけれども、こう何度もあると曜日感覚が変になるというか、境目が分からなくなるというか」


女(M)

これは嘘であり、本当でもある。そうだ。ここで大きな火事があったのなら、今彼と夢の中で過ごしている時期はいつなのだろうと。でも、多分私が見た記事はこれから起こる未来に違いない。だとしたら過去だからこそ重要な証拠を掴めるかもしれない。


化け物:

「まぁ教えてもいいけど。2000年の10月だよ」


女:

「…っ!」


化け物:

「どうした?」


女(M)

あの火事があった年と、一致している。一気に冷や汗が出てくるのを感じた。ガタガタと手が震える。それから突然周りが暗くなった。いや、黒くなったというべきか。ベッドの感触がなくなり、私は叫ぶ暇もなく、逆さまになって奈落の中に落ちていく。

(場面転換。デイルームにて女は倒れている)


女:

「う、うう……くらくらする。デイルームの床……倒れてたんだ。彼はいない…雑誌も…なくなっている。なんで……っ、とにかく、急がないと!」


女(M):

得体の知れない焦燥感に駆られる。どれでもいい、なんでもいい、早く手がかりを集めないといけない…!意のままに床を蹴った私は、関係しそうでもそうじゃなかったとしても手当り次第の場所を探していく。ナースステーション、総合受付、倉庫、医局、手術室、診察室、階段、トイレなど。いくら探しても空振りする。部屋には何もない。あの写真と雑誌以来どこにも手がかりが見当たらない。


女:

「なんで……なんで見つからないの……!?」


女(M):

広大な院内を一人で駆け回るのはそれなりの体力を消耗する。息が切れてきた頃、二階の廊下を走っていた私は目に付いた病室に入って休むことにした。窓際にあるベッドに腰を下ろす。窓から見える景色は、夕焼けに染まっていた。もうこんな時間か……早くしないと。でも、もう体力が限界だ。少し休まないと動けそうにない。


女:

「はぁっ……ここも、一応探してみよう」


女(M):

入口の手前から順に調べる。何もない。何も見つからない。丸められた布団の中やベッドの下、横に備え付けられている棚テーブルの引き出しをひとつずつ見ていく。ハズレか…と思ったその時、最後の引き出しの中に、あるものを発見した。


女:

「これは、手紙?」


女(M):

色褪せた水色の封筒に入っていた便箋には、可愛らしい文字でこう書いてあった。


女:

「■■さんへ。■■さんのおかげでわたしはいつもげんきです。ひとりぼっちでさみしいときはずっといっしょにいてくれて、うれしかった。なかにわでいっしょにあそんだのも、いっしょにおりがみとかおえかきとかしてくれたのも、ぜんぶうれしかった。びょうきでくるしいときもたすけてくれた。■■さんのこと、だいすきです。しんぞうのあたりがきゅーってしてどきどきするの。こういうの、こい、っていうんでしょ?ママたちがいってたから、おぼえてる。わたし、しょうらいは■■さんのおよめさんになる。……これ、もしかして「あの子」なんじゃ…それにまた名前だけ黒塗りになってる…」


女(M):

明らかに看護師だった彼へ向けられたものであることは、もう決定されたも同然だった。紙を強く握りしめる。彼の言っていた想いが報われないということが、可哀想で仕方がない。何も悪いことはしてないのに。でも、それも仕方のないこと。彼と少女の年齢差や立場の違いを考えれば、必然。私はこれは重要なものだと定義して、自らのカバンに入れた。無くならないように祈りながら。


女(M):

その夜。彼の身体にも変化が起こり始めた。病院の屋上で、2人で涼やかな風を受けていた。相も変わらず空は満天だ。鈴虫が音を上げる。遮るものがなにもない分、明るい月夜の下で物思いに耽っていたら。


化け物:

「……きれ、い」


女:

「…え?」


化け物:

「…あか…るい。ひろい……」


女:

「もしかして貴方、喋れるんですか!?」


化け物:

「…?しゃべる?」


女(M):

嘘だと思う。だって、彼は今の今までずっと無口だったはずなのに。なんで、今頃になって。化け物の声は、夢の中の彼よりもトーンが低かった。心地のいい響きで耳にするりと入ってくる。戸惑うしかなかった。あの記事を見てからこんなにも身の回りで急展開が起きている。錆びていた歯車が油分によって滑らかに動き出すように一気に物事が動いている。チャンスだ。この機会を逃せば今後の探索が困難なものになるに違いない。私は彼にいくつか質問した。


女:

「貴方は、この病院に関係している人物ですか?」


化け物:

「…?」


女:

「えっと……昔、この建物にいた人ですか?」


化け物:

「……いた」


女:

「ここが、病院と呼ばれる所なのは知ってますか?」


化け物:

「…うん」


女:

「病院は、何をする所か、分かりますか?」


化け物:

「…けが、とか、びょうきとか、なおす……」


女:

「そうです。あと最後に」


化け物:

「?」


女:

「自分の名前、言えますか?」


化け物:

「──────」


女(M):

ノイズしか、聞こえなかった。

女(M):

それからも、私はこの病院の夢を見ていた。けれど、いつの間にか干渉できなくなっていた。院内で彼を見かけたとしても、スルーされるし、声をかけても何の反応もない。腕を掴もうにもすり抜けるばかりで。それは彼に限らず、患者や医師、ナース等にも無視される。まるでこの病院全体が私を拒んでいるかのように。まるで最初からいなかったとされていたかのように。孤独とは、こんなにも心が張り裂けそうになるものなのか。私と彼が記憶、過去、未来を取り戻そうと奮闘していたのはなんだったのだろうか。


女:

「は、はは、は………」


女(M):

乾いた笑いしか出てこない。怪異とか地縛霊とか、こんな気持ちなのかな。未練に縛られて、成仏すらできないで。また芝生の上に座り込んでいる。この中庭は私と彼が出会った始まりの場所。であるならば、この場所に基づいている何かしらの因果があるのかもしれない。


女(M):

少し遠くの方で車椅子の女の子と、彼女と仲良く話してる彼を見つけた。考えなくても分かる。あの子が、あの手紙の主であり、彼に想いを寄せていたことを。今すぐ駆け寄りたい。でも私の身体は動かないまま。傍観するしかなかった。少女は無邪気に「あのね、■■さん!わたし、■■さんのことがせかいでいちばんすき!だからけっこんして!」と笑っていた。


化け物:

「んー?うん、ありがとう。そうだね。大きくなったらね」


女(M):

女の子はにこにこしながら彼に好きという感情を伝えている。何も知らなければ微笑ましい光景。だけど、私は彼から聞いている。だからこそ痛々しい場面だった。「いまがいいの!やくそくしてよ!」と少女はむくれて、頬をふくらませている。


化け物:

「……やれやれ」


女(M):

腰をかがめて目線が一緒になるようにしていた彼は困ったように笑うと、少女の頭に手を置いてゆっくりと撫でた。


化け物:

「じゃあ、少し待ってて……はい、できた」


女(M):

それは指輪だった。シロツメクサで作った指輪を、少女の左手の薬指に嵌める。彼は優しく微笑んだ。少女だけを見つめ、愛おしそうに目を細めているさまはまるで王子様のようで。あの子が恋した理由がそこにあったのかもしれない。というか、陽性転移だなんだとか言っておきながら、元凶は自分の方なんじゃない!?自業自得な気がする…と心の中で罵倒していると、何やら歌声も聞こえる。少女がおもむろにメロディを口ずさむ。それはまるで子守唄のようで、どこか懐かしさを感じずにはいられなかった。でも聞いたことがない。もしかしたら少女が作ったオリジナルなのかもしれない。彼はその鈴の音のような歌声に自分の声を重ねる。綺麗にハモっていて、何度か一緒に歌ったことがあるのかも。……どういう形であれ、この子に真摯に向き合っていたんだなと思うと、いたたまれない。

(場面が転換する。再び現実。女は起き上がる)


女:

「夜……よいしょ…あの人は…いない」


女(M):

あれから少しテストをして分かった。確かに彼は喋ることができるようになった。でも、彼が理解できるのはごく僅かで、小さな子に話すように噛み砕いて表現しないと、首を傾げてしまう。つまり、現在の彼の精神年齢は身体の年齢に比べ退行している。2メートルの巨体だというのに中身は幼いのだからギャップがすごい。


女:

「……寂しい」


女(M):

少し肌寒いため、毛布を一枚肩にかけ部屋を出て、彼を探しにいくことにした。彼はいつも消えては目の前に現れ、いつの間にか不在になる。かと思えばまた戻ってくる。一体、どこに行っているのか。この病院の内なのか、外なのかそれすら分からない。あてもなく彷徨っていると、どこかから鼻歌が聞こえる。


