眠り飴
軽自動車同士による接触事故の現場から帰ってきた堀江巡査は、彼が駐在する交番で事故報告書をまとめていた。字を書くのがヘタクソなので、楷書は苦手なようだ。時間をかけてようやく仕上げたところで、セーラー服姿の女子生徒が一人で入ってきた。
「あのう」
「どうしましたか」
「落とし物を拾ったのですが」
なにかを拾ったようである。こういう場合、たいていがお金か指輪、腕時計、最近ではケイタイ端末などの貴重品だ。
「拾得物件の預り書を交付するから、とりあえず椅子に座ろうか。いろいろと記入してもらうからね」
「はい」
セーラー服の女の子がパイプ椅子に座った。警察官を前にしているが落ち着いており、緊張している様子はなかった。背筋を伸ばし、よく発育した胸部を張る正しい姿勢である。顔は、控え目にいっても相当の美形だ。
「それで、拾ったのはお金かい」
「これですね」
机の上に左手を突き出した。手を握っていて、すぐに開こうとはしない。
もったいぶった仕草だと堀江巡査は思った。あまりにも可愛らしい顔をしていたので、多少のおふざけには付き合うつもりである。
「うーん、それはなにかなあ」
だが、女子生徒はあっさりと手のうちを見せてしまう。
「アメです」
「飴?」
華奢な手のひらにあるのは、黒褐色の飴玉が一粒だった。
「飴かあ。それはちょっと無理かなあ。一個だし、拾得物というよりゴミになっちゃうよ」
「ゴミではありませんよ。これは{眠り飴}なのですね。とても貴重で、すごい効能があるのです」
女子生徒の瞳に力が入っている。お遊びという感じではなかった。
「{眠り飴}って、まさか違法な成分が入っているんじゃないだろうな」
警察官らしく、麻薬関連を疑ってしまう。堀江巡査の目つきがきつくなった。
「違います。{眠り飴}を口にすると、眠りの中で自分を見つけることができますね。本当の自分ですよ。自分で自分がわかるようになるのです」
自己実現の啓発本でも読んでいるのかと、堀江巡査は疑ってしまう。悩める年頃の女の子は苦手だなと思いながら、それとなく事情を訊いてみることにした。
「ところで君は高校生かい。このへんでは見かけない制服だけど」
「はい、猫屋敷華恋と申しますよ。みんなは、ネコヤーと呼びますね」
「ええーっと、猫屋敷さんの身分証明書を見せてもらいたいんだけど」
「ネコヤーでお願いします」
お願いというより押しに近いと感じた。堀江巡査はあえて、かしこまった言い方をする。
「猫屋敷華恋さん、冗談はここまでにしよう。もし面白半分でここに来たのなら、君のことをいろいろ調べなくちゃならないよ」
「それはちょっと困りますね。ネコヤーは悪いことができない体質なので調べる必要はないのですよ」
「生徒手帳を見せなさい。それと眠くなる飴のことも」と言いかけたところで爆音が鳴り響いた。
交番近くの車道に改造バイクが通りかかった。マフラーをイジっているために、甲高くもひび割れた音が耳に痛いほど炸裂していた。愚か者であることを誇示したいのか、アクセルをふかして、ブフォン、ブフォン、ブフォーーーーーンと派手に鳴らしている。
「ち、またあいつか。交通課はなにをやっているんだ。苦情がくるぞ」
単車の雄叫びは三十秒ほど続いて遠ざかった。挑発された堀江巡査は窓の外をイヤそうに見ている。
「そういうわけで、ネコヤーはしっかりとお届けしました」
女子高生が立ちあがり、ペコンと頭を下げてから交番を出てしまった。
「あ、こら、ちょっと待って」
待たなかった。ボリュームのあるバストのわりに華恋の動きが素早い。すでに姿が見えなくなっていた。
堀江巡査は追いかけなかった。飴玉一つのことでムキになるのはムダだし、事件性もないだろう。ちょっとふざけた女の子だったと含み笑いしてから、机の上に置かれた飴玉をつまみ上げた。
「甘そうだな」
深く考えることなく口の中へ放り込んでしまう。ガランゴロンと舌で転がし、しょう油風味の甘味を堪能していると急に眠気がさしてきた。おかしいぞ、と一瞬考えた堀江巡査であったが、そのまま眠ってしまった。
ケイタイの着信音が鳴っていた。
三十秒ほど経過したころで堀江巡査が目を覚ました。ベッドにある時計を見ると、デジタルの表示は午前四時五十五分だった。スズメがいつも通りのルーティーンでちゅんちゅん鳴き、カラスのダミ声も混じっていた。
「はい、堀江です」
まだ多少は寝ぼけていたが、相手が直属の上司であるので応対には気を抜けない。
「わかりました、すぐ行きます」
事件が発生した。
彼が勤務する交番のすぐ近くで人が死んだとのことだ。詳細は分からないが病気や事故ではないらしい。殺人事件の可能性がある。ヒラの巡査である彼が捜査を担当することはないが、規制線を張るので応援が必要らしく、急ぎの早朝出動となった。
「これは、大ごとだな」
堀江巡査が現場に到着すると、同じくヒラの同僚がいて、やじ馬の整理などをしていた。さっそく事情を訊く。
「殺人事件なのか」
「らしいな。一課が来てるし、鑑識も総出だ」
「ガイシャは誰なんだ」
近所であるので顔見知りの可能性がある。一抹の不安が堀江巡査の心を暗くする。
「一人暴走族のあいつだよ」
騒音をまき散らす単車乗りのことで、昨日も交番の近くを暴走していた。
「バイクで婆さんを撥ねて死なせて逃げたんだ」
「殺されたのは、どこの婆さんだ」知り合いでないことを祈った。
「だから違うって。殺されたのは一人暴走族のほうだ。婆さんを事故死させて逃げて、ここで殺されたみたいだな。なんでも臓器をえぐり取られたとかで大騒ぎしているよ」
同僚の話を聞きながら、ふと自身の手を見てギョッとした。どの爪の中も赤黒く汚れている。おもわずニオイを嗅いでしまって、その鮮烈な鉄臭さに衝撃を受けていた。
昨夜はどうやって自室へ帰ったのか思い出せない。彼の記憶にあるのは、交番で女子高生と話したことと、彼女が置いていった飴を食べてどうしようもなく眠くなったことだ。
「ほら、この前もヤクザが同じような殺され方していただろう。肝臓を抜き取られたって。関連があるかもしれないぜ。猟奇殺人かもな。ったく、俺たちヒラは雑用ばかりが増えるぜ」
「イヤな事件だな」
爪の汚れを隠しながら言った。
現場検証が終わる前に、堀江巡査は交番へ戻った。デスクで報告書を作成していると、突然誰かの気配がしたので顔を上げた。
「君は」
「こんにちは、おまわりさん」
引き戸の向こうにセーラー服姿の女子高生がいた。この辺りでは見かけない派手なデザインの制服であり、すぐに昨日の女の子であるとわかった。
「ネコヤーですよ。落とし物を拾ったので届けに来ました」
「落とし物? まさか飴玉じゃないだろうな」
「アメですね、その通りなのです」悪びれることもなく、そう言った。
ズカズカと交番の中へ入ってきて、勝手に椅子へ腰を下ろした。堀江巡査は呆気にとられている。
「ところでですね、昨日のアメはありますか。持ち主がわかったので返したいと思います」
「そ、それは、そのう」
食べてしまったとは言えず、警察官は口ごもってしまう。
「アメを返さないとネコヤーが困ります。信頼関係がたいへんなことになりますね」
「あれは本署で保管している。拾得物は三か月の保管義務があるんだ。だから、三か月後にならないと返せない」
苦しい言い訳であり、多分にウソが入っていた。
「そうですか。では三か月待ちますね」
知ってか知らずか、女子高生は急がないようである。
「ハイこれ、アメです」
ポンと、机の上に飴玉を一つ置いた。昨日と同じで黒褐色をしている。
「眠くなるやつか」
「{眠り飴}なので眠くなりますね。そして、ほんとうの自分になることができますよ。己を知ることができるのです。何度も言いますが、貴重ですね」
「・・・」
口の中に唾液が溜まっているのを嫌がって、ゴクリと飲み込んだ。
「でも、おすすめはしません。自己責任になります」
「い、いらない。俺には必要ないんだ」
そう言って顔を背けた。視界に数秒間の空白をつくってから、そうっと正面を見た。
女子高生は外にいた。歩道に立っていて、目が合うと一礼をして行ってしまう。
「なんなんだ、ちくしょう」
交番で一人きりの堀江巡査は飴を見ていた。
眠りに落ちてしまいたいとの欲求が強くて、どうにも抗いきれなくなった。我慢しているとイライラが増してくる。もう、辛抱できなかった。
