第43話 敏感すぎる感受性

僕は、共感能力が低いと言われることが多い。人の気持ちを察することや、誰かの立場に立って考えることが苦手だ。けれど、その一方で、感受性はとても高い。特に、人の表情の変化や声のトーン、感情の動きには、普通の人よりも敏感に反応してしまう。だから、人との関わり合いが時にとても疲れるものになることがある。


誰かと話している時、その人の表情が少しでも曇ると、「何か悪いことを言ってしまったのだろうか」と不安になる。声のトーンが変わったり、言葉の間に微妙な間ができると、「今の言葉が相手を傷つけたのかもしれない」と、過剰に気にしてしまう。相手の感情が自分に向けられているわけではなくても、その微妙な変化に反応してしまう自分がいて、心が疲れてしまう。


特に、映像から伝わる感情にはとても敏感だ。映画やドラマの中で、主人公がいじめられているシーンや、悲しい出来事が描かれていると、それをただ見ているだけなのに、自分がその場にいるかのような感覚に陥る。まるで自分自身がその痛みや苦しみを経験しているかのように、心が締め付けられることがある。


例えば、ドラマで主人公がいじめられているシーンを見ると、いつの間にか自分がその主人公になりきってしまう。彼が感じているであろう苦しみや孤独感が、自分の心に重くのしかかってくるのだ。画面の向こうで起きていることなのに、その感情がまるで自分のもののように感じられてしまい、胸が痛くなる。


感受性が高いことは、時に大きな負担になる。映像で見ているだけなのに、まるで自分がその世界の一部になってしまったかのような錯覚を起こし、その感情に巻き込まれてしまうのだ。例えば、悲しいシーンや緊張感のある場面を見ていると、自分の心臓がドキドキしてしまったり、涙が溢れてしまうこともある。現実の出来事ではないとわかっていても、その感情に圧倒されてしまう。


この敏感すぎる感受性は、普段の生活の中でも影響を与える。例えば、誰かが大きな声で怒鳴っているのを聞くと、その怒りのエネルギーが自分に向けられているかのように感じてしまい、体が萎縮してしまう。また、悲しいニュースや、人が苦しんでいる話を聞くと、それが自分のことのように辛くなってしまい、その感情を引きずってしまうこともある。


感受性が高いということは、他者の感情に敏感であることを意味する。けれど、その感情を自分の中でどう処理すればいいのか、うまくわからなくなってしまうことがある。自分の感情と、他者の感情の境界が曖昧になり、どこまでが自分の感じていることなのかがわからなくなってしまうのだ。


それでも、感受性の高さは、自分にとって悪いことばかりではないとも思っている。美しいものを見た時や、感動的な瞬間に触れた時、その感情がとても深く心に響く。小さな喜びや美しさに気づくことができるのも、感受性が高いからこそだと思う。感情の波が激しいことで、時に苦しくなることもあるけれど、その分、心が豊かであるとも感じている。


僕は、自分の感受性の高さを受け入れ、それとうまく付き合っていく方法を見つけたいと思う。他人の感情に圧倒されることがあっても、それを自分の中で消化し、少しずつでも心のバランスを取れるようになりたい。そのために、自分の感情を大切にし、無理をせずに向き合っていくことが大切だと思う。


映像の中の感情に心を揺さぶられても、その感情を自分のものとして抱え込まずに、少しずつ手放すことができるようになれたら。感受性が高いことは、僕の一部であり、それを否定するのではなく、大切にしながら生きていきたい。そして、心が揺れるたびに、自分自身に「それでも大丈夫だよ」と優しく語りかけることができるようにしていきたい。

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