うちにグンソウがいます

天音 花香

うちにグンソウがいます

 最近なかなか眠れない夜が続いている。

 考えてもどうすればいいのか分からないのだから、悩まずに寝てしまえれば楽なのに。

 この日も眠れずにベッドの中で悶々としていた。その時だ。


 カサカサ


 何かが動く音がして、俺はびくりとした。

 夜中にこんな音がするということは、もしかしてアレか? 見るのもおぞましいからブラッ〇キャップをあちこちに置いているし、掃除もしっかりしている。そのおかげでこのアパートに住んでから一度も出くわしたことはないのに。ついに出たのか?


 俺は恐る恐る電気をつけた。


 カサカサ


 何かが動くのが目の端に入った。俺はそちらに目をやって、その姿を見て。


「ひっ!」


 思わず情けない声をあげてしまった。そこには今まで見たことのないような大きな蜘蛛がいたのだ。ちょうど女性の手の平を広げたような大きさ。


 俺のベッドは東側の壁につけるように置いてある。その白い壁の、ベッドの足もとからやや離れたところにその蜘蛛は陣取っていた。


 冗談ではない。こんな蜘蛛が寝ている間に僕の顔を這ったり、口の中にでも入ったりしようものなら。想像するだけで恐ろしく、俺は勇気を振り絞って、小さなテーブル上にあった新聞を手にして、蜘蛛を叩こうとした。大きな割にその蜘蛛はすばしっこく、そして、意外とおくびょうでもあるようだった。カサカサと音をたてて、素早く南側の窓際の壁に移動していった。そして、ちょうど窓の上にある換気口のそばで止まり、動くのをやめた。


 俺はどうしようかしばらくその蜘蛛を睨んだ。


 長い1分が経ち、やがて、5分。10分。30分。刻々と時を刻む時計の針の音だけが静かな部屋に響いていた。


 2時40分。あくびが出た。いつも眠れないとは言え、この時間には微睡み出す頃だ。起床時間が6時半だから、さすがに寝ないとやばい。


 でも、この蜘蛛が気になる。蜘蛛は先ほどの場所からまったく動いていない。

 俺は閉じそうになる目を擦って、スマホで「大きな蜘蛛」と検索してみた。

どうやらこの蜘蛛は「アシダカグモ」というようだ。別名「軍曹」。なんと俺の大嫌いなゴキブリを食べてくれる益虫らしい。大きくて恐いのは変わらないけれど、蜘蛛の巣も作らないようだし、見かけほど悪い奴ではないようだ。


 しかし、こいつがここに出たということは、うちにゴキブリがいるのだろうか? それはそれで複雑だ。



 「軍曹」は動かない。


 俺はとうとう眠気に負けて、ベッドに入り、布団を頭までかぶった。布団の中にまで入ってこられたらおしまいだが、そんなことをするよりかは「軍曹」はゴキブリがいそうなシンク周りに行くに違いないと勝手に決めつけて。



 ピピピピ



 スマホのアラームで起きると、電気をつけっぱなしだった。それでやっと昨夜のことを思い出し、「軍曹」は? と壁を見る。「軍曹」は僕が寝てしまってから移動したらしく、西側の壁にいた。


 害がないならしばらく放っておこう。こんな大きな蜘蛛がどこから入ってきたかは謎だけれど。


 俺は気が進まない身支度を整えて家を出た。寝不足のせいもあり食欲が湧かず、駅前のコンビニでコーヒーだけを買って会社に向かった。



***



「ただいま」



 鍵をあけ、誰もいない部屋にそう声をかけるといつも虚しくなる。それでもそれまでの習慣で言葉にしてしまう。


 電気をつけると、「グンソウ」の姿が目に飛び込んできた。


 そうか、こいつが待ってくれていたな。


「グンソウ」は朝いた場所からほとんど動いていなかった。ゴキブリを待ち伏せして捕獲するそうだが、こんな壁にゴキブリが来るのだろうか?


「グンソウ。お前、狩り、得意じゃないのか?」


 なんとなく親近感を覚えて、話しかけてしまった。もちろん「グンソウ」は何も言わない。


 コンビニで買った鮭のおにぎりと野菜ジュース、ヨーグルト、そして缶酎ハイをビニール袋に入ったまま冷蔵庫に入れて、シャワーを浴びる。トイレと浴室は別がよかったけれど、そういう部屋は少し高めなのであきらめた。トイレにシャワーのお湯が跳ねないようにビニールのカーテンを閉めて、体を洗う。お湯にはだいぶん浸かっていない。背ばかりが高い自分がこういう時は恨めしい。窮屈な思いをしながらシャワーを浴び終える。冷蔵庫から先ほど入れた袋を取り出して、ワンルームの中央に置いてある小さな四角いテーブルに乗せた。


 缶チューハイをまずあけた。シャワー後、こうして安い酒を飲む時だけが至福の時だ。


「悪いな、グンソウ。食事させてもらうな」


 テレビはあるけれど、最近はなんだか耳障りなのでつけていない。無音の中、自分の咀嚼音だけがする寂しい食事。俺の家族は今時珍しい六人家族だった。兄二人と妹一人と両親。賑やかだった食卓が懐かしい。


 本当にこれでよかったのだろうか。


 自己主張の下手な俺は就活でもそれが災いして、内定が二つしか取れなかった。地元の工務店と、全国展開している不動産。不動産は営業職なのが初めから決まっていて、その分給与が高かった。大家族の居心地の良さはあったけれど、煩わしさも感じていた俺は、転勤のある不動産の方を選んだ。 実家から離れた一人暮らしに寂しさを覚えるのは早かった。