飴玉をほぼ衝動的に手にして口の中へ放り込んだ。焦げたしょう油交じりの独特な甘さを味わっていると眠気が差してきた。ウトウトする間もなく、まどろみの海へ泳ぎ出した。
夢を見ていると、夢の中で気づいていた。
だが、空気の匂いや肌の感触があまりにもリアルだったので、あえて区別をあいまいなままにしていた。
堀江巡査は犯人を追っている。被疑者は暴力的で悪辣な婦女暴行魔で、何人もの罪なき女性たちを生き地獄へ叩き落としていた。
取り押さえて逮捕するつもりだった。しかし、相当に暴れられて手こずってしまう。格闘の末、ようやく手錠をかけた。
悪態をついている犯人を見ていて、ある種の感情、ではなくて欲求が湧き出してきた。その量は圧倒的、さらに強迫的であって抑えることができなかった。
後ろから首を絞めにかかった。相手は手錠されているのでまともに抵抗することができない。じりじりと絞め上げて呼吸を止めさせ、最後はあり余る怪力でもって首の骨をポッキリとへし折った。
しばし、横たわる新鮮な死体を愛でていた。気がすんだころにシャツをまくって腹部を露出させると、手を垂直に立てて突き刺した。ズブズブとめり込んでゆく感触に刺激されたのか、涎がとどめなくあふれ出ていた。
ハッとして目覚めた。
「夢か。俺は夢を見ていたんだ」
そう言って、溜まりすぎた唾液を飲み込んだ。口の中にしょう油と甘さと生臭さが残っている 時計は午前四時五十五分を示していた。
「うわあ、なんだこれ」
両手が黒かった。濡れてはいないが、べったりとした感触が貼りついている。サビ臭くて、多少の腐敗臭もあった。
あわてて起き上がり台所まで走った。早朝に大きな物音を立てても母親が起きてこないことを熟知している。
台所で手を洗う。黒く見えた汚れは、水に溶けると濃い赤色になった。
「くっそー、血だ、血じゃないか。まさか」
なにかに気づいたのか、冷蔵庫の扉を引いて中から白いプラスチック容器を取りだした。ヒクヒクと鼻を利かせて恐る恐る開けてみる。
「これは、なんだ」
生レバーみたいな肉塊だった。真っ赤な汁が容器の底へ溜まっている。見た目はグロテスクであったが、不思議と気色悪くはない。新鮮な食材のように見えた。
生で食べたほうが汁気を存分に味わえる。堀江巡査がそう考えていると、ケイタイの着信音が鳴った。上司からであり、またもや早朝の呼び出しだった。急いで身支度を整えて部屋を出た。
「殺人事件だ。今度のガイシャはレイプ魔らしい。また内臓をやられたって」
現場に到着した堀江巡査が、同僚から事件のあらましを教えてもらう。
「目撃者がいたってさ」
「どんなやつだったんだ」
すました顔で訊いたが、心の中は穏やかではなかった。心拍数があがり、不意に後ろから肩を叩かれただけで心臓を吐き出しそうである。
「警備員か警察官みたいな服を着ていたってことだけど、まあ、俺たちではないな」
堀江巡査が自身の制服を見ている。あの時は腕まくりしていたので血は付着していないはずだと、一通り調べてから安堵した。そして、その記憶が存在することを疑問に思う前に気になる人影を見つけた。
「あいつ、こんなところまで」
通りの反対側にセーラー服の女子高生が歩いていた。勤務中であったが、その場を離れて追いかける。途中で地面に落ちている小冊子のようなものを拾い上げた。
「生徒手帳じゃないか。あの女の子が落としたのか。猫屋敷華恋って変わった名前だな」
サッと目を通すと先を急いだ。ようやく追いついて、逃げられないように手を出した。
「おい、そこの君ぃ。止まりなさい」
たしかに肩をつかんだと思った。だが、セーラー服の女の子はすんなりと角を曲がってしまう。堀江巡査も続くが、彼女の姿はどこにもなかった。
逃がしてしまったと地団駄を踏んでいたら、手の中に違和感があった。すぐに開いてみる。
「ちくしょう、また飴か」
黒褐色の飴玉が一つあった。
「もう、食べないぞ。俺は絶対に食べない。こんなものーっ」
投げ捨てようとした。
「いや、でも」
抗いがたい力が彼の手を止めた。あの眠りに入る感覚がたまらなく恋しくて、脳内に麻薬物質が充填される。渇望がどうやっても止まらない。ギリギリと奥歯を噛みしめていると、心の暗い個所からべつの意識が這い上がってきた。それが領域のほとんどに覆いかぶさり、禁忌に対する抑制を封殺してしまう。
「たかが飴だろう。これが最後だ」
勢いよく口の中に放り込んだ。
何度も味わったことのあるしょう油甘さが未知の味覚に感じた。ガランゴロンと舌の全体で転がしていると、すぐさま眠くなった。いったん部屋に帰って横になろうとするが、数歩進んだところで崩れ落ちてしまった。
口の中に残っているうま味を感じていた。
椅子に座り、机に伏せったムリな姿勢で寝ていたので、体のあちこちに軽い鈍痛を感じていた。
ゆっくりと上体を起こしてから制服の袖をまくった。赤黒く汚れているのは人を襲って殺してしまったからだ。
女房や娘にDVを繰り返す典型的なクズ男で、死んでしまっても誰も嘆かないし 良心の呵責はなかった。おもいのほか味が良かったと、食味については満足していた。
「すみませ~ん、おじゃましますよ」
セーラー服の女子高生が交番に入ってきた。凝ったデザインの制服が印象的であり、顔は可愛らしかった。堀江巡査が睨みつけて言う。
「また飴を持ってきたのか」
「ええーっと、ネコヤーは飴なんて持っていませんよ。唐突になんでしょうか」
女子高生はキョトンとしる。
「おまえが持ってきたあの飴はなんだ。麻薬か毒が入っているだろう。あれを食べると狂暴になって我を失う。考えられないくらい凶悪なことしてしまうんだ」
「いったい、なんのことでしょう。ネコヤーは落とし物をしたので取りに来ただけですね」
「猫屋敷華恋だったな」
汚れた手で手帳をペラペラとめくりながら言った。
「それです。ネコヤーの生徒手帳が届いていたのですね」
生徒手帳を放り投げ、堀江巡査がきつい目線で睨んでいた。
「おまえのせいで、俺は人を殺したんだ。それどころか、そいつらを食ってしまった。可愛い顔して、いったいなにを企んでいるんだ。あの飴に薬を混ぜた目的はなんだ」
人を何人も殺して、さらに食したことを女子高生に対して平然と吐露している。警察官としてあるまじき言動なのだが、本人はそのことに気づいていてない。
「ネコヤーは、おまわりさんと初めてお会いましたよ。飴は知りませんね。知っていることは、おまわりさんが人を食べた理由です」
「だから、あの飴のせいだ。狂暴になる薬のせいだ」
「違いますね。食べずにはいられなかったのですよ」
華恋は落ち着いている。その場を統制している者の余裕があった。
「おまわりさんが人を食べるのは自然なことなのですね。だって」
その場でバレリーナのようにくるりくるりと回った。重大なことを告知する際の、必殺ポーズである、と本人は企図している。
「怪物ですもん」
華恋のキメ顔は妖しいほどの可憐さであったが、堀江巡査に色香はどうでもよかった。
「はあ? 怪物だと。俺が」
「そうです。あなたは怪物なのです。人間が悪を為した果てにカイブツとなったのではなくて、正真正銘の怪物ですね。そういう生命としてこの世に生を受けますた、てへ」
照れるところではないのだが、舌を少しだけ出して気恥ずかしそうに言った。
「ウソをつくな。俺は警官なんだぞ。怪物なはずがない。法の番人なんだ」
「でも、人を殺(あや)めて食べてしまいましたね」
「ああ、う、・・・」
さんざん、その事実を露わにしてきた。なぜか悪い行いだとの認識がない自分がいる一方で、許せない蛮行であるとの考えが遠いところでざわついていた。
「そ、それは、おまえが飴に仕込んだ薬で気持ちがどうにかなったからだ。{あの眠り飴}だ」
「ネコヤーは関係ありませんね。{眠り飴}なるものも存在しませんよ。人を殺めて食べたのは飴のせいだと、法の番人であるおまわりさんは思いたいのです」
堀江巡査は黙っている。考えをめぐらせているのか、タイミングを見計らっているのか、それとも混乱しているのか、その表情からは読み取れない。
「市民の安全を守るおまわりさん。でも怪物なので市民を食べてしまいました。おまわりさんの良心と怪物の本能の間には、けっして越えられない壁があります。葛藤は、時としてマヤカシをつくってしまうのですね」
