【短編】辺境伯はお犬様を溺愛中!
和泉
第1話
「ありがとう、リッキー」
介助訓練中のラブラドル・レトリーバーから新聞を受け取った結実はうれしそうに微笑んだ。
結実は新米の介助犬訓練士。
子供の頃から犬が大好きで、いつか動物に接する仕事をしたいと思っていた。
この春に専門学校を卒業し、やっと介助犬訓練士として第一歩を踏み出したところだ。
「あれ? 地震?」
足元から響く地鳴りに結実は辺りを見回す。
不安そうなリッキーを落ち着かせるため、結実はまだ1歳のリッキーを優しく抱きしめた。
すぐに収まるだろうと思っていた地震は経験した事がないほど大きく、身体が振り回される。
地震が起きたら安全な場所に移動すると習ったのに、震える身体は全然いうことをきかなかった。
ぐらつく家具、勝手に開く引き出し。
「逃げて!」
倒れる本棚に驚いた結実は、グイッとリッキーを押し出す。
上から降ってくる本が頭や背中に当たり、あまりの痛みに結実は倒れ込んだ。
懸命に結実の袖を咥えて助けようとするリッキーがキュゥンと悲しそうな声を出す。
「……リッキー、無事で、よかった」
まだ揺れが収まっていないから、早くリッキーを抱きしめて安心させてあげないと。
早く外に出て、安全な場所に避難しないと。
頭ではわかっているのに、おかしいな。
全然身体が動かない。
本棚の下敷きになった結実はそのまま帰らぬ人となった――。
「……って、あんまりじゃないですか!」
結実は自分が死んだ状況を見ながら、目の前にいる女神と思われる幻想的な女性に抗議した。
「やっと介助犬訓練士になれたのに! まだ3ヶ月ですよ、3ヶ月!」
3本の指で3ヶ月を表現しながら力説する結実に、女神はふわっと微笑む。
『いぬ を たすけて くれて ありがとう』
その微笑みは絶世の美女。
少し透けた身体と、ウェーブがかかった綺麗な金髪に宝石のような青眼。
そして後光が射す姿は「女神なのだろうな」と思わざるを得ない。
いや、相手が美人でも、私は不当を訴えますよ。
やっとリッキーが新聞をテーブルから持ってこれるくらい成長したのに。
『おねがい わたし の せかい も すくって』
「それは、どういう……」
結実は眩しい光に思わず目を閉じる。
次の瞬間、結実は全力で拒否するべきだったと後悔することになった――。
◇
「ルーク、もうこれ以上は」
瘴気漂う森の中、チャーリーは隊長ルークに息苦しさを訴えた。
「やはり瘴気の森が広がっているな」
手元の瘴気測定器はMAXの赤。
隊長である辺境伯ルークはこれ以上進むのは無理だと断念した。
「よし、急いで戻るぞ」
ルークの合図で調査隊は全員急いで引き返す。
「……おかしいな」
来た道を引き返せば瘴気は薄くなっていくはず。
だが、なぜか瘴気測定器は赤色のままだった。
「ぐっ」
「……うぅ」
苦しそうに首を掴みながら顔を歪ませる隊員たち。
ルークは胸元から研究中の中和剤を取り出し、地面へ叩きつけた。
「長くは持たない。すぐに倒れた隊員を担いで森の外へ!」
こんな時、犬がいれば……。
ルークはグッと拳を握った。
犬は女神の遣い。
犬は瘴気を避けてくれる貴重な存在だ。
だがこの国にいた最後の犬は5年前に高齢で亡くなってしまった。
他の犬たちはすべて隣国のレイド国に奪われ、現在この国に犬は1頭もいない。
「隊長、帰り道がわかりません!」
「目印は?」
「それが、目印が見つからなくて」
思ったよりも濃い霧のせいで道を間違えたのか。
このままでは全員の命が危ない状況にルークの背中に冷や汗が流れる。
ルークは予備の中和剤を地面へ投げつけると、周りの木に目印がないか自分の目で見て回った。
ロータス国と隣国レイド国の間には『瘴気の森』と呼ばれる大きな森がある。
この森を含む辺境を任されているのがルークだ。
本来なら辺境伯は父が務めるべきだが、長年瘴気に晒された生活をしていたせいで、今では起き上がることさえできなくなってしまった。
父が存命にも関わらず、わずか22歳のルークが辺境伯となったのは極めて異例のこと。
それだけ瘴気は国にとっても厄介なモノだった。
「こっちだ。ここに目印が……」
振り返ったルークは目を見開いた。
「ルークだけでも逃げろ」
「隊長、俺たちはここに置いて行ってくれ」
「何を弱音を! 全員で戻るぞ、絶対に!」
瘴気測定器は黄色。
倒れた隊員たちも今ならまだ助かる。
ルークは今にも意識を失いそうな幼馴染のチャーリーの腕を肩に回す。
まだ歩ける隊員たちは意識のない仲間を引き摺りながら進んだ。
どうすればいい?
