第17話
――可愛いなぁ。
クローブはボビンを繰る実ノ里を間近で見詰めながら、ニマニマとしていた。
19時半ごろ帰ってきたのだが、実ノ里の様子を聞くとレース編みに夢中だという。そっと部屋に入ったら、実ノ里はレースに集中するあまりクローブが帰ったことにも気が付かず、ボビンを動かし続けている。
レースに向き合うその顔は、真剣そのものだ。あまり変化しないその表情を見詰めていると、時折何らかの要因で顔が動くことがある。
ふと思い立って、クロ電話を取り出して撮り始めた。
クローブのものは海外仕様なのでカメラを起動したからと言って音はしない。
そうして時計の針は動き――
「――え?」
実ノ里が驚いたように間の抜けた声を上げる。
実ノ里にすれば、いきなりクローブが現れてクロ電話でこちらを撮っている状況だ。
「あ、やっと気が付いてくれた。集中力すごいね!」
時計の針は22時を回っている。
「クローブさん、いつお帰りに?」
「もう、呼び捨てて! 敬語も禁止!」
何度言ってもさん付けと敬語がデフォルトの実ノ里に、いつものことを言う。
「晩御飯は食べた?」
「はい、美味しくいただきました。残していません」
「おかわりはした?」
「……すみません、おなかいっぱいで……」
実ノ里の胃が小さいのはまだ治らないようだ。これから食べてもらえばいい。
「俺、これから夜食食べるから、一緒にどう?」
「え? でも、こんな時間に食べるとふと……」
「太ってください!!」
頬を膨らませて言うと、クローブは実ノ里の部屋で夜食を取れるように使用人に言う。
運ばれてきたのはフィッシュ&チップスだった。
「アイルランドじゃ、屋台が沢山でてるんだよ。軽く食べたいときにピッタリ!」
「アイルランドにもあるんですか? 私、2019年のギリギリコロナ前に、ラグビーでウェールズ代表が来た時に食べました!」
実ノ里の好物だったようで、他の料理よりも食べるペースが早い。
「立派なアイルランド料理だよ。他の地域にもあるけど……。
そういえば、実ノ里は苦手な食材ってある?」
実ノ里のことだから我慢して食べているかもしれない……。そう思って今更だが聞いてみると、
「いえ、好き嫌いはあまりないです。あ、でも、唐辛子とかグレープフルーツとかは、血圧に影響するので……。あと、お酒も、お薬に反応して悪いので飲みません。
あとは、肝臓に優しいのが好きです」
ならば、ほぼ医療データ通りの食事で大丈夫だろう。
珍しく食事が進んでいる実ノ里に隠れて、使用人にフィッシュ&チップスの追加を頼む。
「じゃあ、アイルランド料理中心でいこうか。それとも和食がいい?」
「なんでも大丈夫です」
「なら……アイルランドを好きになって欲しいから、アイルランド料理多めでいくね!」
実ノ里の胃袋の限界まで話せそうだと踏んで、クローブは話を続ける。
「そういえば、荷物に電子書籍リーダーがあったけど、どんな本が好きなの? ほら、病院で読んでたヤツ!」
「あ……ファンタジーが多いです。時々流行りのものも読みますけど……」
しめた! とクローブは笑顔になる。
「ファンタジーなら、女神モリガンとかレプラコーンとか知ってる?」
「はい、もちろん!」
「アイルランドの妖精なんだよ。
アイルランドで、キリスト教が入る前に崇められてたんだ」
通常、キリスト教の布教が成功すると、土着の神々は悪魔や邪心として堕とされる。
だが、アイルランドにキリスト教を布教に来た聖パトリックは異教に寛大だったそうだ。アイルランドに来た宣教師は聖パトリックのみではないが、一番成功したのが聖パトリックだと言われている。
彼は、諸説あるがブリテン島の生まれ(場所はイングランドと言われたりスコットランドとされたりするが)で、子どものころに奴隷商人に攫われ、アイルランドで奴隷労働を強いられた後、神の声を聞いて逃げ出してブリテン島に戻り、後に教皇の指示でアイルランドに布教で舞い戻ったのだ。
聖パトリックは、これまた諸説あるが(昔のことすぎて正確な資料がないので)、布教の際に三つ葉のクローバーを用いたとされる。
アイルランドでシャムロックと呼ばれる三つ葉は、アイルランド土着のケルト信仰でも神聖なものだった。ケルトでは3が神聖な数字とされたのだ。
聖パトリックはシャムロックの葉を用いて、神、キリスト、聖霊の三位一体を説いたとされている。
もともと神聖視されているものを用いたことで、人々に受け入れられやすかった。
「聖パトリックはもともと居た神様も追い出さなかったんだ。彼らは神として生き残ることはできなかったけど、妖精になった。
今の日本のファンタジー世界なら、アイルランドに由来する妖精や神々がたくさんいるよ」
「意外です……。ソロモンの52神とか聞いてたから……」
「あっちはああなっちゃったね。アイルランドは運が良かったのかな?」
と、実ノ里の食べるペースが目に見えて落ちた。
「あ、もうお腹いっぱい?」
「はい、とっても美味しかったです」
今日摂ったカロリーは、今までで最高だろう。クローブは皿に残ったぶんを手早く食べると、
「アイルランドに関する本は書庫に沢山あるよ。妖精の本もおとぎ話の本も日本語に訳されたのがあるから、どの本も好きに読んでいいよ。なんならあげる」
「いいんですか?」
嬉しそうな反応に、クローブの喜びも絶頂だ。
「実ノ里にあげて惜しい本はないよ!」
まだ見ぬ本にそわそわし始めた実ノ里に、
「じゃあ、俺のチョイスで初心者向けの本を選ぼうか。眠くない?」
「起きました! 目が覚めました!」
本という餌に釣られた実ノ里は、可愛かった。
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