いつの間に日が暮れたのか、交番の中はすっかりと暗くなっていた。ただし明かりがなくとも、少なくとも一方の視界は明瞭である。
「ただですね、地獄に落ちる罪人だけを襲ったことは、ある種の妥協が成立していたのかと興味深いですよ。ネコヤーは、ちょっと驚きなのです」
「全部デタラメだ。だいいち、おまえとは初対面ではないぞ。俺は名前を知っていたんだ」
「拾った生徒手帳に、ネコヤーの写真とフルネームがありますね」
「違う違う。前に何度も会った。この交番でだ。そして妙な飴をもらったんだ」
「ネコヤーと何度も会ったと、ご自分で記憶を改ざんしたのです。飴もそうですよ」
「おまえのあだ名がネコヤーだとも知っていたぞ。それは生徒手帳に書いていない。初めて会った時に、そう言われたんだ」
「そういう妄想なのです。ネコヤーの愛称を知ったのは、ついさっきですね。できたてホヤホヤ、湯気が出ている焼き芋のような妄想となりました。瞬間芸です」
「たったいま、記憶を改ざんして妄想をつくったというのか。ここ最近からついさっきまでの記憶を一瞬でって、そんなこと不可能だろう」
「おまわりさんなら可能ですよ」
そう言われて記憶のアーカイブを探るが、それらのほとんどがぼやけていて、確固たる足場を感じられない。多少の譲歩はしかたがないと、警察官は考えた。
「もし俺が怪物というならば、それは吸血鬼か、それとも狼男か、なんなんだ」
「シェイプシフター」と華恋は即答した。腰に手を当てて、なぜかキメ顔である。
「しぇ、シェイプ何?」
「ググれ、カス」
意地悪だが、やたらと可愛い笑顔だった。もちろん、すぐに補足の説明をする。
「英語圏でシェイプシフターと呼ばれる怪物ですね。まあ、その亜種ですが」
「シャイプシフター・・・」
「欧米かっ」
そのギャグをどうしても飛ばしたかった華恋は、さらに畳みかける。
「欧米かっ、欧米かっ、欧米かっ」
何度も言い放ったが、けっきょく聴衆を笑わせることはできなかった。
「ツッコミがなかったので、いつもより多めにやっちゃいました。どや」
たいがいに発育したバストを張って、今度はドヤ顔である。
「ふざけるな。俺は堀江英明という人間だ。だいいち怪物だったら、いちいち記憶を改ざんするのはなぜだ。怪物のまま堂々と生きていけばいいだろう」
「シェイプシフターは人間の体を乗っ取って、その人になりすまします。もちろん、怪物としての意思と自我はそのままのはずなのですけど、おまわりさんの場合は元の人の魂が残っていまして、怪物と人間の魂が交ざりあった状態なのです。欲求と行動は恐怖そのもののくせして、一方で良き警察官としての正義を求めます。矛盾といいますね」
対極にある二つの意識を統合することはできない。混乱をきたし、苦悩のすえに改ざんという補償行為をすることになったのだ。
「だから、眠りの飴玉という幻が必要だったというのか」
「そういうことです。そうでなければ、どちらの自我も崩壊してしまいますので。眠ってしまえば夢のせいにできますから」
「俺の中に、俺がいるのか」
「堀江英明さんという方は正義感がお強い人だったようですね。この地域の人たちの助けとなって好かれておられました。母子家庭で大学には行けませんでしたけど、警察官として優秀だったのです」
「そいつを、俺は襲って乗っ取った。そして、おそらく・・・、食べた。心臓を」
「人を食べる怪物なので仕方ないですね。そういう食性なので、良い悪いの見方は相対的となります」
「おまえは誰だ。いろいろと詳しすぎるし、怪物である俺の前にいても、ちっとも恐れない。人間ではないからだろう」
怪物の本能が、目の前にいる女子高生の本質を見抜こうとしていた。
「ネコヤーは、おもに道案内のお仕事をしていますね。魂を、あるべき場所へ導くのです」
「死神だったか」
そう言われて、ムッとした華恋が腕を組んだ。斜にかまえつつ、ほっぺたをプク~とふくらませて不機嫌ポーズ全開をアピールする。
「ネコヤーは、あの陰キャなハゲちゃびんではありませんよ。とても心外なのでありますね、プンプーンッ」
そう言って、純白の翼を一瞬で展開した。
「天使か」