彼らを置いて自分だけ逃げるなんてしたくない。
だがこのままでは全滅だ。
……女神よ。
どうか、我らに加護を。
どうか、彼らを助けてください。
神なんて信じていない。
こんな時だけ、縋るなんてどうかしている。
それでも祈らずにはいられない。
「……犬さえいれば」
犬さえいれば彼らは助かるのに。
自分の判断が一歩遅れたせいで。
眉間にシワを寄せながら、悲痛な声でつぶやくルーク。
幼馴染のチャーリーは「ルークのせいじゃない」と小さな声で答えた。
「……なんだ?」
「この光は?」
まるで天から迎えが来たかのような光に調査隊は目を細める。
光の中には金髪の女。
透けた姿は幻想的で、女神ではないかと錯覚する。
光はそのまま小さな丸になり、地面へとたどり着いた。
「は?」
光の中には小さな生き物。
大きくてまんまるな目にふさふさな毛をした小さな犬。
「……犬?」
「ルーク、瘴気が……」
犬を中心に、瘴気の霧がいっきに晴れていく。
犬は瘴気を避けるもの。
犬の周りだけ瘴気がなくなり、犬を連れて歩いていれば瘴気が近づかないと言われている。
だが、この犬はまるで瘴気を祓っているかのように、どんどん瘴気が消えていく。
目の前で起きた意味が分からない現象に、ルークとチャーリーは顔を見合わせるしかなかった。
「キャン!」
ねぇ、ちょっと女神様。
確かに私は犬が好きです。
子どもの頃から大好きです。
「キャウ!」
だからって、自分が犬になりたかったわけじゃありません!
このふさふさの小さな足、小型犬ですよね?
靴下を履いたみたいな先だけ白い足は可愛いですけど!
「キャウ、キャウ!」
それにここはどこですか?
森にいきなり落とすってどういうことですか?
なんでイケメン同士が肩を組んでいるんですか?
なんであの後ろの人たちは倒れているんですか?
「キャウ!」
ねぇ、絶対ヤバいところに落としましたよね?
これは一体どういうこと~!?
短い足を地面に叩きつけながら吠える小さな犬。
「あれは怒っているのか?」
「きっと怒ってるね」
ルークが犬を指差すと幼馴染のチャーリーは、犬を見ながら苦笑した。
「なんか、ビックリするくらい気分が良くなったんだけど」
チャーリーはルークの腕を外し、一人で立つ。
「隊長、俺も苦しかったのが嘘みたいに」
気を失った隊員以外、苦しそうだった隊員たちの顔色が戻っている。
「……どういうことだ?」
瘴気に侵された人まで救えるなんて。
そんな話は父から聞いたこともない。
それに、犬になる前は金髪の教会の壁画に描かれた女神のような姿だった。
神なんて信じていない。
だが、本当に女神が実在して、俺たちを救ってくれたのか……?
ルークが犬の首の後ろをヒョイッと掴むと、ルーク以外の全員が慌てふためいた。
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