第11話 知らない顔

 ムール貝を食べながら、律が笑う。

「莉里、ごめん。嫌な気持ちになった」

「どうして笑ってそう言う事言うの?」

「だって、昔は莉里が可愛いって…よく言ってくれたけど…今は俺が可愛いって思えるから」

 涙で視界が歪んで慌てて俯いた。かわいい律だったから、心配もしたのに…と唇を噛んだ。

「ごめん」と言われて顔を上げる。

 真剣な顔で謝られた。

「莉里が変わってなくて…嬉しい。それなのに…ごめん」

「フランスの生活が大変だったの?」

「ううん。楽だった。ここに来て、息が…初めてできた気がした。…だから…調子乗ってた。莉里が…」

 じっと見つめられて、視線を外したくなる。

「私が?」

「そんなに心配してくれるなんて思ってなかったから」

 それを聞いて、我慢していた涙が零れた。

「心配するに決まってるでしょ。あの時、急にいなくなって…。たった一人で遠くに行っちゃって。メールもくれないし。本当の姉じゃないって思われてるみたいで…」

 テーブルの上に置いた手が震えた。私が心配しないような人だと思われていたことも悲しかったし、すっかり悪魔のようになった律に腹を立てていることも情けなくなった。私の手の上に律が大きな手を重ねられる。

「本当の姉だよ。半分は確実に…本当の。永遠に…本当の」

 律の声が苦しそうに聞こえた。

「もう改めるから」と手を握られる。

 殊勝な態度をとられると私は受け入れるしかなかった。

「…うん。本当にいつか…素敵な人が現れるから…」

「莉里にも」


 私はベッドで寝るとなんだか複雑な気持ちになった。ここで律が多くの彼女と過ごしたのかと思うと、何だか寝つきが悪い。変な妄想もしてしまうし、一度起き上がって、水でも飲もうかと思った。そっとリビングに行くと律がソファベッドで眠っている。月明りが窓から入って、私は窓の方に体を移動させた。静かな夜に、向かいのマンションの窓はところどころ灯りがついている。また向かい側の男性と目が合うと困るなぁ、と思いながら窓から離れようとすると、マシューが夜の散歩をするように優雅に隣の窓から出てきた。そして見た目とは違って、軽々とこちらの窓に飛び移り、私の横をすり抜けて入ってきた。

「マシュー」と思わず声を上げると、律が体を起こした。

「莉里? 何してるの?」

「マシューが」

 マシューは我が物顔で律の寝ているソファベッドに乗っていった。

「ああ。マシューが来たんだ。窓閉め忘れてたから」と律はマシューの頭を撫でた。

「お水飲みに来たら…月が綺麗で」

「そう。今日は満月? 明るいね」と律が言った。

 猫と律は月明りに浮かんで、絵画のように美しかった。

「寝れない?」と律に言われた。

「あ、ううん。喉乾いて…。ワインのせいかな」と私は冷蔵庫の前に行く。

「俺も飲もう」と律もベッドから出てきた。

 冷えたミネラルウォーターを取り出して、二つのグラスに注ぐ。一つを律に渡して

「やっぱり嘘。眠れないの」と白状した。

「どうして?」

「…私がソファベッドに寝ていい?」

「理由を聞かせて」

「あの…ベッドで、律は…その特定…多数の方と…愛し合ったのかなって思うと」

「あー、ごめん。気持ち悪くなった?」

 私は潔癖症なのだろうか、と自分でも不思議な気持ちになる。

「気持ち悪いとか…、そうじゃなくて…なんだか悪いような…」

「大丈夫だよ」

「え?」

「ベッド、使ってないから」

「ソファベッドで?」と言って、何を聞いているんだろうと私は思った。

「ううん。家には入れたことない」

「え?」

「相手の部屋でしてたから」

 相槌も打てずに私は固まった。

「ほら、ややこしいでしょ? 落とし物して帰られたりしたら…」と平然と言う。

「同時にお付き合いしてたの?」

「そういうこともあったかも」

 私は目の前にいる律が平然とそんなことをしていたことが、受け入れられなかった。

「律…だめよ。そんなこと…。そんなことしちゃ…相手にも…律自身にも良くない」

「…ごめんって。もうしないから」

 なぜだか、涙が零れた。いろんな思いがぐちゃぐちゃになる。律に完璧を求めていたわけじゃないけれど、ただ悲しかった。愛が分からないという律、多数の女性と付き合う律、それは私の想像を軽く超えていた。

「…水飲んで」と律にグラスを渡される。

 私はグラスを手にして動けなくなる。

「莉里…。どうかしてた」

 本当にかわいかった弟はどこへ行ったのだろう。

「…がっかりした?」

 私は首を横に振った。

「…知らない人…みたい」

 律はもう一度「ごめん」と言って、水を飲み干してソファベッドに戻って行った。私もベッドに戻ろうとして、歩き出すと、マシューがいつの間にか足元に来ていて気づかずに尻尾を踏んでしまった。

 猫の叫び声を聞いて、律が起き上がる。

「ごめんなさい。マシュー。ごめん。痛かったよね?」と謝るものの、マシューはすごい勢いで窓から出て行った。

 律と目が合うと、律は笑いを堪えて

「おやすみなさい」と言う。

 私は背中を向けて、飲み残していた水を一気に飲んで、ベッドルームに移動した。

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