第8話

遠くなった弟


 ノクターンは綺麗な曲なのに簡単には弾けなかった。左も右もよく飛ぶ。


「うー」と自分の手ながら苛立ってしまう。


 知っている曲だけに上手く弾けないのはストレスになった。片手ずつ練習すると上手くなると聞いたのに、全然上手く弾けない。何度も左手だけ弾いていたら、ドアが開いた。


「莉里? ピアノ弾いてるの?」と律が帰って来た。


「あ、お帰りなさい」と私が立ち上がると、少し疲れたような笑顔で「ただいま」と言った。


 そして、ソファに体を投げ出す。


「疲れてる? お茶入れようか?」


「うーん。ピアノ…弾いて」


「え?」


「ノクターン、練習してたんでしょ?」


「うん。でも…上手くいかなくて。今左手だけ…」


「聞こえてた」


 律が動かないので、また椅子に座って左手の練習をする。律は黙って目を閉じていた。しばらく弾いたけれど、少しも上手くならないので、弾くのを止める。


「止めるの?」


「才能ない」


「そんなことないよ。左手弾くから、右手弾く?」


 律が起き上がって、私の椅子に半分、座ろうとする。半分ずつ座って、律が左手を弾いてくれるから右手のメロディを弾く。でもやっぱり間違えたりして、難しい。


「もう、律が弾いて」と私は弾くのを止めた。


「ずっと練習してたんだ」


「分かる?」


「分かるよ。すごく…練習したのが。間違えた方法で」


「もー」と口を尖らせると、律はピアノを弾いてくれた。


 ノクターン。

 お母さんがいないと私は律を呼んで、ピアノを弾いてもらった。小さい律はピアノを弾くときだけはすっかり大人びていた。

 どうしてこんな音が出るんだろう、と不思議だった。虹色のシャボン玉のようにふわふわと綺麗な音が見えるようだった。私は律のピアノに包まれていると淋しさが癒されていった。

 冷えた関係の両親。私に無関心なのか、申し訳なさからなのか距離を置く父。母は過干渉なところもありながら、家にいることが少なかった。ご飯は作り置きしていたおかずを食べたり、たまにお手伝いさんを雇って、ご飯を用意してくれていた。いい人だけれど、お手伝いさんはお仕事をして帰っていく。私はいつも一人で夕飯を取っていたから、律が来てくれて、本当に嬉しかった。二人きりで食べるご飯は幸せに思えた。

 あの時、私は初めて家族というものに触れた気がした。



「莉里?」


「何? すごく素敵だった」


「…感激してくれてありがたいんだけど、お腹空いた」


「あ…。ごめんなさい」


 できる姉なら何か食べるものをすぐに作ってあげるべきなんだろうけれど、と慌てて台所に向かう。冷蔵庫にはハムがあった。


「パスタならすぐ作れる」


「パスタ?」


 私はお湯を沸かして、ハムを切った。瓶のパスタソースをフライパンにぶちまける。ゆであがったパスタと混ぜるだけでできるのだ。


 粗末なパスタを出したのに、律は嬉しそうに微笑んでくれた。


「莉里…ありがとう」


「え? ごめんね。こんなのしかできなくて。コルドンブルーに料理習いに行こうかな」と力なく笑った。


「シェフになるの?」


「律専属のシェフになれるかな」と冗談を言ったのに、律はじっと私を見ていた。


 何だかいたたまれない気持ちになって、パスタを食べる。シンプルにパスタソースの味のパスタができている。


「コルドンブルー行かなくていいよ。ちゃんと美味しいから」


 それはメーカーの努力と言えると心の中で呟いた。私が俯いているからか、律が夜に出かけようと言ってくれた。有名ピアニストのチケットをもらったから、と言ってくれた。

 パスタを食べ終えると律は後片付けをしてくれた。


「洗濯しようか?」


「自分で洗濯機に放り込むよ」


 律がなんでも自分でできてしまうことがちょっと淋しい。


「少し…昼寝だけど、真剣に寝ていい?」


「うん?」


「リビング、眩しいから莉里のベッド借りるよ」


 もともとは律のベッドだけれど…と思っていると、そのままシャワーを浴びに行った。私はマシューが来ないかなと思ったけれど、そういう時に限って、マシューはやってこなかった。

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