女(M):

「…?どこから聞こえるの?(耳をすます)……近い。どこだ………屋上から?」


女(M):

音の出処は屋上へと続く階段からで、見れば扉に隙間が開いていた。ギィィ…と錆びた鉄扉をゆっくり開くと、化け物の後ろ姿が見えた。柵に腕をかけ、月を見上げていた。風にふわりと髪が揺れる。そしてメロディを口ずさんでいた。


女:

「あ、あの」


化け物:

「ん……」


女:

「今、鼻歌歌ってましたよ…ね?」


化け物:

「うん」


女:

「なんていう歌ですか?」


化け物:

「……わかんない。でも……なんか、だいじなきが、する」


女(M)

その歌は、夢の中で少女と彼が仲良く歌っていたそれとまったく一緒だった。どんどん現実と夢がリンクしていく。少女がいない今でも彼の中にはあのささやかな歌が残っているというのか。


女:

「…月、綺麗ですね」


化け物:

「…うん。だから、みてた」


女:

「隣、行っていいですか?」


化け物:

「いいよ」


(毛布を化け物の肩にも回してかける)


女:

「寒くないですか?」


化け物:

「ありがと…」


女:

「…!いいえ、こちらこそです」


女(M):

この病院で彼がいつも何をしているのか聞こうとしたが、まだ今の彼には難しい課題だろう。そのまま彼の体温に包まれていると、目がしぱしぱしてきた。


化け物:

「…ねむい?」


女:

「はい…」


化け物:

「ねてて、いいよ」

(化け物が女を抱き上げ、院内に戻る)

女(M)

時が経ち、半年が過ぎた。私はもう、この廃病院の夢は見なくなっていた。急に放り出されたかと思えば、拒まれて、また弾かれて引き戻される。なんだったのだろうと思う。けれども、彼の方もまた変化していた。


化け物:

「おはよう」


女(M):

朝日が眩しいと手で日光を遮った向こう側にはこちらを見下ろす微笑みがあった。精神年齢が回復している。今は15〜16歳ほどの少年のそれになっており、会話のパターンや理解できる言葉も相槌も増えた。


女:

「おはようございます…また目の色、濃くなってますね」


女(M):

精神だけではなく、身体も元の彼に戻りつつある。身長は195センチに縮まり、目の色も金から灰色になっている。虚無だった表情は色んな反応を示すようにもなってくれた。手を伸ばして目元をなぞる。


化け物:

「くすぐったい」


女:

「ふふ。すみません。出会った頃の貴方と比べると見違えるようになったなって」


化け物:

「…成長した?」


女:

「成長なのか、歪んでいたのが直ってきているのか分からないですけど」


男:

「…なんか、ズルい」


女:

「え?」


化け物:

「お前だけ昔の俺を知ってんだろ」


女:

「昔っていっても半年前ですよ?」


男:

「それでもズルい。俺は気付いたらお前がそばにいただけなのに。お前は俺の何もかもを知ってるようなフリする」


女:

「しょうがないですよ。私だって、まだ貴方が誰なのか分かっていない」


化け物:

「……難しくて、よくわかんない」


女:

「……あの時はまだ貴方には難しい言葉だろうと思って聞きませんでしたが、今なら分かるかもしれません」


化け物:

「なに」


女:

「貴方は、私のそばを離れている間、この廃墟で何をしているんですか?」


化け物:

「あー…」


女:

「貴方を知るための質問です。答えてくれませんか?」


化け物:

「……病院の中をずっと歩き回っている。何が目的なのか俺にも分かんないんだよ。ただ、探さなければいけないものがある気がして、勝手に身体が動いてるだけ」


女:

「探さなければいけないもの…?」


女(M):

ということは、彼はその「何か」を求め徘徊していたのか。多分それが鍵になってる。夢を見なくなった時期と彼の感情が回復し始めた時期は一緒だ。ヒントを出し尽くし必要なくなったと夢から突き返され、代わりに今度は現実で彼と2人で謎を探れ、と病院そのものが司令しているかのようだった。


女(M):

