第9話

蛙化元カレ


 夜になって、律にコンサートに誘われたのでお出かけ用のワンピースを着る。一着、可愛いのを持ってきていた。ミントグリーンのハイウエストのワンピースだ。

 私が着替えて律と洗面所を交代する。


「莉里、フェット ド ラ ミュージックって知ってる?」


「音楽祭?」


「そう。夏至の日にあるんだけど、莉里も来て」


「律が弾くの?」


「うん。マルシェと公園で」


「行く」


「その服、似合ってるね」と律がすれ違った後で言う。


「…ありがと」


 大人になった律はやっぱり落ち着かない。私は窓際に行く。向かいのアパートの人の家が丸見えだ。でも向こうは全然気にしないようで、窓もカーテンも全開にしている。

 どの家も可愛いと思っていると、向かいの窓に男の人が現れた。そして目が合うと、微笑みかけてきたので、私は慌てて曖昧に笑って、壁に体を隠した。

 フランスの人はこうして知らない人とコンタクトを取ってくるけれど、慣れない私はどうしていいのか分からない。律は慣れたのだろうか、と思う。

 私と会わない七年の間に、私以上にいろんな経験をしたんだろうと思う。

 きっと恋だってしている。

 律が髪をオールバックにして出てきた。


「…」


 大天使ミカエルがバンパイアのような色気を伴ってしまった。しまったというのは私個人的な感想で、きっと男前が数段上がったのだろうけれど、そのせいで変に緊張してしまう。


「莉里…行こっか」と麻の黒いジャケットを羽織った。


「…うん。すごくおしゃれだけど…やっぱりそれくらいした方がいい?」


「うーん? 莉里はそれでいいと思う」


「そうかな」と口の中で呟いて、二人で部屋を出た。


 地下鉄に乗っていると、律は綺麗な日本人の女の子に声をかけられた。


「律君」と言って、私をじろじろと見た。


「緑ちゃん。久しぶり」


 下の名前で呼ばれている女の子は嬉しそうな顔を見せる。


「コンサート行くの?」と律が訊く。


「そう。律君も?」


 そうして、音楽仲間なのか、二人はしばらく知り合いの誰かについて話していた。


「律君の彼女?」とさっきから、ちらちら私を見ていた緑ちゃんはついに我慢ができなかったのか、律に訊いた。


 律が少し笑って「姉だよ。綺麗でしょ?」と言った。


 途端に緑ちゃんは探るような視線を止めて、私にも愛想が良くなった。


「律君にお姉さんがいたんですか? そっくり。美人です」とお世辞も大盛になる。


「あ、いえ。いつも弟がお世話になってます」と頭を下げる。


 緑ちゃんは慌てて頭を下げる。

 そして同じコンサート会場に行くのだから、そのままずっと緑ちゃんが横にいた。話題にもついていけない私はなんだか仲間外れされたような気持ちになる。                                

 ただコンサート会場に着いたら緑ちゃんはチケットを持っている友達と落ち合うみたいで、そこで別れることになった。別れてから、律が深いため息を吐いた。


「…疲れた」


「楽しそうに喋ってたのに?」


「楽しそうに喋った…から、疲れた」と言って、私の手を握った。


 人気ピアニストというだけあって、観客の人数も多かった。人込みに紛れて、はぐれないようにするつもりだろうけれど、私は驚いた。でも手を振りほどくのも変な気がしたし、何だか振りほどいていいのかも分からない。


「莉里は気にならないの?」


「え?」


「元カノなんだよ」


「えー? 友達かと思った」


 律は笑って「そんなわけない」と言う。


 その「そんな」が「どんなわけ」か分からなくて、どういう反応したらいいのか少し困った。


「莉里の元カレはどんな人だった?」


「元カ…カレ…」


 完全に男気がないことを気づかれている。


「だって彼氏いたらフランスになんか来ないよね?」


「まあ…。そう…だけど」


 元カレと言っていいのか分からない。告白されて、二三回、デートした相手だった。一つ上の先輩で、恰好良くて、明るくて、スポーツマンで、悪いところが何一つ見つからなかった。

 告白されて、断る理由もなくて、私はデートに出かけた。水族館に行って入ってすぐ、


「暗いから手をつなごう」と言われて手をつないだ。


 手をつないで、その瞬間、なんだか気持ち悪く感じた。水族館というデート先を選んだのも、このためじゃないのか、と。手をつなぐという行為が気持ち悪く感じた。ただ手をつないだというだけなのに嫌悪感が膨らむ。

 でも私は何も言えずに我慢した。きっとみんなそんなものだろうと思ったから。

 帰りの電車に揺られながら、どうにかして手を離してもらえないかとそればかり考えていた。


「今日は楽しかった?」


「あ、ちょっと緊張して」


「かわいい」と言われた言葉すら気持ち悪かった。


 大学の先輩というだけで、相手のことを何もわかっていないのに、こんな気持ちになってしまうのは申し訳ないと思いながらも、辛かった。

 仲の良い友人に相談したら


「慣れるよ」と言ってくれたから、やっぱり慣れてないだけか、と思った。


 三回目のデートでカラオケに誘われて、そこでキスをされて、本格的に無理になった。

 体の内側から震えてしまって、泣いてしまった。

 お付き合いを断る話をしたら、翌週から私の周りに人がいなくなった。仲の良い友人が


「莉里って…浮気してた?」と聞いてきた。


 どうやら先輩が私が浮気していたから付き合うのを止めたと言っていたらしい。


 自分でも抑えられない身体反応について後から調べたら蛙化現象だというのだと知った。先輩は悪くないのに生理的にどうしても受付られなかった。



「莉里?」


「あ、ごめん。元カレ…は、いい人だった」


「そう? でも顔、暗いよ」


「うん。初めてだったから、付き合い方とか分からなくて…それで上手くいかなくて」


 こんなことを律と話すことになるとは、と少し思ったけれど、律なら変な風に受け止められない気がしたから詳しく話した。


「いい人なのに…気持ち悪く感じちゃって。自分が変なんだけど…」


「ふーん。それは莉里が本当に好きじゃなかったんじゃない?」


「うん。まぁ…。でもいい人だから好きになるかなって」


 すると律が笑う。


「莉里らしい。でも…ちょっとかわいそうだな」


「先輩が?」


「莉里が」


「え?」


「きっと、そいつが下心を我慢できなかったんじゃない?」


 律が言うには、まだ好きになってもないのに、手をつないだりされて怖くなったんだろうと。うっすら見えてしまった下心に恐怖心と不信感が生まれたと説明された。


「だって、ほら。今、俺と手をつないでも莉里は嫌な気持ちになってる?」


 そう言われれば、座席の合間をぬう間もずっと手をつないでいる。見つけた座席に座って、ようやく手を離す。


「そっか。律は下心ないからだ」と私は納得して律を見た。


「そう。それと、莉里が俺のこと、好きだから」


 突然言われた言葉が突き刺さったが私はその正体に目を逸らした。


「うん。そう。だって…可愛い…、あ、今は恰好いいか…弟だもん」


 私は焦らないように言いたかったが、なぜか上手く口が回らなかった。


「莉里は本当にかわいそう」


「え?」


「最初の男がそんなやつで」


 思わず目を大きく開いて律を見たが、何も言えずにそのまま舞台に視線を戻した。弾かれる予定のピアノが舞台に置かれているだけだった。

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