第1話

初めまして



 その人はにこにこしてて、本当に嬉しそうに笑う。生物学上の母親が事故で亡くなって、生物学上の父親が俺を連れて行った家で初めて会った。


りつ君? りっちゃんって呼んでいい?」と屈託なく笑う人を「姉だ」と紹介された。


 頷いて、ただ床を見ると、いきなり手をつながれて「こっちに来て」と言われた。


 父親っていう人と、その奥さんらしい人がため息を吐いたのが聞こえたが、繋がれた手が柔らかくて温かいことの方が心に残った。


「私も莉里りりっていうの。名前が似てるね」


「莉里…ちゃん?」と聞き返すと、嬉しそうに笑う。


「莉里ちゃんって呼んでくれるの? 嬉しい。じゃあ、りっちゃん、お腹空いてない? お菓子あるの。美味しいのよ」と俺をテーブルに着かせる。


 そして美味しそうなクッキーの缶を開けて、これが美味しいだの、これはあまりだったとか教えてくれる。それが異母姉、莉里との初体面だった。


 莉里の母親は邪険にはしないものの、にこりとも笑わなかった。晩御飯はいつも莉里と二人だった。


「りっちゃん、あのねぇ。本とか読む?」


「ううん」


「面白い本だよ?」


「…うん」


「じゃあ、貸してあげるね」とご飯を食べながら話をしてくれる。


 別に本を読みたいわけではなかったけれど、しつこく勧められるから仕方なく頷いた。本はそんなに読まない。ずっとピアノの練習ばかりしてきたから。でもここでピアノを弾くのは都合が悪いみたいだ。莉里の母親がピアノの音を聴きたくないみたいだ。だって俺の母親がピアニストで莉里の父と不倫していたからだ。ピアノを聴きたくない気持ちは分る。


「りっちゃん、練習していいのよ?」と言ってくれるのは莉里だけだった。


「…うん」


 莉里のお母さんのいない時だけ練習していた。


「りっちゃん上手ね。あの曲弾ける? ショパンのノクターン」


「うん」


 弾いて欲しそうだったから、弾いたら、ものすごく目を輝かせて褒めてくれた。


「りっちゃん、すごいねぇ。上手。もっと弾いて」


 莉里はあの頃から、悲愴の二楽章が好きだった。でも俺もたった二人でいる時に、この曲を弾くのは好きだった。莉里は俺の音を聴いて、時々違うところを見てぼんやりしていた。きっと莉里も辛さを抱えていて、癒されているようだった。


 ここに来て、夜中に泣いたこともある。莉里はなんだかんだと言って、両親から愛されていた。でも俺はいつまでも疎外感を感じながら、どこにも行けなかった。先の見えない不安と、頼れる人がいない淋しさが体をひたひたと浸していた。

 そしたら扉が開いて

「眠れないの?」と聞かれた。


 莉里が顔を覗かせていた。急いで手で涙を拭いたけれど、莉里には見つかって

「大丈夫。一緒に寝よう?」とベッドに入って来た。


 正直驚いた。十一歳だけど、何だか奇妙な気持ちになった。莉里は全然気にしない様子で頭を優しく何度も撫でてくれる。


「大丈夫よ。りっちゃん。きっと何もかも上手くいくから」


 その言葉はまったく根拠もなかったし、ただ口から出たでまかせだったけれど、俺は何だか瞼が重くなった。温かさと優しい匂いがすぐそばにあった。


 時々、莉里が顔を覗かせて、一緒に寝てくれる。初めて安心する場所ができた気がした。


「りっちゃん、日曜日にさ、お出かけしない?」と言われて、俺は驚いた。


「どこに?」


「ピアノ練習終わったら、映画でも見に行こう」


「映画?」


「うん。ディズニーとか…」


「とか…?」


「りっちゃんの好きなのでいいんだけど」


「…何でもいい」


「ほんと? 行ってくれる?」


 莉里が嬉しそうだったから、何だか誇らしい気持ちになった。

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