 さらに、俺は営業職に向かなかった。自分でも分かっていたけれど、ここまでとは思わなかった。


 研修を受けている時から違和感は感じていた。先輩について回っても、自分が先輩のように交渉できる気がしない。最近するようになった電話営業では、話を聞いてもらえない。そのためアポイントが取れない。


 同行させてもらってる先輩が俺のことをよく思ってないのも伝わってくる。全てがうまく噛み合わず、「出来ない新人」というレッテルを貼られ、同期の中でも浮いている。


 会社にいると息がつまる。自分が異分子であるような、居場所がないような。


 一人アパートに帰って缶チューハイを一缶飲む時だけが落ち着くとき。飲み終えると、母が作ってくれていた料理とは程遠い食事を静かにとる。そして会社で作った広告をチェックして、一応テレアポのシミュレーションだけはして、寝るだけの毎日。成果はでないままだ。



「俺、選択間違ったかな」



 地元の工務店の方に就職していたら違っていたのだろうか。最近そればかり考えるが分からない。何が正解かなんて分かる奴がいるんだろうか。そもそも俺が本当にやりたかったこと。それは……。


 でも。


 俺は「グンソウ」を見つめた。



「グンソウ。お前はそこを動かないんだな」



 ゴキブリが今の「グンソウ」の場所を通るのはどれほどの確率だろう。俺の部屋にゴキブリはいないと思うし。


 なんだか「グンソウ」と自分が重なり、悲しくなった。




***




 次の日もその次の日も「グンソウ」は同じ場所に陣取って、ゴキブリを待っていた。


 その姿を見るたびに、俺は「グンソウ」を憐れみ、同時に親しみを覚えた。


 その日も変わり映えのしないコンビニで購入した夕食をとりながら、俺は「グンソウ」に話しかけた。



「グンソウ。俺に言いたいのか? 辛くても苦しくても今の職場で頑張れと。俺はそうすべきなのか?」



 だったら俺はもっと頑張ってみよう。




 俺はそれまで以上に仕事に打ち込んだ。苦手なテレアポも電話を伸ばして切られるまで粘った。先輩と同行した時は何が自分と違うのかを必死で探し、考え、実行しようとした。


 帰宅後は毎日「グンソウ」に話しかける。


「俺も頑張る。グンソウも頑張れ!」



 それでも結果は同じだった。頑張っても空回り。そんな日々が一週間続いた。

「グンソウ」もやはり同じ場所から動かなかった。




***




「西君さあ、まだこの仕事、続けるの? いや、最近頑張ってるのは分かるんだよね。だからこそなんだか不憫でさ。やっぱり向き不向きもあるような気がするよ、俺は」



 午後、先輩がとったアポ先に同行していると、先輩が哀れむように俺に言った。その時の先輩の声に嫌味はなく、それがいっそう俺を悲しくさせた。俺は泣きそうになるのを堪えて、笑顔を作った。



「やっぱり、そうですかね。はは」



 俺の中で何かがプツリと切れた。



 その日、俺はいつもは一缶しか買わない缶チューハイを二缶買って家に帰った。



「グンソウ~、帰ったぞ~」



 部屋の鍵を開けて入ると、玄関で大きな黒いものが動くのが見えて、俺は慌てて照明をつけた。


 その黒いものの正体は「グンソウ」だった。


「お前、なんでこんな所に?」


 「グンソウ」はカサカサと音をたてて、ドアの方に移動して、一度止まった。


「グンソウ、もしかして、お前……。この部屋を出たいのか? あきらめたのか?」


 そうじゃない気がした。こいつは、あきらめたんじゃない。次に行こうとしているのだ。ちゃんと獲物がいる場所に行こうとしているのだ、きっと。


 俺は、


「そうか。分かった」


 そう言って、ドアを開けた。



 「グンソウ」はまっすぐにドアに向かって、そしてもう一度止まった。そんな「グンソウ」は俺に振り返って、「お前もいつまでそうしているんだ?」と言っているように見えた。


 それはほんの一瞬で、「グンソウ」はドアから堂々と出ていった。そして暗闇に消えた。



「俺は……。俺は……」



 俺はまた一人きりになった部屋で、缶チューハイを握りしめた。


 俺が本当にやりたかったこと。それは営業ではなくて。試験を受けても通る自信がなかったから、就職に逃げたけれど。本当は。


 俺はスマホを手に取った。しばらくかけていなかった実家の番号を出した。



「あ、母さん。俺だけど。俺、本当は建築士になりたいんだ。また実家に戻って、勉強する間、迷惑かけることになるけれど、やっぱりあきらめたくないんだ。……帰ってもよかね?」



 母は俺の言葉に、



「あんたの人生なんやから、あんたの好きにしなっせ。家のことは気にせんでよか。はよ帰ってき」



 といつもと変わらないのんびりした調子でそう言った。



 俺は翌日退職届を出した。課長は引き留めることもなく、ただ、


「分かった。今までお疲れさま」


 とだけ言った。



 引っ越し屋が荷物を運び出して、がらんとした部屋を見て、俺は「グンソウ」が今どうしているかを考えた。


 たぶんあいつのことだ。また我慢強く獲物を待っているに違いない。そして、捕まえるまで何度でもトライするのだろう。


 俺は今の職場を辞めた。それを逃げだという奴もいるかもしれない。でもそれがなんだ。


 一級建築士の資格はそう簡単には取れないだろう。それでも、俺はグンソウのようにトライしようと思う。まだまだ俺の人生は続くんだ。


 負けてもまた挑めばいいのだ。




「グンソウ、お前も頑張れよ。俺も頑張るから」



 俺は荷物を手に、部屋を出た。



                          了

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