天使であることを明確に示すが、とくに誇示しているというわけではなかった。
「天使が怪物のところに来たのか。ということは」
怪物の表情が険しくなった。とても禍々しくて、人の顔に見えなかった。強烈な殺気に溢れている。ホルスターにあった拳銃を素早く取り出して、銃口を華恋へ向けた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。早とちりはいけませんね、早い殿方は嫌われますよ」
バンバンバンと、三発の銃弾が発射された。至近距離だったので狙いは外れようがない。女子高生の胸に全弾が命中した。
だが、弾丸がその柔らかそうな体を貫くことはなかった。かすり傷どころか、セーラー服に綻び一つない。弾丸の先端が数ミリほどめり込んでから弾かれてしまったのだ。
「ふう、ビックリしました。38口径も侮れないですからね。ネコヤーがペッタンコ女子でなくてよかったです」
胸に手を当てて、そのほどよい弾力をよくよく確かめている。
「先週も海の向こうへ出張したら、テキサスのおじさまに338ラプアマグダムでお尻を撃たれたのですよ。あったまきちゃって、地獄に落ちろー、って叫んじゃいましたね、天使のくせに」
お尻をプイッと突き出して、ここよここ、と指さして同情を誘っていた。
「くそ、なめやがって。こっちはどうだ」
銃口が華恋の顔に向けられた。バンと銃声が響き、なにかを訴えようとしていた女子高生が、「はぴぽ」と呻いてのけ反った。
そして、三秒ほどして顔をあげる。
「ヘンな声が出ちゃいました」
額に、わずかばかりめり込んだ弾丸がポロリと落ちた。
「ちくしょう」
さらにもう一発が発射されて、それは口にとび込んだが、上下の歯をガッチリと嚙み合わせて止められてしまった。華恋が煙とともにペッと吐き出すと、床に落ちてコロコロと転がった。
弾を撃ち尽くした怪物には次の手がない。すでに、天使に勝てるすべはないと悟っていた。
「ネコヤーは怪物退治に来たのではないですね。自然の摂理の中にある存在に、そうする意義がありません。ですから銃刀等を用いた加虐的な行為をやめてくださいなのです」
天使の言葉に偽りがないとわかっていた。浅いため息の後、拳銃がホルスターに収められた。
「あんた、生徒手帳を取りに来ただけではないんだろう」
「導かなければならない魂が、ここにありますね。ネコヤーのお仕事です」
警察官は、少し考えてから言う。
「こいつと一緒にいてはダメか。なんだか悪い気がしないんだ」
「ダメです。人と怪物の魂が交じり合ってはいけませんね。摂理に反します」
華恋の目的は明白である。堀江英明巡査の魂は旅立つ時を迎えていた。
「俺は、怪物の俺はずっと生き続けるのかな。人間を食べたり乗っ取ったりして、いつまで生き続けるんだ」
ふいに、そういう考えが脳裏に浮かんだのだ。
「その心配には及びません。そう遠くない未来に、しっかりと淘汰されますよ」
衝撃的な余命宣告だったが、怪物はもっと知りたいと思った。
「どうやって」
「人間の怪物ハンターに狩られます。弱肉貪欲、いや焼肉強食、いや焼肉定食ご飯大盛り食べたいな。おなかすきましたね。まあ、生物界の定めということです」
屈託のない笑顔でさらりと言った。相手は苦笑するしかなかった。
「俺が死んだら、あんたが迎えに来てくれるのか」
華恋の口は答えない。貝のように閉じきっていた。
「そうしてほしいな」
真顔となった天使が翼を強く羽ばたかせた。風が舞って、えもいわれぬ柔らかな感触が警察官を包み込む。
すると、彼の肉体からドロッとしたスライムが流れ出てきた。肌色のそれは、不定形の塊となって床に盛りあがった。
堀江巡査の遺体はきれいなまま椅子に座り、まるで事務仕事をしているかのようだった。彼の魂が自身を見つめて敬礼した。足元にある塊を一瞥してから、華恋とアイコンタクトを交わす。
天上から光の帯が降り注いだ。華恋に導かれて、堀江英明の魂が昇ってゆく。
床に残った塊が眩しそうにプルプルと蠢いた後、あらたな獲物を求めて真っ暗な夜道へと消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます