第25話
可愛くても
ずっと莉里が俺のことをチャラ男だと思っているのかと思ったら、則子さんと会って話をしたらしく、彼女のフォローが良かったのか理解を示してくれて、その上、勘違いなのかホテル経営者の娘の緑ちゃんとは将来を考えて仕方なく…と思っているようだった。もちろんその可能性はないとは言えないけれど、そればっかりでもない。
「応援する。ピアニストになれるように、何でも。私のできること全部」と言ってくれた。
本当に素直で鈍感で可愛い。その上、マシューを預かることまで引き受けたそうだ。可愛い姉のために、俺のできることはないかな、と考えて、ふとフェットドラミュージックがあることを思い出した。音楽のお祭りで街角でいたるところで演奏されている。ほとんどが無料だ。お祭りなので、ただそういう一日を過ごすだけだけど、俺はその日に莉里の好きな曲を演奏しようと決めた。
杏ちゃんにも誘われてたし、則子さんも参加するはずだ。久しぶりに則子さんに連絡を取る。
二人で打ち合わせがてらランチを取った。人気のレストランで日替わりランチを頼む。鶏肉の赤ワイン煮込みが運ばれてきた。
「杏はいいの?」
「後で、則子さんが説明してて。ロンドンから帰国ハイで圧がすごかったから」
「それ、ロンドン関係ないでしょ? 律君が撒いた種でしょ」
「そう…かな?」
「杏ちゃんは日本の音大の教授の娘だから…仲良くしないとって関わって、おいしいところ取るから…」とため息を吐かれた。
「いや、だって、他に彼氏がいるって言うし」
「まぁ、確かにクズパーカッションと付き合ってたもんね」
「オケに入るためと、フランスに永住するためとか言ってたけど…」
「結局、別れたのよ。割とすぐに」
うまく行かなかったから、ロンドンに移動したと聞いていた。踏み台にしてもなお立ち上がる姿は素晴らしいと思うと言うと「踏み台以下だったのよ」と則子さんはにこりともせずに言う。
そんな話をしていると、莉里と偶然マルシェで会ったと言う。
「あぁ、聞いた。何か…フォローしてくれたみたいで…」
「女癖の悪さに引いてたわよ」
「うん。…まぁ、それは事実だし」と素直に認める。
すると則子さんは俺の目をじっと見て言った。
「律君の本当に好きな人って…莉里さんじゃない?」
則子さんには隠せないのだろうか。
「…え?」
「そう考えるといろいろ辻褄があうなぁって」
「んなわけ…」と一応否定しておいたが、見透かされていそうだった。
「…まぁ、別に知りたいわけじゃないけど。時々、辛い顔してる理由かなって」
「いろいろあるんです」
そんな風に見えてたのか、と思わず顔を横に向けた。
「綺麗な音をどうだしたらいいって聞いてきた日のこと、今でも覚えてる」
大分昔に感じて、恥ずかしくなった。
「なんだかすごく傷ついたような少年だなぁって思って。今では立派な狼になったけど」
「狼って…」
俺は莉里を好きという気持ちは言わないまま、家の事情を話した。莉里とは半分だけ血が繋がっていて、母親がピアニストだったということ。十歳の頃に事故死してから、不倫相手の家庭に引き取られたことを話した。
「え?」と驚いた顔を見せる。
「壮絶でしょ?」
「…だからかぁ…。本当に大変だったのね」
「そうかな。なんか幼いからよく分からないままだったかも。中でも莉里は優しくしてくれて、でもそれは姉としての義務感だから。あんまりあれこれ言わないで欲しい。背負わしたくないし」
「男前だね」と慰めてくれるから、笑っておいた。
則子さんは余計な事は言わないけれど、なんとなく気持ちを分かってくれる人だった。
「でも莉里さんの気持ちもわかるな。なんかほっとけない雰囲気だしてるもんね」
鶏肉を器用に切り分けて口に運ぶ。俺はそんなに頼りなく見えていたのだろうか。
