姉妹、機略を巡らす

全編

 わたしには好きな人がいる。

 幼馴染の瀬戸七海だ。

 気が付いたら彼女の事を考えてしまう。

 本を読むときのぴんと伸びた背筋、吸い込まれるような鳶色の瞳、瑞々しい桃色の唇、凛々しく澄んだ声。それらすべてがわたしの胸を高鳴らせる。

 わたしが彼女への恋心を自覚してから三年。戦況は膠着状態のまま時は過ぎ、わたしは高校二年生になっていた。

 どうすればいいんだろう。このまま何をしないでいると彼女に恋人ができてしまうかもしれない。

 焦燥に胸を焼かれながら過ごしていたわたしは、思いあまって普段はあまり話さない姉に相談した。

「好きな人がいるんだけど、どうしたらいいと思う?」

 自室でげらげらと笑いながら古いギャグマンガを読んでいた姉からは、とても簡単な答えが返ってきた。

「そんなの、押して押して押しまくるのよ。想いは言わなきゃ伝わらないんだから」

 なるほど、そりゃそうだ。流石は我が姉、わずか二年とはいえ人生の先輩の言葉には学ぶべきところがある。これで笑い声が下品でなければもっと尊敬できるのに。

「お姉ちゃん、わたしはやるよ」

 神算鬼謀の姉の助言にいたく感心したわたしはそう宣言し、わたしの戦いは始まったのだ。



 翌日の朝、登校したわたしが教室に足を踏み入れた時、七海は自分の席で本を読んでいた。

 今日も綺麗だな、と思いながら、わたしは周りの友人に挨拶をして自席へ向かう。隣に座る七海もわたしに気が付いて顔をあげた。

「おはよう、亜希」

「おはよ、七海。なに読んでるの?」

「なんだと思う?」

「うーん・・・分かんない」

 一瞬で諦めたわたしを見て七海が微笑んだ。七海の笑顔が見られるなんて、今日は朝からラッキーだ。

「梶井基次郎全集。『檸檬』とか『櫻の樹の下には』とか、知らない?」

「知らない。面白いの?」

「さあ、今のところあんまり。でも自分の心の中でとぐろを巻いてる良く分からない感情に名前がついたみたいでなんだか不思議な感じ」

「ふうん。そうなんだ」

 七海の言ってることはよく分からなかったが、とりあえずわたしは頷いて机に荷物を置いた。なんであれ七海が笑顔になるならわたしには何の文句も無い。

「ところで亜希、数学の課題はできたの?昨日の夜はラインで『ヤバそう』ってメッセージが来てたけど」

「それですよ、七海さん」

「どうしたのいきなり」

「教科書と一時間くらいにらめっこしてたらなんとかなった。えらいでしょ」

「偉い偉い」

 わたしが頭を差し出すと、七海の柔らかな掌がわたしの髪を優しく撫でてくれた。包み込むようなその優しさに身を任せながら、わたしは彼女に話さなければならないことがあったのを思い出した。

「ところでちょっと言いにくいんだけど・・・」

「なに?」

「数学はなんとかなったんだけど、そこで力尽きちゃって化学の宿題がさっぱりだったんだよねえ。もし良かったら教えてくれたらなー、なんて」

 両手を合わせて拝んだわたしの額を、七海は『仕方ないなあ』と言いたげな苦笑いを浮かべて人差し指でつんと突いた。

「仕方ない。この間おいしいケーキ屋さんを教えてくれたお礼だ」

「ありがとー!七海、大好きよ!愛してる!」

 わたしは七海に抱き着いて、愛の告白を叫んだ。

 勝った。

 鵯越の逆落としもかくやというこの不意討ち、如何に七海が鈍感でも心を打たれるに違いない・・・。

 しかし、わたしの確信に反して七海は呆れたように笑いながらわたしを見ていた。

「はいはい、それはもういいから。で、化学で分からないのはどこ?」

 柳の枝が風にそよぐように七海はわたしの熱情を受け流して、鞄から化学の教科書を取り出す。

「ええと、この問題」

 あまりにも普段通りの七海の態度に、わたしも少し冷静になって化学の宿題に取り組んでしまった。

 しかし、一度の失敗でめげるわけにはいかない。それからも機会のあるごとにわたしは七海に想いをぶつけた。

 体育の着替え中に。

「さすが七海、スタイルいい。好きよ」

「はいはいありがとう」

 昼の食事中に。

「七海、あーんして。食べさせてあげるから」

「いいよそんなの。自分で食べられるから」

 下校途中に。

「七海、伝えたいことがあるんだけど」

「随分と改まって、なに?」

「わたし、あなたのこと好きよ」

「朝からそんなことばっかり言ってどうしたの?それよりも土曜日に映画見に行こうよ。楽しみにしてたやつが封切なのよ」

 わたしの熱い言動は七海に尽くスルーされ、打てども響かぬ状況のままわたしは失意の内に帰宅した。

 作戦、失敗。



 論語に曰く、『過ちて改めざる、これを過ちという』。

 世の中の意識高い系の人々が好きな言葉にPDCAサイクルなる言葉があるそうだが、そんなハイカラな言葉を使うまでもなく古代の哲人が良い言葉を言っている。国語の便覧に書いてあった。ま、横文字に憧れを抱く気持ちはわたしにも分かるのであんまり批判はできないんだけど。

 閑話休題。

 失敗したからには失敗から学ばねばならない。

 そういうわけでわたしは再び不肖の姉に相談を持ち掛けることにした。

「ねえお姉ちゃん、言われたとおりに思い切り告白しまくったけど全然ダメだったよ」

 リビングでシュークリームを頬張りながらインターネットで大食い動画を見ていた姉は、少し顔をしかめてわたしを見た。

「おかしいわね。あたしの計算じゃあそれで落ちない相手はいないんだけど」

 自信満々の姉だが、わたしは知っている。彼女が高校時代に数学のテストで毎回致命的な計算間違いをしていたのを。そもそも彼女に恋人がいたことが一度でもあっただろうか。少なくともわたしは寡聞にして知らない。

「なにか他にやり方はないかなあ」

「任せなさい」

 姉はシュークリームを一気に口に詰め込むと、それをお茶で流し込んで口を開いた。なんて品が無いんだろう。わたしもよくやるけど。

「いい?今回の事を伏線にするのよ」

「伏線?」

 気障ったらしく人差し指を立てた姉に、わたしが怪訝な表情を向けたのも無理からぬことだろう。

「押してダメなら引いてみろって言うでしょ。今度は一転して素っ気なく接するのよ。そうすればあっちは寂しくなってひっついて来るって寸法よ」

「なるほど」

 流石は我が姉。わずか二年とはいえ人生の先輩の言葉には学ぶべきところがある。これで口の端にクリームが付いていなければもっと尊敬できるのに。

「お姉ちゃん、わたしはやるよ」

 機略縦横の姉の助言にいたく感心したわたしはそう宣言し、次なる戦いが始まったのだ。



 翌日の朝、登校したわたしが教室に足を踏み入れた時、七海は自分の席でスマホの画面を見詰めていた。

 周りの友人に挨拶をしながら自席へ向かうと、七海もわたしに気が付いたようで顔をあげた。

「おはよう、亜希」

「おはよ」

 七海が何を見ているか気になったが、わたしは努めて冷めた態度でそれだけ言うと、さっさと自分の席に座って荷物を置いた。

 七海は少し怪訝そうにわたしを一瞥したものの、結局何も言わずにスマホに視線を戻した。視界の端で彼女の様子を窺っていると、誰かとメッセージをやりとりしているらしく、白魚のような細く美しい指が画面の上をすいすいと往復している。

 わたしたちは何も話さないままチャイムが鳴り、授業が始まった。

 授業の合間の休み時間も七海を避けていると、わたしはどんどんと寂しい思いが募っていく。しかし今が我慢のしどころだ。これを乗り越えれば、きっと七海の方が寂しくなってわたしに甘えてくるに違いない・・・。

 昼休みには教室からそそくさと出て、誰もいない校舎裏で寂しくパンをかじった。

 教室の移動がある授業でも、独りでさっさと廊下にでた。

 だが。

「おかしい」

 わたしは誰にも聞こえないくらいの小声で呟いた。

 時は既に放課後になって、周囲のクラスメイトたちは続々と教室から去り始めている。わたしもいい加減に部活へ行かないといけない。

 誤算は七海だった。

「なんでいつも通りなの?」

 目論見も虚しく、隣の七海は結局最後まで顔色一つ変えずに平気な顔で過ごしていた。その間、七海とわたしの会話はゼロだった。

「じゃあね、亜希」

「あ、うん・・・」

 七海は短い別れの言葉を残して、あっさりと教室から出て行った。わたしはこんなに寂しいのに。

 わたしにはその背中を無力に見送ることしかできなかった。

 作戦、失敗。



 荘子に曰く、『外の曲なる者は、人と之徒たるなり』。

 人と仲良くなりたいのなら礼儀正しく接するべきである、という意味らしい。国語の便覧に書いてあった。

 恋の駆け引きというものに溺れ、人間関係の基本をおろそかにしていたわたしはなんと愚かなのだろう。

 というわけで、わたしは三度姉の下を訪れた。

「お姉ちゃん、全然ダメだった。ていうか多分逆効果だったと思う」

 自室のベッドで怪しげな筋トレグッズを使っていた姉は、心底不思議そうに首を傾げた。

「おかしいわね。あたしの経験則に従えば、相手は泣いて足元にすがりついてくるはずなのに」

 わたしはそろそろ姉に相談するのにも懲りてきて、姉のやたら自信に満ちた態度にも疑念のこもった目を向けていた。

 それを知ってか知らずか、姉は持っていた筋トレグッズを放り出すと、コスメボックスを開いて中をひっかきまわし始めた。

 ちょっとは整頓したらいいのに、と思うほどぐちゃぐちゃの箱の中から姉が取り出したのはワインレッドの口紅だった。

「これつけて行きな。大人の魅力で悩殺よ!」

 胸を張る姉には悪いが、わたしの口から出たのは感謝の言葉ではなく深い溜息だった。

「お姉ちゃん。大学はどうか知らないけど、うちの高校にそんなドギツい色の口紅つけて行ったら即生徒指導室送りだよ」

 自分だってかつては高校生だったのに、もう忘れてしまったのか。

「窮屈ねえ、JKってやつは」

 唇を尖らせた姉だったが、ふと何かに気付いたようにわたしを見た。

「そういえば、あんたの好きな人ってどんな奴?」

「どんなって・・・綺麗で優しい人よ」

「なにそれ?どんな男子よ?」

 姉の言葉に、わたしはなるべく表情を変えないように努力が必要だった。

「男子じゃなくて女子よ。・・・変かな?」

 わたしが平静を装って問い返すと、姉は全くどうでもよさそうに口紅をコスメボックスに放り投げた。

「別に。誰が誰を好きになろうとその人の自由でしょ」

 当然のようにそう答えてくれたのがわたしは嬉しかった。

 当てにならないアドバイスしか言わない姉だけど、わたしはこういうところが好きでいつも彼女に相談しているのだ。

「しかし女子かあ。それならあたしの恋愛指南が役に立たないのも仕方ないわね」

 いや、それは関係ないと思う。

「とにかく次の作戦を授けるわ」

「信用できるの?」

「できるに決まってるでしょ。いい?これまでは相手への態度を変えてきたでしょ?くっついたり離れたり」

「そうね。我ながら結構極端な変化だったと思う」

「今度は自分の挙措全てを変えるのよ。名付けて作戦名『変幻自在:昨日までの私よサヨナラ。淑女に生まれ変わった私を見て』!」

「つまり?」

 わたしの冷めた目にも姉の自信はそよとも揺るがない。ある意味幸せな人間だ。

「あんたの言動全てを気品ある大人の淑女のものに変えなさい」

「どうして?」

「大人への憧れは誰しもが持ってるものよ。あたしもそうだった。あんたが淑女然とした振る舞いをすれば、件の彼女も心を揺り動かされること間違いなしよ!」

「本気で言ってんの?」

 大人への変化というものは、いつの間にか始まり緩やかに進んでいくものではないだろうか。少なくともその辺の高校生が、ある日突然『大人の淑女の態度』になるというはなかなか想像がつかない。

「あんたねえ、その子のこと好きなんでしょ?」

 渋る私に姉が眉を吊り上げて顔を近づけた。

「好きならなんでもやってみなさいよ。ダメならまた別のやり方を考えればいいんだから」

 まあそれもそうか。

 我ながら流されやすいことだが、結局わたしは今回も姉の言う通りにすることにした。

「まあ、とりあえずやってみるよ」

 わたしは過去二回の作戦とは違い、ややテンション低くそう言って姉の部屋を後にした。



 その翌日、わたしは静々と歩きながら教室に入った。

 物音を立てずに自席に座ると、隣の七海が読んでいた本から顔を上げた。

「おはよう、亜希」

「おはようございます。七海」

 わたしはいつもよりゆっくりとした口調で答え、柔らかな微笑みを浮かべた、つもりだった。が、うまくいった自信は無かった。

 それを裏付けるように、わたしを見る七海の目には不審の色がありありと浮かんでいる。

「・・・どうしたの?」

「別にどうもしませんよ。何かおかしいかしら」

 微笑みを維持したまま答え、わたしは優雅(だと自分では思っている)な仕草で鞄から教科書を出した。我ながら淑女のイメージが貧困だが、なにせ他に思いつくものが無かった。

 しかし七海の顔は怪訝な表情のままでわたしを見つめている。

「風邪でもひいたの?」

「あら、まさかそんなことございませんことよ。うふふ」

「・・・何が目的かは知らないけど、あんまり変なことにならないうちにやめた方が良いよ」

 呆れたように忠告してくれた彼女の様子を見るに、どうやら今回の作戦もあまり効果はなさそうだ。もともと、あまり期待はしていなかったけれど。

 そのまま優雅な態度を維持して一日を過ごしてみて分かった事がある。

 これは無意味だ。

「やっぱダメだよ、お姉ちゃん」

 帰りのホームルームの最中、わたしは担任が連絡事項を話すのをシカトして机に突っ伏しながら静かに呟いた。

「何がダメなの?」

 わたしの呟きを聞きつけた七海が、笑いをこらえたような不思議な表情で尋ねた。

「なんでもございませんわ」

「それ、もうやめたら?」

 慌てて体を起こしたわたしに、彼女は肩をすくめて見せた。呆れる気持ちはよく分かる。かくいうわたしも自分に呆れている。

「・・・やめるよ。いつも通りにする」

「うん。それがいい」

 わたしの言葉に七海が頷いたところで丁度ホームルームが終わり、周りの生徒達も帰り支度を始める。

 俄かにうるさくなった教室の中でわたしも鞄にノートと教科書をしまい始めると、七海が机に頬杖を突いてわたしの顔を覗き込んだ。

「で、いったい全体どういうつもりでそんな不思議なことをしてたの?ていうか、最近ずっと変だったよね」

 七海の方はわたしの変化にも全然態度を変えなかったのに、きっちり見透かしていたらしい。

 ここまで来ると隠すのも馬鹿らしくなって、わたしはさっさと白状することにした。

「わたし、七海の気を引きたかったの」

「どういう意味?」

 小さく首を傾げた彼女は妙に可愛らしくて、見惚れてしまいそうになる。

「前にも言ったけど、わたし、あなたのことが好きなのよ」

「だから気を引きたかったってこと?そんな小学生みたいなことしてたの?」

「そうよ」

 七海は一瞬ぽかんとした顔をしたが、こらえきれないように吹き出すとすぐに大きな声を上げて笑い出した。幼稚なことをしていた自覚があるだけにわたしの表情は渋いものになる。

「そんなに笑わないでよ」

「ごめんごめん。だってそんなことするなんて思わなくって。あーおかしい」

 目じりに涙さえ浮かべて笑う七海をわたしが軽く突いても、彼女は依然として肩を震わせていた。

「もういい」

 唇を尖らせてそっぽを向くと、ようやく七海が笑うのをやめた。

 そして彼女はじっとわたしを見ていたかと思うと、わたしの耳元に顔を近づけてそっと囁いた。

「そんなことしなくても、ずっと亜希を見てるよ。私も亜希のこと好きだから」

「・・・ホントに?」

「ホントだって。亜希がひっついて来た時は嬉しかったし、素っ気なかった時は寂しかったもの」

「・・・でも、七海の『好き』はたぶんわたしの『好き』とは違うよ」

 わたしが少し自棄になってそう言うと、七海はわたしの肩に手を置いた。

「同じよ。証拠、見せてあげる」

 言うが早いか、彼女の唇がわたしのそれに重なった。

 あまりの衝撃に周囲の喧騒が遠くなり、わたしは完全に硬直して信じられないものを見る目で七海の顔を見詰めた。視界の隅では、後ろの席のクラスメイトもぎょっとした表情で固まっている。お騒がせして申し訳ない。

「これで分かった?私たち、両想いだって」

 七海の笑顔はいたずらに成功した子供のようで、わたしは糸の切れた人形のようにかくかくと頷くしかない。

「これからは妙なことしなくていいからね。さ、部活行こうよ」

 七海は何もなかったかのように席を立つと、さっさと教室を出て行ってしまう。放心状態だったわたしは慌ててその後を追って廊下に出る。

 わたしが追い付いたところで、七海はふと何かを思いついた表情で振り返った。

「亜希、手を出して」

 言われたとおりに右手を差し出すと七海の左手がそれに重なり、指先を彼女の体温が包んだ。

「折角だし手をつないで歩こう」

 そんなことを言われては頷くほかにないだろう。

 わたしは自分の頬が赤くなるのを自覚しながら、七海と並んで廊下を歩いた。

 その最中、わたしはぼんやりと考えていた。

 作戦は成功ということになるのだろうか、と。



 荘子に曰く、『人を愛するや已むことなし』。

 愛を得たわたしは今、寛容の心に溢れている。だからこそ、七海と想いが通じ合う経緯を話した時の姉の態度にも腹は立たなかった。

「やっぱあたしの言う通りにしたら上手くいくのよ。恋愛マイスターの姉に感謝しなさい」

 偉そうにそう言ってふんぞり返っている姉の姿すら、今のわたしには愛おしい。

「ところでお姉ちゃん」

「何よ?」

「お姉ちゃんはいつになったら恋人ができるの?もしよかったらわたしが上手くいくように作戦を考えてあげるよ」

 わたしが優しく微笑んでそう言うと、姉は心底嫌そうに顔をしかめてわたしに背中を向けた。

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