花は月を見上げている《コミカライズ『帝都の使用人(めいど)は恋染むる』の原作改稿前原稿》

川上桃園

第1話

優(すぐる)さまには美しい婚約者がいらっしゃる。聞いたときにはまさかと思ったのだけれど、相手があの月子(つきこ)さまとお聞きすれば、納得してしまいました。

 

 財閥天蔵家の長男の優さま。荻野(おぎの)侯爵家の次女の月子さま。並べてみれば、お内裏(だいり)さまとお雛(ひな)様(さま)のよう。私のような一介の使用人が言うのも恐れ多いことですが、お似合いの二人です。ただ一つ心配なのは、月子さまの体調のこと。天蔵のお屋敷にいらっしゃるとき、時々お見かけしたのですが、その体の細さや抜けるような色の白さには心もとなさを感じてしまいます。立ち姿は百合のよう。まるですぐに手折られてしまう薄幸の花を思わせます。

「みやさん」

 月子さまは優しい方でいらっしゃる。使用人にも気を遣い、決して無茶な要求をなさらない。私を呼び止める声も遠慮がちで、仕事中の私を困らせてはいけない、と思っていらっしゃるような方なのです。

 この方と私は同じ年の頃であるせいか、しばしばお話する機会もございました。

「何の御用ですか、月子さま」

 月子さまの微笑みに釣られるように私も微笑みます。

「手が空いたら、でいいのだけれど。優さまを探してくださるかしら。わたし、まだこのお屋敷には不案内でしょう。あなたなら、心当たりがあるかと思って」

「でしたら探してまいりますよ。月子さまはそちらの客間でお待ちくださいませ」

「ええ。ごめんなさいね。頼ってしまって」

 申し訳なさそうに両手を合わせた月子さまが客間に入られたのを認めると、私は踵(きびす)を返しました。





 天蔵家は明治、大正と経る間に名もなき庶民から大財閥に名を連ねた一家です。本来なら月子さまの実家であり、華族にも政界にも大きな力をお持ちの荻野家が相手にもしないような家柄でしたが、今回どういう経緯があってか、婚儀をいずれ行うことと相成りました。

 旦那様の財力を当てにしたのでしょうよ、と同僚の佐恵子さんは言っていましたが。けれどそれだけでもないように思われます。だって、月子さまはとてもお幸せそうですもの。優さまを見つめる表情は頬に紅を差したかのようで。

 あの方が若奥様になってくださるのだから、なんて嬉しいことなのでしょうか。私は月子さまのことを思い出し、またもや微笑んでしまいます。

「優さま、いらっしゃいますか」

 優さまの部屋のドアを叩いてみたのですが、返事がありません。こちらの部屋にいらっしゃらないようです。一つだけ、私にも居場所の心当たりがございました。

 

 失礼いたします、と入っていったのは、天蔵家の図書室です。お屋敷とつながる別棟にございます。旦那様は大の古書愛好家として知られております。舶来の書物を含め、希少本の宝庫として、その筋の方々には名を知られているのだそうです。もちろん、入ってまだ一年もたたない新参者には、掃除のときでさえも立ち入ることを許されるわけもなく、私自身入るのは初めてでした。

 

 壁一杯に取り付けられた本棚にはびっしりと本で埋め尽くされております。浅学な私には中身はおろか背表紙に書かれた文字さえ読めないものがあります。英吉利(イギリス)の文字なのでしょうか。いけないとはわかっていたのですが、棚から一冊本を取り出さずにはいられませんでした。

 触ってみれば表紙が手に吸い付くようです。よくよく見れば、動物の皮が張り付いているのです。赤いのは染色したのでしょうか。題名はみみずがのたくったように見えますが、これも文字なのでしょう。壱頁(いちぺーじ)、また壱頁とめくってみた私は、本の中で繰り広げられる冒険の虜(とりこ)となってしまいました。めくるたびに絵がでてきます。

 

 女性が女の子に本を読み聞かせています。服装からすれば、欧羅巴(ヨーロッパ)が舞台なのでしょう。不思議なことに白い兎(うさぎ)は洋装していて、二本足で立っています。女の子はそれについていって、別の国に行ってしまう。本は綺麗に装丁されているようですが、絵も文字もそのまま手書きで書いてあるようで、印刷されているものではありませんでした。

 名残惜しい気持ちで本を閉じます。

「この本はどんな本かしら……文字が読めたらさぞかし面白いのでしょうに」

 無意味な独り言です。誰もいないと思ったからこそ、このように気が抜けたような言葉が出てきたものでしたが、はたしてそれが間違っていたことをすぐるに悟ることになりました。

「A Christmas Gift to Dear Child in memory of a SummerDay……訳すと、『夏の日の思い出を親愛なる子への生誕祭の贈り物に』、というところだな。ちなみに我が家に存在する数多の書物の中でもかなり希少で今後価値が高くなるらしい。お前の給金では返しきれないだろう、残念だ」

 顔から血の気が一瞬で引き、アッ、と本を落としそうになったのを慌てて抱えなおしました。恐る恐る背後を振り返れば、不機嫌そうな声の主、私がお探ししていたはずのお方を見つけました。

 

 優さまは博学なお方です。帝大医学部を首席で卒業され、陸軍軍医として従軍、予備役になられたあとは独逸(ドイツ)や英吉利で遊学されておりました。現在は医者として旦那様の主治医をなさっている傍ら、後継者としてそのお仕事のお手伝いをなさっておいでです。英吉利や独逸、仏蘭西(フランス)などといった国のお言葉を自在に操れるのだとか。経験されてきたことが途方もなくて、私には雲居の方です。

「失礼いたしました。実は月子さまがいらしていて、それで」

 自分でも言い訳めいたことだとわかります。

「ほう。それで探してくるように言われて、ここに来たものの、御用よりも面白そうなものを見つけ、そちらにふらふらと釣られてしまったのか。使用人がその程度の仕事を出来なくてどうする。莫迦か阿呆か。その様子では解雇されても文句は言えまいな」

 優さまは非常に厳しい顔をなされ、私は口ごもってしまいます。

「そ、それはそうなのですが」

 私はなんと浅はかなことをしてしまったのでしょうか。つい出来心でと申し上げるには、あまりにも本が魅力的で、見入ってしまったのです。

 優さまは私の繰り言を聞いてもいない様子でぴしゃりと言葉を吐き捨てます。

「なら解雇だ」

 私は震えあがりました。優さまは使用人に厳しいお方です。今まで優さまの不興を被って、辞めてしまった使用人は何人もいらっしゃるとか。優さまのお言葉もおそらく大真面目にいってらっしゃるのでしょう。

 慌てて取りすがります。

「それは困ります。私、ここで働いて仕送りをしなくてはいけません。お許しください。……やめたくないのです」

 私があらゆる伝手を頼ってありついたのが、天蔵家使用人の仕事です。中学校にいる弟の学費を稼がなくてはなりません。

 

 私の家は元々裕福な名主の家でした。幼いころ、父と母を亡くしたあとは、家は土地を失っていき、零落(れいらく)する一方だったと聞いています。育ててくれたのは、母の弟に当たる叔父夫婦でした。その叔父の家とて決して楽というわけでもありませんでしたが、どうにかこうにか私を女学校まで上げてくれました。そして、隣村の名主(なぬし)の息子との縁談が持ち上がったので、女学校を辞め、花嫁修業に勤しんでいたこともあります。

 

 ですが、相手は式の直前、自分の家の女中と駆け落ちをして、結婚はご破算となりました。女学校に復学してもよかったのですが、結婚直前の破談ともなれば、体裁も悪く、居心地が悪いことはわかっておりました。それに、叔父の息子、つまり本来なら私の従弟にあたる弟の進学のこともございました。弟は村でも評判の秀才で、将来立身出世間違いなし、とも言われております。ですが、私を女学校に入れ続けていれば、高い月謝を払い続けなければなりません。それよりは、私が働きにでて、仕送りをすれば弟は安心して高等学校や大学に進学できます。故郷にいても、私の悪評はすでに広がっており、この先縁談の見込みはございません。だったら、と一念発起してなったのが、お給金のいい、天蔵家使用人なのです。


「たかだか使用人一人とお思いでしょうが、私にとっては死活に関わることなのです。ここはどうか、お見逃しください。この本も、ついつい挿絵に引き込まれてしまって、覗いてしまっただけなのです。私にできることはなんでもいたします、ですから」

「お前に何かしてもらおうとか思わん。自分で大体できてしまうからな」

 フン、と鼻を鳴らされ、優さまは図書室をお出になられました。私は呆然と優さまの出ていかれた扉を見ていましたが、我に返ると慌てて本を元の場所に仕舞いこみ、そのあとを追いかけました。

「優さま、優さま。どうか先ほどの言葉お取り消しを!」

「お前もしつこいな。仕事なら他にもあるだろう」

 仏頂面でそのようなことをおっしゃいますが、優さまのように見識にあふれた方ならともかく、私のような者にはそういうわけにも参りません。

 

 この時代、女ができる仕事は限られております。バスガールなどという女性の職業が増えてきたのはほんの昨今のこと。女学校も満足に卒業できていない私のようなものには選べるほどの仕事がありませんでした。優さまにだってそんな事情はご存じのはずです。

 私は俯いて足を止めました。

 必死の思いも空しく、優さまはズンズン進んでいかれます。

 こういうお方なのです。いえ、天蔵家の方々は皆さま、使用人を都合のよい人形としか思っておられない。命じたことは何でも聞き、拒否することを許されないのです。きっとそれは正しいことなのでしょうが……それでも、わずかでもいいから人形の気持ちを汲み取っていただきたいと願ってはいけないのでしょうか。

「優さま、お尋ねいたします。どうすれば、お許しいただけますか」

 優さまは奇妙なものをみたかのような目で私を振り返りました。戻ってきて、その真意を探るようにじろじろと私をご覧になり、一文字に引き結ばれていた唇に笑みを刻まれたようでした。

「そうだな、お前のやり方は実に効率が良い」

 笑みは笑みでもそれは私に対する侮蔑を込めているのでしょう、優さまのお言葉も嫌味が見え隠れするものでした。私は一歩引いてしまうのを抑えつつ、虚勢を張ってその場にとどまり続けました。

「望まぬものを押し付けるより、相手が求めているものを尋ねる方が余程、俺には有効だ。……では許すための条件を与えよう。お前は、わたしにその身を投げ出せるか?」

 どうだ、できないだろう、とおっしゃりたいような高圧的な視線に晒されます。本気でおっしゃっていないことぐらいはわかります。優さまは使用人を毛嫌いしておられる方。使用人に不用意に触れられたくないからと、自室の掃除もご自分でなさっているほどです。

「わが身を差し出します、とそうお答えするべきなのかもしれませんが」

 それは正しい答えではないように思うのです。私は心の中で呟きました。

「フン。つまらんな。ならば、少しだけ簡単なことにしてやろう」

 優さまは私に興味を失ったようです。投げやりな調子で適当にあしらおうとなさっているのがわかりました。ふとわたしの髪に目を付けます。

「ときに、お前の髪は長いな。その髪を一思いに切ってしまえば、赦そうか」

 三つ編みに編まれた私の髪は結っても腰ほどまで伸びた長いものです。子供のころからずと伸ばし続け、昔は夜毎(よごと)、母や伯母に梳られていたこともございました。だからこそ、優さまも、私が動くたびに揺れる束(たば)を気になされたのでしょう。

 深くお辞儀をしました。

「畏まりました。少々、お待ちいただけますか」

 は、と優さまは目を丸くされるのを横目に、私は近くの部屋から裁ちばさみを持ってまいりました。急繕いですが、後で整えればいいのですから、大丈夫でしょう。

 流石に刃先を三つ編みに近づけたときは、手が震えてしまいましたが、ぎゅっと目をつぶって、一思いに切ってしまいます。ざくりと小気味のいい音がして、手の中に、二つの髪の束が残りました。結い目がゆるゆると手の中で解けていき、ぱらぱらと絨毯のひかれた床に落ちていきます。

 頭が軽くなり、首にちくちくとしたものが当たります。さらりと指の腹で撫でていけば、それは残った毛先の感触でした。もう戻れないと思うと、急に背筋が寒くなりました。まだ手に残る髪の束を改めてみて実感してしまったら、私は泣いてしまうかもしれませんでした。それでも最後の勇気を絞って、俯いた顔を上げて、優さまを見ます。

「これで、お許しいただけますか」

 もう私には蚊の鳴くような小さな声しか出てまいりません。目が熱くなっていくのを懸命に押しとどめようと目に力を入れました。

「あ、ああ」

 優さまは呆然と私を見下ろしております。自分でおっしゃっておきながら、不思議なものです。

 その時、廊下の向こうから声が上がりました。

「みやさん、何をしましたのっ」

 月子さまが動きにくい振袖姿でこちらに駆け寄ってまいりました。短くなった私の髪と、裁ちばさみ、かつて三つ編みだった髪の束と、優さまを見やります。

 微笑みを貼り付けて、私は何のこともないように、月子さまに頭を下げます。

「申し訳ございません、お騒がせいたしました。すぐに片付けてまいりますので」

「そんなことはいいのです!……首から少し血が出ているわ。可哀想に」

 月子さまは袂から白いハンケチを取り出して、私の首にまかれます。その際に、ふわっと花のような香りが漂い、陶然としてまいります。

 きゅっとハンケチで結び目をつくった月子さまは、心配そうに私の顔を覗き込まれます。

「髪は女の命でしょう? それを切ってしまうなんて……。何があったのです」

 モダンガアルなる断髪の先進的な女性が出てきたのもつい先ごろのことです。髪は長い方が普通なのです。月子さまに言われてしまうと、やはり大事なものを喪失したような寂しさを感じます。私だって、好んで切ったわけではないのです。

「何も、何もございませんでした」

 白々しい嘘だと自分でも思いましたので、月子さまはなおさらのことでしょう。それでも私は言葉を連ねます。

「最近髪が重くなってまいりましたので、思い切ったことをしてみたくなっただけなのです。そこへたまたま優さまが居合わせていただけなのです。驚かせてしまって申し訳ありません」

 私は早口で言いつのりました。

 なおも言いたげにしていらした月子さまでしたが、私は一刻も早くその場を立ち去ってしまいたかったのです。条件として出されたとはいえ、実行したのは私です。元凶をつくったのも私です。自分でしておいて、無性に悲しくなるのもおかしなことです。

「失礼いたします」

 クルリと背を向け、逃げるようにその場に立ち去ることしか、私には出来なかったのです。

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