「まぁ、そういうのに惹かれて寄って来る女性も多そうだけど。莉里さんは心から心配してると思うよ」
「分かってる。だから来る一月前に女性関係全て終わらせたのに…」
「女ってそんなに簡単には切れないわよ。男と違って。今の時代、男だから、女だからっていうのはご法度だけど、やっぱり違うもの。でもまぁ、それだけ律君が良かったってことでしょ?」とからかわれた。
後は打ち合わせをして、後から杏ちゃんから怒涛の連絡が来たけど、文字だけで返しておいた。
フェットドラミュージックの合わせをしたり、後は演奏旅行で家を空けたりと、莉里と会うことがあまりなかった。帰ってきたら寝ていたり、俺が起きた時にはもういなかったりする。ただ起きた時と帰った時にテーブルの上に美味しそうなものを並べてくれているので、妖精か小人と暮らしている気分だった。
「ねぇ、律君。家で練習しよ」と杏ちゃんが腕を引っ張る。
「もう合わせは十分でしょ? 二人とも上手だし」と引きはがそうとするけれど、杏ちゃんは反対側に回って、また腕を取る。
「あ、私、帰るね」と則子さんは楽器をしまって、あっさりと出ていった。
大きな楽器をずるずると引きずって行く後ろ姿に「助けて」とは言えなかった。
「律君、私、頑張るから。伴奏してって言ったでしょ?」とバイオリンを抱えながら器用に俺の腕に絡みつく。
「うん。でも他の人に頼んだら? 俺、今忙しいし」
「もー。じゃあ、いつになったら」と眉間に皺を寄せるから、指で眉間を押さえる。
「皺になるよ」
杏ちゃんは可愛い顔で口を尖らせる。
「じゃあ、家に来て」
「杏ちゃん、人に頼らず頑張ってみなよ」
「バイオリンはねぇ、ピアノがいるのよ」と大きな声で言い返す。
本当に気が強い。でもそれは必要なことだ。
「ピアノだけじゃないでしょ? 一人で弾く曲もあるし、他の楽器とも演奏できるじゃん」
「でも…」
「できるよ。杏ちゃんなら」と言って、楽譜を鞄にしまう。
「どうして? 私、強い人に見られるけど。でも本当は違うんだから」
「うん。分かってる。でもできる人だってことも分かってる」
「…律君。なんで、そういうこと…」
何百万もする弓を振り回していたのを止める。
「俺も同じだから。結構、ぎりぎりで頑張ってる」
そう言うと、杏ちゃんは「ずるい」と言った。
「みんなそうだよ。元カレだって…」と言うと杏ちゃんは怒りを最大にして言う。
「あいつは戦ってないわよ。なにが鬱よ。頭が痛いとか。そのくせ…他の女と。嫌いになったらそう言えばいいじゃん」
「まぁ、それを弱いと捉えるか優しさと捉えるかは…」
「もう、いい。じゃあ、本当にコンクールで優勝してやるんだから。そうなってから伴奏させてくださいってお願いするといいわ」
杏ちゃんがそう言うのが可愛いから、つい笑ってしまった。
「もう、ほんとずるい」と楽譜が飛んできた。
バイオリンは投げない理性があるところも嫌いじゃない。でもどんなに可愛くても、駄目なんだ、と思う。
「お互い、頑張ろう」と言うと、杏ちゃんが「ふん」と横向く。
ピアノの蓋を閉めて、練習室を出ようとして「あ、そう言えば杏ちゃんの部屋にピアノあったっけ?」と訊いたら「ないわよ。前も今も」と怒って返してきた。
俺は杏ちゃんのところに戻って、目を見てしっかり言った。
「ごめんね。もう本当にそう言う事はしないことにしたんだ。今、好きな人がいるから」
「え? 本当に好きな人がいるの? 日本から来たの?」
「うん。だから…心配させたくない」
杏ちゃんにもう一度「ごめん」と言って、手を振った。
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