起き上がった私は彼の手を掴み、「今日も手がかり探しに行きますよ」と連れ出すようにして部屋を出た。繰り返し繰り返し何度でも同じ場所を探す。いつか、どこかに異変が生じると信じて。ゲームにありがちじゃないか。ここで誰々とこういう会話をしないとこのイベントは起きないよ、みたいな。とか思いながら2人で廃れた中庭までやってきた。


化け物:

「お前と俺が夢で出会った場所がここか…ここに重要なものがあるって?」


女:

「確信ではないですけど、可能性はあります。始まりの場所にはそれなりのヒントになるものがあるのではないかと」


化け物:

「……っああっ!」


女:

「なんですか、急に大きい声出して」


化け物:

「あ、あれ」


女:

「車椅子…?そういえば」


化け物:

「っ!い゛っ…つつ…」


女:

「どうしました!?」


化け物:

「あ、頭が痛い……っ、なんでだ…!」


女(M):

何かに打たれたかのように彼は倒れて尻もちをつく。頭を両手で押さえ、目をぎゅっと瞑り、汗をかき始める。私は慌てて近寄り、蹲る彼をそっと抱きしめた。


化け物:

「っ、あの車椅子見て、なんか、自分の中で思い出しかけて、そしたらっ、がっ、ぁっ…!」


女:

「…とりあえず、一旦避難しましょうか…!処置室ありましたよね?あそこのベッド行きましょ?立てますか?」


化け物:

「あ、あぁ…」


(長めの間。彼を処置室のベッドに座らせると、彼は少し落ち着いたのか、ふぅ、と一息つく)


女:

「今は?痛くないですか?」


化け物:

「…うん。もう、痛みは治まった。にしても、なんで急に…」


女:

「……貴方に言うべきかもしれません。この出来事が一番の近道になるかと思って、でも怖くて、今まで伝えてきませんでした」


化け物:

「何言って」


私(M):

私は夢の内容を白状した。看護師であった彼に想いを寄せていた女の子の患者がいたこと。その感情は偽りかもしれないと彼が私に吐露してきたこと。それでも看護師時代の彼は少女に向き合い、2人で仲良く笑いあっていたこと。その少女が車椅子ユーザーであったこと。


女:

「そして、あの車椅子は……恐らく少女が使用していたもの。私の推測でしかないけれど、貴方に恋していた彼女がこの病院で命を落としたのか、それとも退院していなくなったのか。それは分からないけど…多分、看護師の貴方にとって少女も特別な存在だったんじゃないですか?自覚してなかっただけで、今もずっと探している。だから、貴方はこの病院にいた」


女(M)

そう、全ては推測。パズルのピースをひとつずつ嵌め込んでいったとしても、そのパズル全体が妄想の域だったとしたら?それはもう意味はない。でも、やるしかない。


化け物:

「うーん…やっぱり思い出せない。頭の中で何かに邪魔される」


女:

「それを明らかにすることが、私と貴方の使命であり、ゴールなのかもしれませんね」


化け物:

「そうか……」


女:

「……ねぇ、私に向かって自己紹介してみてください」


化け物:

「え?」


女:

「いいから」


化け物:

「どういう風に?」


女:

「俺の名前は○○、この病院に勤めている看護師です、みたいな」


化け物:

「…俺の名前は■■■■、この病院に勤めている看護師です…これでいい?」


女:

「はい、それで大丈夫です」


化け物:

「…今、またなんかテストしただろ。それぐらい、俺にも分かるぞ」


女:

「あー……えっと……」


化け物:

「また俺に隠してる。誤魔化すのが下手くそ」


女:

「……貴方の名前、です。貴方が私と出会った頃に私はこの病院がまだ棄てられていなかった時代の夢を見ました。そこで看護師だった貴方に出会い、いろいろあって名前を聞くことになったんです。貴方は私に対して笑顔で自己紹介した。でも私の耳には貴方の名前が聞き取れなかった。気のせいではなく、明らかな雑音が混じっている。何度試しても同じでした。でも現実の貴方と過ごすうちに貴方が回復していってるから」


化け物:

「名前の方ももしかしたら分かるようになっているかもしれないって?」


女:

「…はい。でも、無理でした」


化け物:

「…お前は何も悪くない。これだけは言える。だから、そんな泣きそうな顔しないでほしい。こっちまでつらくなる」


女:

「ごめんなさい」


化け物:

「だーかーら!謝るなって!はいこの話はもうここで終わり!そうしよう」

女(M)

その夜。私は過去最悪の夢を見ることになった。


女(M):

病院が燃えていた。目の前で。これは、もしや火災当時の夢…?野次馬や記者や病院関係者がごった返しになっている中、私は規制線が貼られた内側で、動かない身体で燃え盛る病院をただ呆然と見ていた。でも、更に驚くことになる。人々の群れの中に、一際大きな影があった。それはものすごいスピードで最前列に駆け込んで病院の中へ入ろうとしている。


化け物:

「っ離してください!!!院内に女の子が取り残されているかもしれないんです!!!あの子が…!!俺の、俺の大切な人が…!!!」


女(M):

「危険ですから下がってください!」と消防隊や警察官に強引に止められていたのは、看護師時代の化け物だった。あの子…?俺の大切な人…?え、つまりあの子って…あの車椅子の女の子…?そうとしか考えようがなかった。やっぱりあの少女は彼にとって大切な人の中に含まれていたのか。泣いて叫んでても押し戻されてしまう彼は無力で、私と同じようにその場に崩れ落ちてしまった。


女(M):

次の瞬間パッと、完全に鎮火された後日にシーンが変わった。私の位置は変わらず、彼の位置も動いてなかった。でも私から見える角度からは彼の目はもう虚ろで、ボロボロの様子だった。


化け物:

「身元不明の焼死体………あの子は自分で動けない………はは、そうか…………あ……ああ………あああ゛あ゛ア゛ッッッ!!!!!クソッ!クソッたれがッ!!なんであの時俺外に出てたんだよ…なんであの時研修になんか行ってたんだよォ!」

(拳を地面に何度も叩きつけて嘆く)

化け物:

「……………………もう、何も感じたくない」


女(M):

彼はそう弱々しく呟き、それっきり何も言わなくなった。表情を、感情を封印した。その時だった。彼が身につけていた名札の黒が消えていき、文字が見えるようになった。


女(M):

『朝倉 陽向』(あさくら ひなた)と。

(場面転換。現実のソファの上で女は飛び起きる)


女:

「っはぁっ!っはぁ……はぁ、はぁ…あれが、真実……」


女(M):

場所は院長室。だがいつもどこかに行っていなくなっているはずの化け物が、今日は椅子に座っていた。でも様子がおかしい。彼の表情がまた色を無くしていた。


女:

「おはようございます…」


化け物:

「…………」


女:

「あの」


化け物:

「…………」


女:

「な、何か喋ってくださいよ」


化け物:

「…………」


女(M):

何も、言わない。声を出さない。これじゃあまるで。


女:

「…っ!ねぇ、なんで何も言わないんですか!?なんで無表情なんですか!?…………どうして……また逆戻りしたの?ねぇ、応えてよ…!」


女(M):

肩を掴んで揺さぶっても返事はなかった。私と出会った当初のような反応のなさだった。ここに来てやっと全貌が見えたのに、振り出しに戻った。涙が出てきた。やっと彼の表情が豊かになって。やっと彼と色々話せるようになって。やっと彼の正体が分かったのに。こんなのってあんまりじゃないか。泣くのが止まらない。涙で滲んで前が見えない。そして私は不甲斐ない自分にも戻ってしまった彼にも怒るかのように、彼の名前を叫んだ。


女:

「────────帰ってきてよぉ!陽向さん!!!」


女(M):

院長室に私の泣き声が響く。俯いてしゃくり上げていると、肩を掴んでいた私の手に柔らかい何かが触れる。目をやるとそれは彼の手で。


女:

「…へ?」


(化け物から陽向へと名前が変わる)


陽向:

「……泣いている。可哀想に」


女:

「…え?ほんとに、かえってきた…?」


陽向:

「夢を見てたんだ。真っ暗な空間でひとりぼっちで、何も見えないし何も聞こえない。どれだけ助けて、ここから出して、と叫んでもそこには何もない。でも、ふと、俺を呼ぶ声が聞こえた。しかもただ呼ぶんじゃなくて、俺の名前を口にしていた」


女:

「…じゃあ、その声で夢から覚めた…?」


陽向:

「多分ね。俺を暗闇から引き上げてくれるような感覚がして、気づいたら俺の胸元で君が泣いてたからさ」


女(M)

二人称も「お前」から「君」になっている。言葉遣いもどこか丁寧だ。


女:

「あれ、目も焦げ茶色になってるし、座ってるから分かんないけど、身長…縮みました?」


陽向:

「測ってみてくれ」


女:

「えっとメジャーメジャー…あった。はい、立って踏んでてください。えーっと……190センチ!よかった…完全に戻りましたね!記憶は?どうですか?」


陽向:

「うん……思い出した。君が夢で見たという数々の状況と一致している」


女:

「はい、そして新たな情報があります」


陽向:

「なんだい?」


女(M):

そうして20年前にここであった火災当時の夢を見ていたことを話した。化け物が「あの子が中にいるんだ」と叫んで病院に駆け込もうとしたけど押さえつけられて見ていることしかできなかったこと。彼が後日少女を救えなかったのを後悔していたこと。そのショックから彼は感情を閉ざしてしまったこと。そしてショック時と引き換えに私は彼の名前を知ることができたこと。


陽向:

「……ああ、そうだったね。今でもあの時のことを忘れない。いいや、忘れないからこそ、俺は感情を自ら無くして無口になったんだろうな。フラッシュバックやトラウマなんかで身体にも心にも異変が起きるのはよくあることだ」


女:

「今は、そんなに苦しくないですか?」


陽向:

「苦しいさ。苦しいけど、もう過去は変えられない。だから俺は俺に恋していたあの子のことをずっと探していたのかもしれない。見つかるはずがないのに、ね」


女:

「20年間ずっとこの病院を彷徨い続けていた理由がそのたったひとつだけだったなんて、原動力ありすぎですよ」


陽向:

「はは、確かに。それくらい鮮烈だったんだろうな。でも君は、全部思い出させてくれた。空っぽの化け物になってしまった俺を人間に連れ戻してくれた。ありがとう」


女:

「っ……ありがとうは、こっちのセリフですよ…」


陽向:

「あー、もう、泣かないの…にしてもなんで、俺がショックを受けた段階で名前が判明したんだろうね」


女:

「…………多分、あの子ですよ」


陽向:

「え?」


女:

「霊的な話になりますけど、あの子が導いてくれたんだと思います。長年貴方はこの病院を徘徊していた、ひとりで。誰にも見つからないままずっと。そこに廃墟巡りをしていた私というイレギュラーが舞い込んできたんですよ。もしかしたら私が貴方を救うことができるのではないか。だから断片的にこの病院の景色を見せたり、過去の貴方と接触させたり、証拠や手がかりを見つけさせたり……と。つまり彼女による意図的な現象だったのでは、と私は思っています」


陽向:

「…あの子は、亡くなった今でも俺を解放しようとしてくれていたのか」


女:

「好きな人がこれ以上苦しむ姿を見たくない。どうにかして助けてあげたい、と思うのは人間の心理です。私だってそうします。まぁ、全部私のこうだったらいいなっていう想像ですけど」


陽向:

「でも、俺が俺として今ここにいるのは現実の出来事だろう?ならそれでいいじゃないか」


女(M):

そう言って彼は向日葵のような晴れやかな笑顔を浮かべた。彼はもう感情を、思い出を、大切な人を思い出している。私はそれが何よりも嬉しくて、また泣いてしまった。半年間一緒に過ごした意味があった。


女:

「ねぇ…もう一度自己紹介してもらってもいいですか?」


陽向:

「…俺の名前は朝倉陽向、この病院に勤めている看護師です」


女:

「…ふふ。ノイズが完全に無くなりました。貴方の名前がちゃんと聞こえるようになりました。やっと貴方、いや、陽向さんを救えました…おかえりなさい」


陽向:

「ふふ…ただいま」


女:

「これであの子も成仏できたんでしょうか」


陽向:

「いや、きっとできたんだろう。そう願っているよ」


女(M):

あれから。自我と記憶を取り戻した陽向さんはこの病院の呪縛から解放された。のはいいんだけど今度は現代での問題に引っかかった。どこでどう暮らしていけばいいのかと。ならば心配はいらない。私と一緒に暮らせばいい。そう提案したら、少し驚きながらも了承してくれた。


女(M):

病院から脱出した私たちは恋人同士ではないものの、恋人以上の絆を持ち合わせた関係でいる。この文章を書いている今も、私の後ろで一所懸命に家事をしてくれている彼がいる。これから先の未来がどうなるのか分からない。でもきっと優しさや光に溢れたものになるはずだ。

ねぇ、そうでしょう。陽向さん。

END

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