第5話

天蔵家の使用人にとって、朝礼は欠かせないものです。使用人たちは朝五時に起床し、身支度をして、使用人棟の廊下に集合をかけられます。その日一日の割り当てや連絡事項を伺うなど、私たち使用人の一日の動きを確かめていくのです。

「おはようございます、みなさん」

 スミさんが頭を下げ、私たちもおはようございます、と返して頭を下げます。スミさんへの礼は、一日の中で一番初めに行う礼です。親しき中にも礼儀あり、といった言葉がありますように、使用人が怠けてしまわぬよう、スミさんはことさらこの習慣を大切になさっています。

 挨拶が終われば、一名ずつ名前を呼ばれて、掃除や給仕、洗濯などの当番やその他雑用の割り当てを告げられます。基本的に前日と何も変わっていない者は省かれます。配置が替わったり、追加で何か仕事があったりした場合はここで名が呼ばれるのです。

 私の今日の予定は、相も変わらず、主に客室と玄関の掃除です。空いたときには、使用人棟の掃除も行います。新参者の宿命です。

「なお、本日は旦那様がお屋敷にいらっしゃいます。気を引き締めるように」

 最後に、スミさんが旦那様方の予定を告げられ、解散していく、というのが、一日の始まりなのです。

「スミさん」

 他の使用人たちがそれぞれの持ち場へとばらばらと散っていく中で、私はスミさんへと近寄っていきました。

「なんです?」

 スミさんは少しばかり驚いたような目をなされました。なぜなら、私からスミさんに話しかけることなど滅多にないことだったのです。

「家族からの手紙が来ましたら、できるだけ早く知らせていただけませんか」

「まあ。何か気になることでも」

 ええ、少しだけ、と私がお答えいたしますと、スミさんはさして追求なさることなく、心得たように頷かれました。

「では、そのようにいたしましょう。お勤めにはげむのですよ、みや」

「はい。よろしくお願いいたします」

 私は、手紙の返信が来るまで、安心できそうにありませんでした。短くなった私の髪のことは、田舎で暮らす養父母にとっては非常識なことに違いないのです。理解などしてもらえるとは限りませんが、書ける範囲で事情を書き送りました。あれから大分経ち、そろそろ返事が来てもおかしくありません。

私は怖いのです。叔父や叔母に、失望されてしまうことが。都会に来て変わってしまった、などと思われたくないのです。次に会ったときに、気を遣われて、他人行儀にぎこちなく接せられたら、私はどうなってしまうのでしょう。

 来るはずの手紙を、私は待ち焦がれるとともに、怯えているのです。

 伏せた顔を、くいと上げました。手紙のことは一先ず片隅にでも追いやらなければなりません。今日も一日、頑張りましょう。




 ここで一つ旦那様、つまり天蔵家現当主、天蔵喜三郎さまというお方についてお話しておこうと思います。旦那様は、ほぼ一代で膨大な財産を成された方です。世の男の方が抱くような立身出世の在り方を地でゆかれても言ってもいいでしょう。銀行、鉄鋼業、製薬業、海運業、貿易業と幅広い事業展開をなし、旦那様自身もかつては衆議院議員として国政にも参加なさっていたとか。私からすれば気が遠くなるほどの人生です。

 その旦那様が日中お屋敷にいらっしゃるのは、実は珍しいことでした。お若い時からむろん、いまもまだ天蔵財閥総帥として現役でいらっしゃる旦那さまは非常に多忙なお方なのです。朝餉を早々にお召し上がりになられますと、仕事用にと別の場所に建てました別邸にでかけられまして、そこで当主としての様々な業務をこなされます。そのままお泊りになられるのもしばしばあり、その他にも別邸にいくわけではなくとも、人に会うために留守にすることや、式典に招かれての外出などで、夜中にお帰りになっていることも多いのです。ですので、給仕でお傍に寄ることはありましても、スミさん以外の方は旦那様がどのようなお方かあまり知らないのです。

 客室を出ますと折悪く、旦那様が廊下を通りかかりましたときも、私は脇によって顔を伏せておりました。旦那様は人よりも幾分か足の運びが遅いので、旦那様が通り過ぎますまでの時は永遠のように感じます。私からしますと、旦那様はこちらを圧倒するような存在感を持っていらっしゃいます。体は小柄といってもさしつかえないほどでありますが、山のようにどっしりと構えております。そうでありながら、なかなかどうしてかその山を無視できないほどに大きく感じてしまうのです。それはきっと、旦那様の瞳にあるように思います。旦那様の目には、私が今まで見ましたどんな方にもないものがありました。強いていうなれば、そこには仄暗い炎が眠っているのです。一たび燃え上がれば、ぐらぐらと周囲を焼き尽くすような炎があるのです。欲しいものは、すべて得てきたからこそ、あの目をしているのでしょうか。それともあの目をしているからこそ、すべてを得られたのでしょうか。そう思うからこそ、私は旦那様を旦那様と思う以上に怖いのです。

「そこのお前、顔を上げてみよ」

 心臓がどきんと跳ね上がりました。遅くとも一定だった足音が途絶えておりました。お着物の裾が視界の端に映ります。

「は、はい」

 顔をあげますと、いまだ衰えぬ強い意志を宿した瞳が私をじい、と見据えておりました。

「優の前でとんでもないことをしでかしたのは、お前であろう」

 旦那様は見慣れない片(かた)眼鏡(めがね)をつけておられました。レンズで歪められた右目だけが不気味に光っております。百貨店のショウケエスの中身を値踏みしておられるような目をなさっていました。

 声は恐ろしく掠れておりましたが、それでも芯が通った、明瞭なお声でした。

 私は旦那様というお方を目の当たりにするほどに、己の身の小ささを思い出し、たじろいでしまいます。

「とんでもないこと、と申されますことが、以前優さまを前に私がしました行為を指しておられるのならば、その通りです」

 するすると言葉じりが細くなっていきましたが、焦れば焦るほどかえって頭だけは冷えてまいりまして、口に出す言葉だけは絶え間なく飛び出していくのです。こんな自分の性分が不思議でなりません。感情に振り回される己がいる一方で、その己を見下ろす別の己がいるのです。

 旦那様は皺を寄せながら、唇を歪めました。笑みを刻んでいるように見えます。ただし、それはきっと嘲笑に近いものだったのでしょう。

「フン。それならばお前以外にないだろう。自分の髪を根っこから切り落とす愚かしい娘がいると聞いていたが、髪はまだまだ残っておるし、存外に平凡に見える」

 私も自分で思うのですが、私は平凡そのものです。容姿が優れているわけでもなし、知性豊かでもなし、特別性格がよろしいわけでもありません。そんな私が、旦那様の目に留まることがあろうとは、思いもしませんでした。もちろん、旦那様のような特別なお方に「平凡」と評されるのももっともなことです。

 私は、旦那さまに同意するように、目礼いたしました。なんと、旦那様はどう気が向いたのか、その場から立ち去ろうとはなさりませんでした。きっと屋敷にいらしても、手持無沙汰な時なのでしょう。

 旦那様は静かに顎(あご)髭(ひげ)の先を撫で続けておりましたが、ふと気づいたように問われます。

「お前、確か名は?」

 粗相のないよう、私は慎重にお答えいたしました。

「みや、と申します」

 旦那様の眼光が鋭く光った、と思ったのはこの時でした。光はまっすぐ私の元へと走ります。虎に睨み付けられたように、私は竦みあがりました。

「よし、覚えておいてやろう。その名をまた耳にするのを楽しみにしておるぞ」

 鋭い牙を持つ老虎は、にやりと笑ってみせたのでした。

 旦那様の後ろ姿は来た時と同じようにゆっくりと遠ざかってゆきます。角を曲がられたのを確かめてしまうと、思わず安堵の溜息を零します。身につりあわぬことをすると、どっと疲れが出てまいりました。しかし、それでも仕事は待ってくれません。スミさんに申し付けられたことをすべてやり通すべく、次の持ち場へ急ぎました。

 

 


 日々の出来事は細切れに確かな印象を残しながら、過ぎ去ってゆきます。キネマのように、降り積もった日々の変化だけを映していれば、さぞかし劇的かと思いきや、その実は冗長な、つまらぬ日々の煌めきを掬いとったものにすぎません。些細なことでも、心を波立たせるものがあれば、忘れぬように仕舞っておきます。小さな函に入れておいて、ふとした折に一人きりで眺めるのです。その美しさを知るのは、私だけ。私だけのもの。独り占めできる愉悦に微笑みながら、私の秘密をまた仕舞いこむのです。

 私にとってそれは、日記という形をしておりました。日記、と言いましても、必ずしも毎日書いているわけではありません。印象深い出来事があるたびに、事細かに書き留めておくだけのものです。例えば、綺麗に咲いた花のこと。己がしでかしたとんでもない失敗のこと。お屋敷での四季折々の行事のこと。使用人との雑談の内容のこと。帝都での最近の流行のこと。家族から来ました手紙のこと。

 小さな日記は、片時も身から離したことはございません。手がすきましたとき、それでいて、近くに誰もいないときだけ。この日記は懐から取り出されるのです。そのために、同室の佐恵子さんでさえ、この日記のことを知らないのかもしれません。

 少しだけ休憩をいただきましたとき、私は誰もいない部屋の中で、日記を出しました。近くにあった鉛筆で、今日ありましたことを書き綴ります。

 旦那様との不思議な会話のことです。旦那様がおっしゃっていたことが気になって、できるだけ正確に旦那様のお言葉を紙に乗せてみます。

 と、いうのもやはり、旦那様の言葉には含みがあったように思うからです。私に何かを期待していらっしゃるよう。それが何か、はわかるはずもありませんでしたが。それとも、気まぐれの類でしょうか。旦那様の真意は、私ごときには推し量れないということなのでしょう。

 一通り書き終わりましたので、一頁ずつ捲(めく)ってゆきながら、最近ありましたことを振り返ってみました。

 私が髪を切りましたあの騒動から、優さまのお言葉、月子さまとのお話、スミさんや金井さんとのお話の内容まで確かに残っておりました。文字と共に、あのときの光景と抱いた思いまで蘇ってまいります。

 私はそっと辺りを見回してから、日記を胸に押し当てて、ほう、と息を吐きます。息とともに何ともいえない満足げな笑顔が浮かべたのは、誰にも言えない秘密なのです。

 日記をそっと元に戻しまして、廊下に通じる扉を開けます。

 すると、視界いっぱいに小麦色が広がっていました。よくよくみれば、それは小麦色のチョッキで、今日の優さまのお召し物だったことを思いだして、はっと視線を上げます。

「まだ掃除が終わっていなかったのか」

 優さまが不機嫌そうな様子で見下ろしてこられて、私は部屋のうちに一歩二歩と退いてから頭を下げました。

「失礼いたしました」

「次から気をつけろ」

 優さまは私のしていたことを知っておられないようでした。そそくさとその場を離れます。そっけなくしていらしたことが幸いでした。あの場で追及されていたら、少なからずぼろが出てきそうでしたから。

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