本編
第1話
膝を擦りむいて泣いた。
急いで家に帰ろうとして、夕闇から逃れるように、ランドセルを揺らして走っていたら。
ころんで、血が出た。
思えば幼い頃から、私が泣き虫で意地っ張りだったのは。
私に、親と呼んでいい人が居なかったから、かもしれない。
孤児院の院長先生に、一度だけ、私が赤ちゃんの時の写真を見せてもらった事がある。
可愛い真っ白なベビードレスを着た私を、大人の人が抱っこしていた。
赤ん坊の私を抱いている大人の人の顔は、写真から見切れていて分からないけれど。
首から、白い紐のペンダントをかけていた。
私を抱っこしている写真の中のこの人が、私の親なのかもしれない。
今日はハロウィン。
孤児院ではきっと、もうパーティーの準備が始まっているだろう。
なのに沈む西日に怯えているのは、学校でクラスの子から、指を差してこう言われたからだ。
「ハロウィンって、お化けが出るんだって! お前は守ってくれる親が居ないから、絶対お化けに連れて行かれる! 明日から学校もう来れないな!」
お化けに捕まると、どうなるのだろう。
そんな事は分からなかったけど、とにかくその時の私は、ハロウィンのお化けがとても怖かった。
地面を滑って、膝から滲む血を見た時、私はもう走れないと思った。
お化けに捕まるのはとても怖いけれど、膝がとっても痛くて、痛くて。
大声で泣く私に、突然男の人が話しかけてきた。
「泣かない、泣かない。大丈夫だよ。こんな傷にお嬢ちゃんは負けないだろ?」
地面の上に、ぺたんと座り込んでいた私の前にしゃがんで、男の人が優しく言った。
びっくりした私は、泣くのをやめて、男の人の顔をじっと見つめる。
とても地味で、冴えない顔だ。
柄の無い青緑色の服には、所々黒いシミがついていて、ちょっと汚い。
軍手をはめている両手は、すごく大きかった。
「おじちゃん、だれ? ふしんしゃ?」
隠れるように体を小さくして尋ねたら、男の人は少しがっかりしたみたいに笑う。
「まだおじちゃんとは呼ばれたくないなぁ」
「じゃあ、おにいさん?」
「うん。お嬢ちゃんは賢い子だね」
そう言いながら頭を撫でられて、私は心がぽっと温かくなった。
お兄さんの手は、すごく固くて、やっぱりとても大きかった。
小学三年生、まだ九歳だった頃の私。
初めて、あの人と出会った。
あの後、すぐにまた走って孤児院に帰ったけれど、私はあの人の事を忘れはしなかった。
私の頭を撫でてくれた、固くて大きな手を、時々思い出しながら夜眠る。
クラスの子から、嫌な事を沢山言われたけど、学校では泣かなかった。
私は簡単に負けたりしないし、嫌な事を言われて一々相手にしない賢い子だから。
そうやって過ごしている内に、嫌な事を直接言われなくなった。
私の方を見て、こそこそ、こそこそ、みんな話している。
ちっとも良い気持ちじゃなかったけれど、見て見ぬフリをして過ごした。
だって、私は賢い子で、簡単に負けない子だから。
頑張って学校に通って、宿題も一人で頑張って、また一年が過ぎる。
小学四年生、私が十歳の時のハロウィン。
夕焼けをぼんやり眺めて、孤児院へ帰る。
あの人が、去年とちっとも変わらない声で、私に話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、久しぶりだね。元気だった?」
お兄さんは、やっぱり地味で冴えない顔をしてる。
シミのついた青緑の服と、大きな手には軍手。
爽やかに笑っているんだろうけれど、ちっとも格好よくなかった。
「お兄さん、こんにちは」
「こんにちは。少し背が伸びたね。一人でぼんやり歩いてたけど、どうしたの? 悲しい事でもあった?」
お兄さんは私の前まで来ると、私と目線を合わせるように、膝に手をついて話しかけてくる。
お兄さんの襟元から、何かの細い黒色の紐が見えた。
「悲しいことなんてない。いつも同じだもん。わたしは、かしこいから一人がいいの」
背負っているランドセルの肩ベルトを、両手できゅっと握りながら答える。
お兄さんは私の顔をそっと覗き込みながら、そうかと呟いた。
適当な相槌をされたと思った私は、眉を吊り上げて、お兄さんの横を通り過ぎる。
「もう帰っちゃうの? またねアヤカちゃん」
名前を呼ばれた私は、お兄さんの顔を見ずに、少し立ち止まって小さな声で言った。
「・・・・・・またね」
私が、いつお兄さんに名前を教えたのかを疑問になったのは、孤児院に帰って来てからだった。
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