第19話
プロポーズ
桃花さんの絵が飾られているというレストランに二人で出かけることになった。お店はショパンのお墓もあるペールラシェーズの近くだった。
「これもお祝いね」
「初めて売れたから?」
「あ、そっか。それもあったか。ううん。ピアノのコンクール」
「…え? バインミーもらったよ」
「いいじゃない。お祝いなんて何回でも。私もお花もらったし。嬉しかったから。本当に」と明るく笑う。
その体のどこかに病気がいないといいな、と思う。
「何? どうしたの?」
「ううん。…早く病院行って欲しいなって」
「そしたら、私もうこっちには戻ってこないよ」
「え? どうして?」
「だって、空家賃払うのはもったいないし、そうしたら何もかも一からやり直しじゃない。滞在許可書とか。お金だって、もう使っちゃってないのに、残高証明取れないよ」
「…結婚するとか?」
「誰と? フランス人と?」と言って笑う。
「俺と」
「結婚できる年齢じゃないじゃん」とさらに笑う。
本当に一ミリも役に立たない自分が嫌だ。そう思って、ちょっと地面を蹴った。
「ねぇ」
桃花さんが優しい声を出すので、 足を止めて見つめた。
「ありがとう」
何に感謝されているのかさっぱり分からない。
「その気持ちが嬉しい。さ、ご飯食べに行こう」
「アフリカ料理?」
「多分…。あ、でも…モロッコの料理屋さんだ」
お店はピンク色に塗られていて、料理の写真が無造作に窓に貼られていた。
「おしゃれとは言い難い」と桃花さんは口を尖らせた。
中に入ると、黄色の壁に桃花さんの絵が飾られている。不思議な気持ちになる。自分を描いているらしい絵がモロッコ料理のお店にかかっている。
「まぁ…絵の背景がブルーだから…壁の色と合うからかな」
「五十ユーロだからでしょ?」と桃花さんは口を尖らせたまま言う。
お店の人に座るように言われて、その絵の下の席に着く。
「いろいろメニューあるけど…クスクスにしようかな。タジンにしようかな」と桃花さんが言う。
「分ける?」
「いいね。クスクスは一人だと多いもんね」
「そう言えば…二人で外食って初めてかな?」
いつもやることだけして…と深く反省する。
「えー? デートしたじゃん。ジヴェルニーで」と明るい声で言ってくれた。
「パリでは初めてかも」
「まぁ…そうよね」と言って、メニューを畳んで注文した。
それから全く関係のない話を桃花さんは延々とした。絵が売れたのは自分だけだった、とか。でも他の人は桁が違ってたから仕方がない、とか。その話を聞きながら、ぼんやりと桃花さんといる時間が少しも苦痛じゃないと思えてきて、不思議だった。
「あのさ」
「何?」
「俺が結婚できる年齢になったら、結婚しよう」
「は? 何言ってんの?」
「別に…子どもいらないし」
驚いた顔をしている桃花さんに、俺は真剣に言った。
「だから帰国して検査して来てよ」
「…それってプロポーズ?」
「プロポーズ…指輪なくてごめんだけど」
沈黙の中、料理が運ばれて、二人の目の前に置かれる。いつもなら「食べようか」と話を変えるのに今日は何も言わずに沈黙している。桃花さんを見ると、涙を零していた。
「え…」
「ありがとう。本当に」
これで検査してもらえると思って、安心して料理のシェアを始める。タジンは土器の中にメイン料理と野菜が蒸されている料理だ。その蓋を取って「食べよう」と今日は俺が言う。
「美味しそう」と涙を拭いて、ナイフで鶏肉を切り分けた。
俺の取り分けたクスクスの上に載せてくれる。
器用に盛り付けられたお皿を見て、すっかり安心していた。
振られることも知らずに。
でも結果、検査は行ってくれることになった。
一週間後、モデルをしてと言われて、桃花さんの部屋に呼ばれた。
「脱ぐ?」
「そうね。上だけでいいわ」
シャツを脱いで窓際にもたれかかった。陽射しがゆるく背中を温めてくる。
(日焼けするかな?)と思いながら、窓の外を眺める。部屋の中は鉛筆が走る音だけだった。桃花さんと結婚したら、セックスして、ピアノ弾いて、絵のモデルになって…。そうして毎日が過ぎていくんだろうなと思った。
(全然悪くない)
ご飯は自分が用意したらいいか、と考える。
莉里のこと…思い出してももう辛くない。きっと。
二三枚描きあがった時に、桃花さんの部屋がノックされる。
お客が来るなんて珍しい、と俺は思った。扉を開けて、そこにいたのは日本人の男性でスーツを着ていた。
「来たんだ」と桃花さんはその人に向かって言う。
「…ごめん。本当に…知らなかったんだ」
俺はどうしていいか分からずにその場に立ち尽くした。その男の人はようやく部屋の奥にいる俺に気が付いたようだった。
「誰?」
「絵のモデルをしてもらってるピアニスト」と紹介してくれた。
「…モデル?」
「そう。まぁ、入って。別れた元旦那様」と俺に紹介した。
真面目そうな、優しそうな人だった。二人並ぶと桃花さんの空気感が和らいだ。それを感じながら俺は脱いでいたシャツを着る。心配そうな視線を送る元旦那さんを見て、胸がちくりと刺された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます